十月二日(木) 朝 電車内 【直球】

 国府宮駅の階段を駆け上がると、電車は既に到着していた。

 本来ならあと1分早く到着できた。

 だけど右肩を念入りにグルグルと回しながら走っていたので、若干遅くなってしまった。


 一番手前の車両に乗ろうとしたが、階段側の車両は混雑していて乗れず。

 二両目も同様。

 結局なんとか駆け込んだのは後ろから三両目だった。


「悪かったな、絵依。オレのせいで結局ギリギリになっちまって……」

「ううん、いいよ。なんかこの方が、わたし達っぽいよね!」


 いつもの絵依の笑顔に、少しだけホッとする。

 幼馴染みから恋人になったオレ達だけど、オレが好きなのはやっぱりこういった子供のような笑顔を浮かべる絵依なんだ。

 この笑顔の絵依を守るため、オレはヤツを探すべく車内を見渡した。


 すると、


「一樹!」


 気を張り詰めていたオレは、突然名前を呼ばれて体がビクッと震える。

 しかしこの声はいつも聞き慣れているものだった。


「聡!」


 つり革を右側に3本挟んだところに聡が立っていた。

 オレと聡の間にいたサラリーマンが居心地の悪さを感じたようで移動してくれた。


「ありがとうございます」


 聡はサラリーマンに御礼を言いながら、オレの右隣に移動してきた。


「気をつかっていつもと違う車両に乗ったっていうのに、結局同じ車両になるとはね」


 いつも乗る車両は、後ろから二両目。

 絵依と聡の朝練が無いときは、大抵そこで合流するのがオレ達の間にある無言の決まり事だった。

 でも今日乗っているのは後ろから三両目だった。


「あぁ、混雑して乗れなかったんだ。……って、気をつかって?」

「あはは、もうね、俺も静香も知っているんだよ」

「な、なんのことだよ」

「とぼけるなよ、うまくいったってことまで聞いているよ!」


 聡が冷やかすように、肘でオレの脇腹をつついた。


「ごめん、一樹……昨日の晩、しーちゃんから電話があって話しちゃった……ササ君はしーちゃんから聞いたんだと思う」

「だからササ君はやめて、絵依ちゃん」


 聡は屈託無く笑っていたが、聡の本心を知っているオレとしては少し複雑だった。

 でも、この世界では知らないフリをするのが正解なのだろう。


 その時だった。


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ」


 絵依が悲鳴をあげる。

 しまった!

 聡との会話に気を取られていて、注意を怠っていた!!


 オレは絵依の臀部に手を伸ばしていた男を見つけると、その手を掴んで捻り上げる。


「……クッ!!」


 オレに捻り上げられた手の痛みに、男はうめき声をあげた。


 その時、電車が駅に到着し扉が開いた。

 それと同時に男は一か八かでオレの腹を蹴り上げるが、オレはギリギリ交わす。

 ところがその一瞬の間にひねり上げていたオレの手の力が緩み、男が力ずくで捕まれていた腕を振りほどいた。

 そして男は電車を飛び降り、一目散に階段の方へ逃げ出す。


「……クソッ、逃がすか!!」


 オレはカバンの中に忍ばせていたボールを取り出す。

 そして辺りに人がいないところまで電車を降り、男に目がけて思いっきりボールを投げた。

 記憶内に残る、聡を三振に取ったあの一球を思い出す。

 外角低めアウトロー速球ストレート

 縫い目に指がかかり、最後に手首のスナップを効かせる。


 全力で投げ込んだその一球は、オレと男の間にいる他の客の間をすり抜け、見事に男の左膝の裏に命中した。

 おかげで男は左膝カックン状態となり、バランスを崩して転がり込んだ。

 すぐに男のところへ駅員が駆け寄っていく。

 これでもう大丈夫だ。


 しかし……


「……ごめん、絵依……怖い思いさせてしまって……」


 両手を口にあてて驚いていた絵依に謝る。

 できれば痴漢に遭う前に防いでやりたかった。

 ボールはあくまで最悪の事態を想定したもので、本来なら使いたくはなかった。


 よくよく考えれば、電車の時間をずらせば良かったと今更思う。

 それが一番平和だったかもしれない。


 恐怖に震えているだろう絵依に、オレは謝ることしかできなかった……はずだった。


「えっ……どうして一樹が謝るの……!?」


 絵依の表情は、決して怯えたようなものではなかった。


「こんなに混雑しているんだし、一樹が悪いことなんて絶対にないよ!!」

「で、でも……」

「ううん、むしろ、御礼を言う方だよ! ありがとう、一樹!!」


 最高の笑顔だった。

 カレシが痴漢を捕まえたことがそんなにも嬉しいものだろうか?

 しかし、どうやらそれだけではなかったようだ。


 これは後から聞いた話だ。

 痴漢に遭遇したことよりも、オレが投げたボールが中学時代の全盛期と遜色そんしょくがなかったことに驚いていたらしい。

 そして同時に、とても嬉しかった、と。


 確かにあの速球は2年のブランクがあるヤツの球じゃない。

 一周目にやっていた聡との真剣勝負で、投げる感覚を取り戻していたからこそだ。


「いい一球だったよ、一樹! 今からでも野球部に入らないか?」


 事の顛末てんまつを見ていた聡がオレ達のところへやって来る。


「冗談はやめてくれよ、聡。でもまぁ、あの一球はオマエのお陰でもあるんだけどな」

「え? 俺、なにかしたっけ?」


 不思議な表情を浮かべる聡だったが、真実を話せないのが残念だ。


「あの……申し訳ないですが、事情を聞かせて頂いてもいいですか?」


 駅員らしき人が、オレと絵依の側にやって来た。


「あ、わたしが痴漢に遭って、カレに助けてもらったんです!」

「あ、はい。承知しております。先ほど捕まえた男は痴漢の常習犯でしたし、悲鳴も聞こえましたので」


 そうだったのか……あの男、常習犯だったとは。

 でもそのおかげでややこしい事にならず、少しホッとする。

 下手したらオレは傷害罪だからな……


「ただ、できればお二人からも詳しい事をお聞きしたいので、駅員室の方へご案内したいのですが……」

「わかりました。あ、聡!」


 担任に遅刻すると伝言を頼もうとしたのだが、


「あぁ、わかってるよ。頑張っていってこい!」

「何を頑張ればいいのかよくわからんが、よろしくな!」


 オレと聡は互いの右手を掲げ、ハイタッチする。


「それじゃ、絵依、行こうか」

「うん、一樹!!」



 駅員室では、痴漢に遭った時の状況について詳しく聴取された。

 当初は駅員さんから、途中から警察官も加わった。


 駅員さんや警察官はオレ達が着ていた制服から飯名学園の生徒だと把握したようで、学校に連絡を入れてくれたり、なるべく早く聴取を終わらせるように気を配ってくれた。


 ただ少しだけ困ったのが、オレが野球ボールを投げたことで少しややこしいことになったことだ。

 犯人には大きな怪我はなかったものの、野球部でもないオレがボールを持っていたことを、ほんの少し不思議がられた。


 そりゃそうだ。


 一周目の絵依が痴漢に遭遇し、怯えた姿。

 その時感じた無力感。

 それを経験していなければ、ボールなんて持っていかなかったわけで。


 だからといって、本当の事なんか当然話せない。

 なので中学まで続けていた野球に対して、少しだけ未練があるというていでなんとかごまかした。

 ただ最大の問題は、それを絵依に聞かれてしまったことだ……


 なんとか事情聴取から解放され、オレと絵依は羽岐駅から学校に向かう通学路を歩いていた。

 そろそろ4限の終わる頃だろうか?


「……ねぇ、一樹。さっき、野球に少しだけ未練があるって言ってたよね?」


 ほら来た。

 絶対に訊いてくると思ったよ。


「……だってああでも言わないと、話がややこしくなるだろ?」

「それじゃ、なんでボールを持っていたの?」

「ボールくらい持っていてもいいだろ? えーっと、そうだ! 今日の放課後、聡とキャッチボールでもしようと思ったんだ」


 適当な事をでっち上げる。

 あとで聡に口裏を合わせてもらおう。


「ふーん、それじゃわたしも放課後、キャッチボールに付き合っていい?」

「あー、さっきボールを投げたとき、久しぶりすぎて肩を痛めてな。きちんと肩を温めないとこうなるのはわかっていたけど、そんなわけで今日のキャッチボールはやめておこう」

「じゃあ、明日は? 明日、やろうよ」


 明日はパストソウルの日だから、無理だよ。

 ……って言えたら、どれだけ楽なことか。


「明日までに痛みがとれてるかわからないし。まぁそのうち、気が向いたらな」

「うん、絶対だからね!!」


 絵依は、オレにまた野球をやって欲しいんだろう。

 未だにオレが野球を『辞めた』のでは無く『諦めた』と思っているからな。

 どんなに説明しても一旦は理解したフリをして、数日経てばやっぱりオレが野球を諦めたと自分を責めてしまう。

 だから絵依が抱えている負い目から解放してやるためにも、例え草野球でもいいからやるべきなんだろうな。


 でもそれに関してはB世界で聡と真剣勝負して以来、オレも割と前向きだったりする。


「……どこか草野球チームでも、探してみるかな?」

「わたしも探すよ! 一緒にやれるなら、わたしも入るから!!」


 オレの些細な呟きに、喰い気味で応える。


「……あぁ、一緒にやるのも悪くないかもな」

「うん、絶対だよ!!」


 絵依は最高の笑顔を浮かべていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます