80年代後半から90年代前半まで、土地バブルはなぜ発生して弾けたのか

 日本の80年代なかばから90年代のバブル時代の景気はすごかった。


 だがそのすごい景気の良さがむしろ大問題だったと思う。


 なぜならそれは見かけだけで実体が伴わないものだったからだ


 目先だけ日本の土地の価格が上がり、それにひきずられて株やゴルフ会員権の値段も上がってしまい、実体に合わない金を日本が持っていたことになってしまったのに、まるでそれが本当の日本経済的実力だと勘違いしたということなのだと思う。


 また給料の上昇はそれに追いつかなかったから一部の人間以外には実はさほど恩恵がなかったというのもあった。


 まずバブルが始まる10年前に遡る昭和48年(1973年)日本全国のスーパーからトイレットペーパーや洗剤が消えた。


 これは昭和48年(1973年)10月6日に第四次中東戦争が勃発したことで、OPEC加盟産油国のペルシャ湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げ、翌日10月17日には原油生産の段階的削減を決定し、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエルの支持国であるアメリカ合衆国などへの経済制裁としての石油の禁輸を相次いで決定し、原油価格は11.65ドルへ引き上げられた。


 日本は昭和37年(1962年)10月には原油の輸入自由化を行っていたが、エネルギー源を中東の石油に依存してきた日本経済も直撃した。


 すでに列島改造ブームによる地価急騰でインフレがすでに発生していたが、昭和49年(1974年)における物価指数は23%上昇したし、この時は太平洋戦争による石油の禁輸でどのような状態になったか覚えていた人間もまだ多く、一次エネルギーの供給に占める石油の割合は77%と非常に高いうえに、その8割近くを中東からの輸入に依存していたため、石油の供給が止まることによる工場の停止による物不足とそれにともなう急激なインフレが進行する、要するに、「石油がはいってこなくなれば物資が不足するのではないか」という不安が広がり、トイレットペーパーや洗剤などの買い占めに走り、それによる売り惜しみ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速された。


 そのために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資を抑制する政策がとられ、戦後初めてのマイナス成長となり、60年代から続いていた高度経済成長はここに終焉を迎えた。


 これにより日本国債が大量に発行され昭和54年(1979年)には譲渡性預金が導入され、家計の余剰資金を銀行が吸い上げるようになったが国債残高はGDPの35.3%まで膨れ上がることになった。


 バブル時は大蔵省の指示で株価維持工作かぶかいじこうさくに協力していた。


 金融業界と大蔵省のその強い癒着ゆちゃくぶりは、過剰な接待、賄賂わいろなどとともに、バブルが崩壊するにつれ明らかになる。


 アメリカではモノの値段はあがるが給料は上がらず、失業率も高いスタグフレーションで苦しんでいた。


 そのためインフレを止めるためにと金利を上げすぎた。


 昭和56年(1981年)にはなんと金利が20%を超えてしまい、ドルが人気を集めてドル高になり円やドイツマルクは安くなったが、それによりアメリカでは日本やドイツ、フランスなどの自動車が見かけ上、安くなって、アメリカの車が全然売れなくなった。


 そもそもアメ車は燃費が悪すぎるし、壊れやすいと評判が悪かったというのもあったりはするが、ともかくアメリカは日本、西ドイツ、フランスなどへの貿易赤字が莫大なものになった。


 昭和56年(1981年)には黒字だったアメリカの貿易収支は、昭和60年(1985年)には2000億ドルを大きく超える赤字になっており、アメリカ政府の財政赤字も2000億ドルを超えていた。


 これを無理やりなんとかしようとしたのがプラザ合意だ。


 1985年、プラザ合意によって急激な円高ドル安が進行し、1ドル259円で高値をつけていたドル円相場は、たったの数ヶ月後には150円を割り込み、1年後には 1ドル=120円台まで円高がすすんだ。


 これにより海外のものが今までのおよそ半額という安い値段で買えるようになり、海外旅行へも行きやすくなったことから、日本人は海外旅行とブランドバッグなどの爆買、東南アジアへの買春ツアーなどがブームとなり、ハワイを中心に海外の土地なども買い漁り、日本企業によるアメリカの企業や不動産の買収、美術品などの買い占め、生産拠点の東南アジアやアメリカなど海外への移転やアメリカでの現地生産、外国で生産した工業製品の逆輸入やOEM生産が盛んに行われたが、それは要するに日本国内ではなく海外に金を落とし、海外の雇用を増やしただけで日本の雇用はその分減る事になったのだが、バブル景気で人手不足だと誤認していた製造業は国内の雇用を増やしていたがこれによる、日本の産業空洞化が起きたわけだ。


 このとき大蔵省は、日本の銀行に金利を引き下げさせお金を借りやすくすることで日本企業を助けるよう圧力をかけ、大蔵省出身で彼らと仲の良かった日銀総裁は昭和60年(1985年)年には約5%だった公定歩合を、合計4回引き下げて、翌年の昭和61年(1986年)には3%まで、その翌年昭和62年(1987年)には過去最低の2.5%までさげた。


 金利が下がれば貯金を続けるのは馬鹿らしくなり、逆にお金を借りてそれを使い出しそれにより景気が良くなって企業は儲かる、と考えられてるからだな。


 しかし、オイルショックによって高騰していた原油価格が下がったうえに、円高で輸入価格も下がったことで、金利を引き下げても日本国内の物価はほぼ上昇しなかった。


 そして銀行から借り入れた金で投資が行われたのが不動産や株などで資産価格が上昇した。


 日経平均株価は昭和60年(1985年)にはようやく10000円を超えたのが、昭和64年/平成元年(1989年)12月29日には38957.44円をつけ、翌年には4万円を超えるだろうと思われていた。


 しかし平成2年(1990年)1月には株価が大暴落した。


 当初は昭和62年(1987年)10月19日のブラックマンデーでの暴落と同様に半年もすれば回復するものと思われたが実際には回復することはなかった。


 ブラックマンデーのときには株価を維持するよう大蔵省は4大証券会社の代表に日経平均株価を支えるように要請し、これは銀行や証券会社を使って企業に株や不動産に投資をさせることだった。


 株や不動産を売って利益が出た時の税金を低く抑える制度を企業のために整備して、その利用を認めたことで証券会社は利回り保証のついた商品を企業に販売しまくり銀行はとにかく金を貸してどんどん不動産投資に使わせた。


 企業は本業以外の株や不動産投資での見かけ上の収益が急に大きく伸びたから、どこもかしこも財テクに乗り出した。


 財テクで儲かった金で設備投資を行ったことから製造業の生産力は上昇し人手不足にもなった。


 円高で海外で物が売れなくなっても、日本企業はその時点は気にしていなかったわけだ。


 そして銀行は企業に金を貸すときにどれだけ儲かっているか? ではなく企業がどれだけの土地建物を持っているのか? それだけを見るのが普通になってしまい、企業の業績が実際どうなのかを見抜く目を失っていった。


 そしてこのバブル景気で公園に使うために自治体に自分の土地を提供していた地主が土地を返してくれと返還要求を行ったことで公共の公園がなくなっても行った。


 しかしここであることが起こった。


 昭和63年(1988年)12月29日年に大蔵省の傀儡のような日銀総裁が退任し、うって変わって日銀生え抜きの日銀総裁が新たに就任した。


 このころには土地の価格があまりに高くなりすぎて、普通のサラリーマンは家を買うことが無理な状態になっていたことから行き過ぎた地価の上昇を止めようとしたのだがそれはあまりにもおそすぎた。


 昭和64年/平成元年(1989年)には公定歩合を引き上げ2.5%から3.25%へ引き上げ金融引き締めを開始。90年8月には6%に上げた。


 平成2年(1990年)3月、金融機関に不動産業への貸し出しを規制する融資の総量規制を開始した。


 これは不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑え、不動産業、建設業、ノンバンク(住宅金融専門会社含む)に対する融資の実態報告を求めるというものだった。


 これが事実上のバブルを弾けさせる鍵となった。


 企業が保有する株式と不動産という資産価格が下落しても、その購入のための負債、要するに借金は減らないという問題を認識していなかった財務省や日銀に問題があっただろう。


 なお不動産向け融資は住宅金融専門会社(住専)を対象とせず、また、農協系金融機関は対象外とされたため農協系から住専、そして不動産投資へと資金が流れることとなって住専の不良債権問題悪化へとつながった。


 さらに日銀総裁は5回にわたって金利を上げて不動産価格を下げようとし、公定歩合6%にあがったがこれは株の平均配当利回りを大きく超えていたため、株価は暴落し平成2年(1990年)9月には日経平均がついに2万円を割り込んだ。


 そして景気が悪化しはじめバブル時代の必要以上の設備投資及び雇用対策に日本企業は苦しむようになった。


 これが後の大幅なリストラや非正規雇用を招くようになったわけだ。


 平成4年(1992年)には日経平均が1万4309円まで下がったことで最高値で株を買ったものは大きな損失を出した。


 この時の不動産価格もバブル絶頂期の価格から60%下落して土地を担保にして銀行からお金を借りて不動産で儲けようとしていた者が破産して、銀行による担保の追加や貸し剥がしが横行し、金を借りられなくなり従業員に給料を払えなくなってそのまま倒産する企業が増えるという悪循環を生んだ。


 借金返済のために株式や不動産を売って現金化したことで株や不動産の価格が下がり続けた。


 ここで政府は6850億円の税金を住専に投入して救済したが、これはJAバンクや農林中央金庫など農協系金融機関が住専にかなりの量のお金を貸しており、住専を破綻させると、住専に金を貸していた農協系金融機関も破綻し、農家は自由民権党の票田だったから住専を助けたが、住専の損失の大半は暴力団絡みの不動産融資からくるものだったと日本中から批判された。


 そして大手銀行や四大証券会社の一つも潰れるに至った。


 これがバブル経済の発生と破綻だがバブル崩壊後、企業はリストラと海外生産拠点への移動などで不況の乗り切りを図ったが、それはさらなる日本の産業空洞化を招いた。


  そして平成11年(1999年)派遣業種の原則自由化で非正規雇用が激増するが、それは収入が少ない人間を激増させ未婚化をさらに推し進め、日本の消費活動も低迷させたがその後のiTバブルの崩壊、2008年10月のリーマンショックによる株価暴落などもあり、更に2011年の3.11東日本震災と福島第一事故を境に日本人口の大幅な減少が人口オーナスとなって日本はさらに衰退していったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る