第五十六歩 【ルイとフェルの過去 後編】

 俺には兄弟がいた。

 でも、兄弟とはいっても血は繋がっていない……それどころか兄は人間ですらなかった。

 俺が泣き出すとすぐに飛んできて俺の顔や手足を舐めて宥める兄はふさふさで温かくてちょっぴり獣臭い。


 タロウという名の雑種犬。

 上下で黒と白半々の毛並みを持ち、ハスキーの大きさに柴犬に似た顔の兄は俺が生まれる三年前から家にいて、父さんと母さんは変わらぬ愛情を俺たちに注いでくれていたことを俺はビデオで見ている。

 

 俺が三歳になった頃、全員でピクニックに行こうと車に乗り込んだ。

 俺は幼かったからかすぐにうとうとし始め、いつの間にか眠ってしまっていたからそのあとのことは詳しく覚えていない。


 気が付くと俺はタロウに咥えられて車の外に出ていた。

 ガタガタと小刻みに震える身体と目の前で土砂に流されていく見覚えのある車。

 何が起きたか分からなかった俺を泥だらけで息を荒くしたタロウが優しく舐めている。


 後になって聞かされたことだが、俺たちの乗った車は土砂崩れに巻き込まれたらしい。

 全員は助からないと悟った母さんがタロウを外に逃がし、俺を放り投げたのだという。


 両親が親戚とは疎遠だったこともあり、俺は行く当てがなく、近くの施設へ預けられることとなった。

 もちろんその施設にタロウの居場所はない。

 タロウは他の人の家へと連れて行かれ、俺たちは離れ離れになってしまう。


 でも、唯一残った肉親にどうしても会いたかった俺は施設を脱走しては周囲を探し回っては捕まり、また脱走しては捕まりを繰り返した。

 何度も何度も繰り返し、周囲に心を閉ざしたまま半年が過ぎようとしたその日――


「ルイ君、あなたに会いたいって人が来てるわよ」


 施設の職員に促され、俺は玄関へ出ていく。


(また隙を見て逃げ出せるかもしれない)


 そんな考えを巡らせていたその時――


「ワゥン!」


 俺はその声を聴き、駆け出した。


 忘れることも間違えることもないその声は――


 俺は無我夢中で玄関先に見えた陰に抱き着く。

 声をあげて泣く俺を優しく舐めるタロウ。


 俺はこの時、両親が亡くなって初めて声と感情を出したのかもしれない。

 施設の職員たちは驚くとともに、安堵の表情を浮かべていた。


「類君よね?」


 俺は頭上から降ってきた声に顔を上げる。

 そこにはタロウのリードを持った優しい顔をした初老くらいの女性。


 女性は俺とタロウの頭を撫でると、俺に目線を合わせて告げる。


「私ね、タロウ君と一緒に住んでいるの。でも、タロウ君が何回も何回も家から出ていくものだから、心配でね。よくよく調べてみたら事故で生き残った男の子がいるって聞いて会いに来たの」


 タロウも俺を探していた。

 その事実を知っただけで俺の涙は止まらなかった。


「少し一緒に待っていてね。ここの偉い人に話があるから」


 女性はそういうと俺にリードを預け施設の中に入っていく。

 俺は二度と離れまいと強くリードとタロウの身体を抱き込み、ただただ時間が過ぎるのを待った。


 長いような短いような不思議な感覚で待ち続けていると、さっきの女性と施設に入って最初に挨拶した男の人を連れて戻ってきた。


「類君、少し相談があるんだけど……いいかしら?」


「嫌だ! 僕はもうタロウと離れない! ずっと一緒にいる!」


 また引き離されることを恐れて俺は精一杯声を上げる。

 女性はその言葉に優しい頷きで返すと俺の頬を撫でた。


「私もあなた達は一緒にいたほうがいいと思うの。だからね……私の家に来ない?」


 俺は女性の発した言葉の意味が分からなかった。

 タロウにしがみつきながら呆然とする俺に女性は微笑みながら続ける。


「おばさん、独りぼっちで住んでいるからタロウ君が来てくれて本当に嬉しかったの。でも、まさかタロウ君の家族がいるなんて知らなかったわ。だから、類君もタロウ君と一緒に私の家に来てくれないかしら?」


 俺は千切れんばかりに首を縦に振り、泣きじゃくる。


 こうして俺はまたタロウと暮らせることになり、女性=沢渡 恵さんの養子となった。



 俺が沢渡という名字になって二年が過ぎた。


 恵さんは本当に良い人で両親に負けない愛情を注いでくれた。

 最初はタロウにしか心を開かなかった俺も徐々に打ち解け、沢渡という名字にも慣れてきた頃、その事件は起きる。


 いつものように公園で遊んでいた俺が思い切りボールを蹴ると、ボールは思いもしない方向へ飛んでいく。

 何かにぶつかったような音がして、俺は急いでボールを取りに行く。


 しかし、その先から大きな怒鳴り声が聞こえてきた。


「誰だぁ! 俺のバイク、傷つけやがってぇ!」


 俺はその恐ろしい声に固まる。


 垣根の向こうから顔を出したのは髪を染め、煙草をくわえた世にいう不良といった印象の学生たち。

 高校生くらいかとは思うが、当時五歳の俺にはとてつもなく恐ろしい巨人に見えた。


「んだ? このガキ! どうしてくれんだよ、オラぁ!」


 俺が子供だと見ると不良たちはより高圧的な態度を強め、俺の胸ぐらに掴みかかる。


「ちょっとお仕置きが必要じゃね?」


 仲間の一人が面白半分で言うと、俺をつかんだ不良はニヤリと笑う。


「そうだなぁ! 社会の厳しさを教えてやるのも、大人の仕事ってもんだよなぁ」


 ただただ震える俺の頬にぺちぺちと拳を当てて面白がる不良たち。


「や、やめてよぉ。ごめんなさい……ごめんなさぃ!」


 俺は今にも泣きだしそうになりながら必死に謝ったが、不良たちはますます面白がる。


「お兄さんたちは優しいからさぁ、泣いて謝ってくれるなら許してあげちゃうぜ。一発殴るくらいでな!」


 俺の顔に当てていた拳を思いきり振りかぶる不良。

 俺が強く目をつぶった時、何かの影が俺の瞼の裏に映る。


「バウ!」


「な、なんだこいつ! 痛ぇ! 離れやがれ!」


 俺が目を開けると、そこには振りかぶった腕に噛み付くタロウの姿。


 不良は俺を放り投げると、タロウを剥がしにかかる。


「ウウウゥゥゥウゥ!」


「畜生! 離れろ! 離れろってんだよ!」


 不良がどんなに頭を殴っても、身体を蹴っても呻り声を挙げたタロウは離れない。


 しかし――


「このクソ犬がぁ!」


 逆上した仲間の一人がバットを振るう。


ドゴッ!


 鈍い音が辺りに響き、俺の目の前にタロウが倒れ込んだ。


「お前たち! 何をやっている!」


 騒ぎを聞きつけた人が通報してくれたのだろうか、警察官が数人、公園に入って来た。


「やべぇ! 逃げろ!」


 不良たちは蜘蛛の子を散らしたように退散する。


「君、大丈夫か? 怪我は?」


 動かなくなったタロウに寄り添い、呆然とする俺に警官が声をかける。

 その後、連絡を受けた恵さんが駆けつけてくれたが、タロウは二度と動くことはなかった。

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