恋しい人 第80話

「お待ちの二名様、お席にご案内いたします」

 キスしてもいいかな? ってほとんど理性が負けかけていたその時、耳に届くよく通る声。

 おそらく店員さんだろうその声に前で待っていた女の子達が「タイミングっ……」と何処か悔しそうな声色を零していて、僕の理性が負けることを見越されていたんだと分かって物凄く恥ずかしくなった。

「隙あり」

「!」

 負けそうだった理性を総動員してキスしないと意思表示しないと! って思っていたのに、意思表示する前に奪われた唇。

 驚きに目を見開いた僕の視界には、してやったりって悪戯に笑う虎君が。次の瞬間、ボッと火が付いたように顔が赤くなった気がした。

 虎君はそんな僕の反応に満足そうに笑うと、今度は額にチュッとキスしてくる。

「ひ、人前っ」

「ん。でも期待されてたみたいだし、恋人アピールにもなるし、イイかな? って」

 ほら、前見て?

 そう促され、言われるがまま視線を前に向けたらお店に入ろうとしていただろう女の子達と目が合った。

 僕達の前に待っていた二人組の女の子達は目を見開いて此方を見て固まっている。そして二人を案内していた店員さんは微笑ましそうに笑っていて、僕は思わず会釈を見せる。

 すると、それに時間が動き出したのかフリーズしていた女の子たちは歓声をあげながら店内に消え、店員さんは「もう少々お待ちくださいね」と会釈を返してくれた。

 三人が店内に入れば、待っているのは僕達だけになる。

「もう……。僕、『いいよ』って言ってないのに……」

「ごめんごめん。でも葵もキスはしたいと思ってただろ?」

「そ、そりゃ、思ってたけど……」

 本当、つくづく虎君に隠し事なんてできないと思う。僕は見透かされてる心にちょっぴり不満を覚え、それを訴えるべく上を向く。

 すると虎君はそれも予想していたのか、困ったような笑顔を浮かべ、機嫌を治してとお願いしてくる。

(もう! その笑い方は狡い!)

 全部の感情が『大好き』に振り切れてしまう。

 僕は抱きしめてくれている腕に手をぎゅっと掴むと、「許してあげない」と緩みそうになる頬を必死に引き締めて拗ねた表情を見せた。

「困ったな……。どうしたら許してくれる?」

 『困った』と言いながら、表情は全然困ってない虎君。僕の思惑を全部分かって、それでも拗ねた振りをする僕に付き合ってくれているのだろう。

 なんでもするからお願い。なんて、本当に虎君は僕を調子づかせる天才だ。

「『なんでも』? どんなことでもいいの?」

「よっぽど無理なお願いじゃなければ」

「たとえば?」

 虎君が考える『よっぽど無理なお願い』ってどんなこと?

 そう尋ねれば、虎君は「そうだな……」と少し考えた後、僕が絶対に言わない言葉を例に挙げてきた。

「『別れて欲しい』とか?」

「! そんなこと絶対言わないよ?!」

 まさかの言葉に僕はびっくりする。そしてびっくりした後、あり得ないと眉を顰めてしまった。もしかして虎君は僕がいつかそんなことを言うかもしれないって思ってるの? と。

 すると虎君は違う違うと苦笑い。そうじゃない。と。

「葵が『別れたい』って言うなんて思ってないよ。……言わすつもりもないしな」

「ならどうして―――」

「さっき言ったろ? 『なんでもする』って」

 これは葵のお願いを俺が『ノー』と言わない証明。だから俺にして欲しい事を教えて?

 鼻先にキスを落としながら、言ってくれないとこれ以上できないなんて言う虎君。僕が何を言うか分かってるって口ぶりだ。

「……意地悪」

「ごめん。……ほら、教えて?」

 促す虎君は、僕の首元から顎にかけて手を這わせる。撫でるようなその動きはくすぐったいけど気持ちよくて、不機嫌だった心を撫でられたような気がした……。

 僕は虎君を仰ぎ見たまま、「家に帰ったら、いっぱい甘やかして」と二番目のお願いを口にする。

 本当は一番目のお願いを言いたかったけど、言ったら絶対すぐに叶えられると知っているから言わなかった。

(今すぐキス、したいよぉ……)

 僕が望んでいるのは触れるだけのキスじゃなくて、もっと深い、恋人同士が交わすキス。

 僕が望めば虎君はそれも叶えてくれると分かっている。でも、そのキスは此処ではしたくない。

(キスしてくれる虎君を誰にも見せたくないなんて、独占欲強すぎるかな……?)

 キスの直前に僕を見つめる眼差しも、瞳を閉ざした表情も、僕のもの。

 キスの直後に僕だけが見ることができる愛しさを隠さない微笑みも、全部全部僕のもの。

 だから、他の人には絶対に見せてあげない……。

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