十三章 虎千代(2)

 虎千代と名付けられた子犬は、若様の行くところへどこにでもついてきました。御飯を食べるのもお風呂に入るのも若様と一緒です。寝るのも同じお布団です。しかしお殿様のお茶碗よりも小さかった虎千代が子ウサギほどの大きさに育つと、お城のお女中たちがやかましく文句を言いはじめました。


「猫ならともかく、犬を座敷で飼う者がありますか」


「そうですよ。犬はお庭で見張り番ですよ」


「甘やかすと、ろくな犬になりませんよ」


 みんなに叱られた若様は、その晩、虎千代を抱いて縁側から中庭に下りました。

 暖かな春の宵でした。明るいおぼろ月が山吹の花を照らしていました。裸足で中庭を抜けて、お殿様の馬屋へ入っていくと、顔馴染みの馬たちが目を覚まし、顔を上げ下げして若様を迎えました。ここには猿はいませんから安心でした。虎千代の首に柔らかい紐を結びつけ、仕切りの隅につなぐと、若様は子犬を抱きしめました。


「ごめんよ。虎千代。明日の朝起きたら、すぐに迎えにくるからね」


 虎千代の寝床には若様の古い寝間着を詰めました。虎千代がその匂いを嗅いでいる隙に、若様は全速力で寝間に逃げ帰ると、頭から布団をかぶって声を上げて泣きながら、いつしか寝入ってしまいました。




 若様がいないことに気づいた虎千代は急いで追いかけようとしましたが、なぜだか喉が詰まってあお向けに転んでしまいました。じたばたしているうちに前足にも紐が巻きついてまた転びました。


 ――わかさま。わかさま。助けてえ。変なのに捕まっちゃったよう。


 虎千代は小さな鼻を鳴らして若様を呼びました。


 ――わかさま。わかさま。こわいよう。


 虎千代がどんなに呼んでも、若様は戻ってきませんでした。


 ――わかさま。どこにいるの。寂しいよう。戻ってきてくださいよう。


 くんくんという哀れな鼻声はいつしか、おーん、おーん、という遠吠えとなりました。助けを求める虎千代の声は次第に大きくなり、ついには轟くばかりの咆吼ほうこうとなりました。


 あおおおおおん  あおおおおおおおおおん


 その声はお城の建物を揺るがせて夜空に立ち昇り、まるでお城が咆えているようでした。沼の水面は乱れてさざ波が立ち、眠っていた鳥たちも驚いてみんな飛び立ちました。虎千代の遠吠えは遙か彼方の山々にまで届いてこだましました。


「これは何事だ」


 びっくり仰天したお殿様と家来たちが馬屋に駆けつけると、遠吠えがぴたりと止まりました。人の気配を感じて尻尾を振った虎千代でしたが、若様がいないと知るとお尻を落として悲しげにうずくまりました。


「いまの遠吠えは、こいつか」


 弓を持った蔵六が何度もまばたきしました。


「なんという凄まじき声なのだ」


 槍をかまえた弥三郎がうなりました。


「見ろ。馬がみんな気を失っておる」


「大変だ。舘の壁にひびが入ったぞ」


「誰か天守閣を見てこい。傾いたかも知れぬ」


 素羽鷹の家来たちは恐ろしいものを見る目で虎千代を眺めました。


「うむ」と家老がひとつうなずきました。


「虎千代は犬ではない。狼の子にちがいあるまいぞ」


 家来たちは青ざめました。狼とは山の神と畏れられるほど賢く猛々しい獣です。そしてなによりも仲間を大切にするのです。


「狼だと?」


「いまの遠吠えで、山の仲間を呼び寄せたのではないか?」


「狼の大群がここに来るのか?」


「素羽鷹はおしまいだ!」


 素羽鷹では馬をたくさん飼っています。狼の群れほど恐ろしいものはありません。

豪傑揃いの御家来衆が震えあがりました。


「ものども、騒ぐな!」


 虎千代をふところに抱えたお殿様が大きな声で言いました。


「憶測でものを云うのは臆病者おくびょうもののすることよ。よしよし。もう大丈夫だぞ」


 お殿様は虎千代の頭を優しくなでました。


「殿、どうなさるのじゃ」


 家老が鍾馗眉を上げると、お殿様が不敵な笑みを浮かべました。


「よく耳を澄ましてみよ。どこからも狼の呼び声は聞こえぬ。狼の群れは、必ず鳴きかわしながら動くものよ」


 たしかに、みんながいくら耳を澄ませてみても、くちなしの花の香りを吹くんだ風に森の若葉がさらさらと鳴るばかりでした。


「なるほど。狼の気配はありませぬな」


 家老がつぶやきました。


「虎千代が二度と咆えねば、狼の群れも来るまい」


 お殿様がふふんと笑いました。


「これまで通り、七法師の部屋で暮らさせればよいことじゃ」


 そんなわけで、虎千代が若様のそばを離れたのも、遠吠えしたのも、その晩限りでした。

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