@eleven
「尼別芽捜査一課長?」
デスクに広げたA4サイズの書類とにらめっこして捺印しようとした其の瞬間にかかった声がそれだった。ストレートに飛んでくるやや温度の高い、引き込んでくるような声。しかしその声を生む意思を、正直尼別芽は嫌悪に近く否定することにしている。
「…なんでいる」
「そんなつれないこと言わないでくださいよ。昨日の事件について、報告書ができたら共有お願いしたいなってことになって、さっき朝霧警部補にもお願いしたんです」
甘い声。まるで誘惑でもしているかのようなその声。尼別芽はあいも変わらずデスクの書類とにらめっこしているが、無視をすることはしなかった。
「要件より先に名乗りなさいよ」
「なら顔をあげろよじじい」
豹変する声に、つい思わず弾かれたように顔を上げてしまう尼別芽。
「ふふ。やーっと目をみてくださいましたね。名乗り忘れのご無礼、お許しください。内閣情報調査室特殊情報解析班、
「今内調に渡すものはないよ。これからだしな」
「わざわざ電話でもなく出向いてきてんだもう少し態度ってもんがあるだろ」
まるで無骨な物言いにそれは壮年の男のものであるようにも感じられるが、しかしそれは目の前、甘い声で尼別芽に話しかけ始めた、到底ない超デョクインなどとは思えない可憐な容姿の日奈円のもので間違いはなかった。
「…わかった。ただ、担当したのが朝霧と
「なるべく早めにほしいなぁ。でないと浮気しちゃうから」
「浮気ってなんだ」
「他の犯人に。あ、これはジョークですよ」
「帰国早々かますな君は」
「だって。空白が関わっているのでしょう?」
「まあ、確かに?」
尼別芽は書類作業を一旦頭から抜く。
「今回も
「育成対象ですからね。可愛い生徒のことは、やっぱり常に」
「嫌われてんじゃなかったかっけ?」
「それはそうですよ。
尼別芽に背を向けて、デスクに軽く腰掛けた後ろ手に、書類の下に封筒を滑り込ませる。
「レズビアンか?」
「今更ですか?あたしの恋心は女の子にしか動かされないの」
「へーへー」
尼別芽は其の封筒を書類に紛れさせて引き出しに仕舞い込んだ。
「じゃ、報告書の件はお願いします。官房命令でもあるので」
「それを先に言ってくれ」
「ごめんなさーい。それでは、これで。またお食事しましょう」
「遠慮しとくよ」
「連れないんだぁ」
そう言って日奈円はひらひらと後ろ手に振って一課のオフィスを後にしていく。
「…ちっ」
尼別芽の舌打ちは、けれど其の他の誰の耳朶に届くことも、鼓膜を震わせることもない。その表情すら、すぐに書類に向き直る尼別芽の態度によって、煙草の煙のように霧散した。
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