第4章 『緑川、水瓶人間の容疑を掛けられる』全20話。その7。

            7


「くそぉぉー、酷い目にあったぜ。まさか腰の辺りから全方位に掛けて霧状の汚染水を圧縮空気と共に噴射するとは、流石に考えもしなかったぜ!」



 時刻は十五時四十分。


 三階にある男子トイレの手洗い場で目や顔を必死に洗った勘太郎は、トイレの入り口で待つ羊野と合流する。

 よく見てみると、いつも被ってある羊のマスクを左手に抱きかかえた羊野は、右手に持つ大きな包丁の刃を見つめながら何かを必死に考えている様だった。


「どうしたんだ羊野、包丁の刃なんか見つめて?」


「この包丁は先ほどあの悪魔の水瓶に向けて投げつけた包丁なのですが、どうやら投げつけた際にそのレインコートの腕の生地の部分だけでは無く犯人の皮膚にもダメージを与えてた様です。さっき私も悪魔の水瓶が逃げ去った社員専用の階段入り口のドアを見に行ったのですがそのドアの前の床に一・二滴誰かの血液が落ちていましたから、恐らくは悪魔の水瓶が腕に傷を負った際に落とした血痕だと思われます」


 そう言いながら羊野は床に落ちていた血液を拭ったと思われるハンカチを勘太郎に見せる。


「そうか、悪魔の水瓶は羊野が咄嗟に投げつけた包丁を右腕に受けて怪我をしたのか。俺は悪魔の水瓶を追うのに必死だったからよくは見てはいなかったが、レインコートの袖の部分だけでは無く腕の皮膚も切れていたと言う事か。だがそれが何だと言うんだ」


「つまりです、悪魔の水瓶は右腕に切り傷を負ったと言う事です。今後もし悪魔の水瓶が被害者を装って我々に近づいて来たとしても、その右腕に受けた切り傷が犯人だと疑う証拠になり得ると言う事です」


「なるほど、ならこれからは出会う被害者達の右腕に切り傷が無いか確認すればいいわけだな」


「まあ、そう言う事です。本来ならこの血液を鑑識に渡してDNA検査などいろいろと調べて貰うのがセオリーなのですが、今はこのデパート内に閉じ込められていますからね、それも叶わないでしょう」


「そうだな、だがこの血液は今後悪魔の水瓶の正体を調べる為には大きな証拠になるぞ。もしもこの悪魔の水瓶が過去に何らかの犯罪で捕まった経歴があるのなら直ぐに警察のデータベースに引っかかるだろうからな」


 その勘太郎の言葉に羊野は何やら困惑した顔をする。


「それにもう一つ気になる事と言うか……腑に落ちない事があります」

「腑に落ちない事だって、なんだよ?」


「私が悪魔の水瓶と対峙し、お互いに手に持つ得物を合わせながら戦っていた時、あの悪魔の水瓶は明らかに私におびえにも似た動揺を見せていました。大木槌を振るう攻撃も何だかためらいが見られましたし……あの悪魔の水瓶は本当に一週間前に十二人殺しを行い実行した本人なのでしょうか。私にはとてもそうは思えないのですが……」


「つまりだ……お前が戦った感じでは、あの悪魔の水瓶は人を殺したことの無い、殺人鬼を模倣したただのど素人かも知れないと言う事か」


「そこまでは言ってはいませんが、その戦った相手の手には明らかに怯えや・迷いや・必死さと言った感情が見え隠れしていましたから、そう感じ取ったまでの事ですわ。私は今まで、怯えたり・泣いたり・怒ったり・笑ったり・懇願したり・闘士をむき出しにされたりとそんな人間達をいろいろとこの目で見てきましたから、その者と一度戦えば相手がどんな感情を抱いてここに立っているのか、その大体の事は分かるのですよ」


「悪魔の水瓶が何かを迷っている……俺にはそんな風には見えなかったけどな。あの水瓶人間の猛攻は十分に脅威だったし。それに実際に二階のフロアーでは奴のせいで四人もの人達が殺されているしな。とてもこの犯行を躊躇している様には見えなかったが」


「まあ、いずれにしてもです。あの悪魔の水瓶はこの上の四階フロアーへと逃げ去った物と思われますから私達も社員専用の鍵を手に入れ次第、早く四階のフロアーへと行くとしましょう。どうやらあの二人の警備員がその社員用の鍵を持っているみたいですから」


「あの二人、社員用の鍵を持っていたのか。だったら早く俺に貸してくれればいいのに。おかげで悪魔の水瓶を取り逃がしちゃったじゃないか」


「まあ、私達も特にあの段階ではその社員用の鍵を貸してくれと彼らに頼んでもいませんでしたし、その鍵を借りるタイミングも中々合いませんでしたからね」


「でもなんであの二人の警備員は上に見回りに行かなかったんだ。各階のフロアーのシャッターが閉まって開かないと思ったらその社員用の鍵を使って移動すれば出来たんじゃないのか?」


「恐らくはその鍵を使って最上階まで登っても六階フロアーの出入り口もシャッターと錠前で封鎖されていると思われますから、出られなかったと思いますよ。逆に下にくだっても下は地下一階フロアーに行き着くだけですからね。それにあの悪魔の水瓶が移動で使っているその社員用の階段を敢えて使おうとは流石に思わないはずです。勇気を出してドアを開けて見たらそこにあの水瓶人間が立っていましたじゃ洒落にもなりませんからね」


「つまりあの警備員の二人は恐怖のあまり、あの社員専用の階段から降りるのをためらったと言う事か」


「多分そうだと思います。でも今なら彼らも心良く鍵を貸してくれると思いますよ。何せこんなにも頼れる黒服の探偵さんが自分達の代わりにこのデパート内の全フロアーの様子を見てきてくれると思っていますからね。まあ、でもこの後もあの二人の警備員さん達が私達について来てくれるかは正直わかりませんがね」


「まあ、あんな怖い目に遭ったんだから、もう一緒には来ないかもな。それで、その他の人達は一体何処にいるんだ」


「関根孝さんは、黒鉄さんに救出された西条社長と一緒に二階フロアーの休憩所で休んでいますよ。あそこには長椅子だけでは無く自販機もありますから、極度の緊張でカラカラに乾いた喉でも潤しているのでしょう。警備員の木戸警備員と長瀬警備員の二人は二階の男子トイレの洗面所で顔を洗うとか言って下に降りていきましたし。あのフライパンを持っていた梅塚幸子さんも彼らと一緒に二階の女子トイレに向かいましたわ」


「そうか、つまり今この三階フロアーにいるのは俺達、二人だけと言う事か。まあ、悪魔の水瓶が三階フロアーから何処かに移動し、出て行ったとはいえ、つい今さっきまで悪魔の水瓶とガチで争っていたこの場所に長くはいたくないのかも知れないな。また同じ場所に悪魔の水瓶が舞い戻って来るかも知れないしな。まあ実際はその可能性は極めて低いのだがな」


「そうかも知れませんね。でもある犯罪の統計では、犯人はその犯行現場に再び戻ってくると言う話もありますよ。自分のしでかした犯行を人々は一体どう思っているのかと言う反応を見るために敢えて戻って来てみたり、或いは何か重要な証拠を残してはいないかと心配になって戻ってきたりと様々ですがね」


「正直、俺はもう二度とあのいかれた水瓶人間には会いたくはないがな」


「ふふふ、黒鉄さんが黒鉄の探偵を名乗る以上それは不可能な事だと思いますよ。私達は是が非でもあの水瓶人間と再び対峙して彼女の正体とそのトリックの謎を解き明かさないとこのデパートからは恐らくは生きては出られませんからね」


 笑いながら話す羊野の言葉に勘太郎の背中は瞬く間に寒くなる。


「悪魔の水瓶に勝たないと……生きては出られない……か。くそ、放送にあった壊れた天秤の話では、あの悪魔の水瓶事態も本来の殺すべきターゲットの事を全く知らないとか言っていたしな。そんな事って実際にはあり得るのかよ」


「普通はあり得ませんよ。私達が殺すべきターゲットの素性やその依頼内容も分からずに無差別に殺しを実行するだなんて先ず絶対にあり得ない事です。だからこそ今回のこの狂人ゲームは異例中の異例なのですよ。この狂人ゲームを主催した壊れた天秤とその指令に付き従うあの悪魔の水瓶は一体何を考えているのでしょうか。今の段階ではあの悪魔の水瓶の考えが全く持って分かりません」


「でもこの犯行をこのデパート内で殺しの依頼をしたその闇の依頼人はこうなる事を望んでいるんだよな。西条ケミカル化学会社に恨みを抱いている奴があの悪魔の水瓶を雇った依頼人じゃないのかよ。この一般人を巻き込んだ無差別の殺しはハッキリ言って意味不明だぜ!」


 そのまま二人は考え深げに数秒沈黙する。


「だが今確実に言えることは、俺達がこの件から逃げたら間違いなくこのデパート内にいる何の罪もない人達が無残にも悪魔の水瓶の手で殺されてしまうと言う事だ。そうだよな羊野」


「ええ、それだけは間違いありませんわね」


「はあ~仕方が無いな。逃げることは諦めて、上にまだいるかも知れない他の被害者達を探すとするか。まだあの悪魔の水瓶に見つからずに隠れている人達がまだいるかも知れないしな」


「そうですね。では私達もあの警備員から鍵を受け取って身支度を整え次第、四階フロアーへと参りましょうか。私としてもあの悪魔の水瓶の謎やその正体を見極めたいですからね」


 そう言いながら羊野は持っていた大きな包丁を右太ももに備え付けてある鞘に納めると、左手に持つ羊のマスクをゆっくりと被る。

 そんな羊野を見つめながら二階フロアーの男子トイレにいる木戸警備員と長瀬警備員に鍵を貸して貰おうと動き出そうとしたその時、二階のフロアーから梅塚幸子の大きな叫び声が三階フロアーまでこだまする。


「探偵さん、水瓶人間を捕まえたわ。早く三階から降りて来て頂戴!」と言う梅塚幸子の声と共に西条社長と関根孝の怒鳴り声も混じって聞こえてくる。


 悪魔の水瓶を捕まえただと? 


 まさかと思いながらも勘太郎と羊野は二階のフロアーに駆け下りて見ると、そこには梅塚幸子・西条社長・関根孝・木戸警備員・長瀬警備員の五人に囲まれた緑川章子の姿があった。


「ち、違います。私は、私は水瓶人間ではありません! これは何かの間違いです!」


「嘘をつくな! 梅塚さんの言うようにもう疑わしい証拠は上がっているんだ。いい加減に自分のしでかした罪を認めろよ!」

「そうだぞ、この殺人鬼め。もう言い逃れは出来ないぞ!」

「だから私は違うんですってば!」

 涙目になりながらも緑川は自分を押さえつけている木戸警備員と長瀬警備員に自分の無実を懸命に訴える。

 そんな他の人達に釣られて今度は関根孝が緑川に叫ぶ。「まさか俺達に対する復讐のためにしでかした事じゃないだろうな! やはりお前があの水瓶人間だな!」と。


 なに、緑川が水瓶人間の正体だと……そんな馬鹿な。これは何かの冗談か何かか。


 そう思いながら勘太郎は木戸警備員と長瀬警備員に両腕を押さえられている緑川の前まで来ると緑川が水瓶人間だと言い張る梅塚幸子にその理由を聞く。


「梅塚幸子さん落ち着いて下さい。ここにいる緑川章子は我が黒鉄探偵事務所の臨時社員ですし、間違っても彼女があの水瓶人間であるはずがありませんよ。一体何故梅塚幸子さんは緑川があの水瓶人間だと思うのですか?」


 いきり立つ梅塚幸子を落ち着かせながら話し掛ける勘太郎の指摘に、梅塚幸子は緑川章子の右腕を指さす。

 そのむき出しにされた緑川の右腕には明らかに何かで切られた様な切り傷の後が残っていた。


 服の袖の上から切られているせいか袖は緑川の血液で血まみれとなり、まだ傷口が塞がっていない傷口からはまた新たな血液が床下へとポツポツと滴り落ちる。その光景はあの逃げ去った水瓶人間と関係性を連想させるには十分だった。

 その床へとポタポタと滴り落ちる血を見ながら梅塚幸子は、緑川が水瓶人間であると言う可能性とその証拠を話し始める。


「今さっき緑川さんが右腕を押さえながら一階からこの二階フロアーに上がって来たから可笑しいと思っていたのよ。ついさっきそこにいる羊人間が投げつけた包丁が水瓶人間の右腕に当たったとか言っていたから、用心も兼ねて彼女の腕も一応調べて見たら彼女の右腕にも何かで切られた様な切り傷が見つかったのよ。これはもう彼女があの水瓶人間かも知れないと言う明らかな可能性が出てきたという事じゃ無いかしら。彼女の話じゃ一階フロアーであの水瓶人間に襲われたとか言っているけど。その現場を私達は誰一人として見た訳じゃ無いから何処まで信用できる話か分かった物じゃないわ。特に一階フロアーからは声や物音なんかも聞こえては来なかったからね。それにもし本当にこの緑川さんが水瓶人間なら、さっきの交戦で受けた切り傷を誤魔化す為についているただの嘘の作り話かも知れないと言う可能性だって出て来るわ。あの独特の臭い臭いもその衣服に残っているし彼女が犯人で先ず間違いはないんじゃないかしら!」


「そんな、違います。私は一階のフロアーでその水瓶人間に襲われたんです。この嫌な臭いもあの水瓶人間に付けられたんです。二階のフロアーにいた生存者達を皆無事に地下一階フロアーに送り届ける事が出来ましたから、黒鉄先輩の元に戻ろうと一階フロアーを歩いていたら行き成り物陰から現れた水瓶人間に右腕を怪我させられたんです。行き成り持っていたナイフで右腕を切られてしまいましたからビックリして咄嗟に食品コーナーの中に逃げ込みましたが、何故か水瓶人間はそれ以上は追っ手は来ず、そのまま何処かに身を隠してしまいましたから急いで二階に逃げてきたんです。ですが、まさかその事で犯人に疑われるだなんて思ってもいませんでした」


 そう言うと緑川は勘太郎を見つめながら助けを求めるが、今のこの状況では緑川を無闇に助けることは出来ない。何故なら悪魔の水瓶が右腕に受けた切り傷を緑川章子も同じく受けているからだ。しかも緑川が証言している一階フロアーで水瓶人間に襲われたというアリバイも証明できないので仕方なく勘太郎は緑川の疑いが晴れるまで三階にある電化製品の在庫を入れる荷物置き場に取りあえずは入って貰い、出られないように外側から鍵を掛ける事にした。そうしないと緑川を疑っている彼らの気も済まないだろうし、緑川自身の身も危ないと思ったからだ。

 勘太郎は皆に疑惑の目を向けられる緑川章子を連れながら三階フロアーにある荷物置き場の倉庫まで移動をする。


「済まない緑川、お前への疑いが晴れるまでしばらくの間この倉庫の中に入っていてくれないか。俺と羊野でお前への疑いは必ず晴らしてやるからな」


「黒鉄先輩、私は水瓶人間ではありません。信じて下さい! 信じて下さい!」


「ああ、分かってる、分かっているから、ここで大人しく待っているんだ。いいな」


 そう言うと勘太郎は不安がる緑川を在庫用の倉庫の中へと入れると、直ぐさま負傷している緑川の右腕の治療へと入る。


「取りあえずは腕の応急処置をしようか」と言いながら消毒液やガーゼや包帯を使って緑川の右腕を優しく丁寧に治療をしていくが、そんな勘太郎に対し緑川は「後は自分で出来ますから大丈夫ですよ。何だか気を使わせてしまって申し訳ありません。そしてありがとう御座います。黒鉄先輩が私の無実を証明してくれる事を信じて、ここで大人しく待っていますね」と言いながらその屈託のない笑顔を見せる。


 そんな緑川を少し離れた所で見つめていた関根孝は、渋い顔をしながら静かに呟く。



「あいつこそが……絶対に……あの水瓶人間だ。そうに違いない……」と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る