七章 角権現のお告げ(2)

 角権現の社殿の裏には栗の木が何本もあって草の間にイガがたくさん落ちていました。イガを踏まないように気をつけながら、早足の花野子ちゃんについてゆくと、しめ縄を巡らした高い崖で行き止まりになりました。若様がこの場所に来たのは初めてです。


「うわあ」


 見上げると、ほとんど垂直な崖の頂に白い大岩が突きだしていました。イバラやツル草が茂る崖には一筋の白い踏み跡が大岩の下まで続いています。石段もはしごも登り綱さえないのに、花野子ちゃんはまるで足を止めず、その踏み跡をたどるようにして険しい崖をひょいひょいと登っていくのでした。


「花野子ちゃんっ!」


 地面に取り残された若様は、泣きそうになって呼びました。


「どうしたよ? 早くこいよ」


 崖の中ほどに片足をかけたまま、花野子ちゃんが若様を振り返りました。


「僕、こんなとこ登れないよ」


「なんで?」


「なんでって。だって。恐いよ」


「そうか?」


 花野子ちゃんは不思議そうな顔をしました。ものごころついてから毎日この崖を上り下りしているので、恐いなんて思ったことがなかったのです。


「チビさまって、ほんとにヘナチョコだな」


 そう言いながら何かを探すように首をめぐらしました。そして太くて長い葛のつるをつかむと、ぐいと引っ張って若様のところまで垂らしてくれました。


「ほら。これにつかまれ」


「ありがとう!」


 両手で太いつるを握りしめて若様はお腹に力を入れました。滑りそうなのでわらじは脱いでふところに入れました。


「きゅううん」


 虎千代が涙を浮かべて若様を見上げています。


「置いてかないよ。とらちゃん、おいで」


 若様は虎千代もふところに入れて帯を締め直しました。すると虎千代は嬉しそうに、くんくんと鼻を鳴らします。


「くすぐったいから、なめちゃダメだよ」


「おん」


「チビさま、遅いぞ」


 上から花野子ちゃんが呼んでいます。


「はあい!」


 若様はつるをたぐり、はだしの足を踏ん張って崖をよじ登ってゆきました。

 白い大岩の真下では崖はえぐれたようにくぼみ、砂混じりの土がむき出しになっていました。ぽんと足元をけった花野子ちゃんは、ひさしのような岩の端に両手で飛びつきました。そして腕に力を入れて一気に体を岩の上に引き上げました。


「すごいなあ」


 若様も真似をしようとしましたが、考えてみると両手で飛びつくには、つるを手放さなくなくてはなりません。


「チビさま、恐がるな。しくじっても落ちるだけだ」


 岩の上から花野子ちゃんが励ましました。


「落ちるの、イヤだよう!」


「じゃ、ずっとそこにいろ」


「ひどいよ。花野子ちゃん」


 思い切ってつるを手放すと、若様はくぼんだ崖にやもりのように貼りつきました。踏ん張ろうとするそばから足元の砂がざらざらと滑ります。


「ひいい! 恐いよう」


「がんばれ、チビさま!」


「おん、おん!」


 胸元で虎千代が激励しています。鼻息がくすぐったくてたまりません。

 歯を食いしばった若様は一度目を閉じて、ここがお城の中庭だと思うことにしまし

た。落ちたところで、いつもの池です。仲良しの鯉たちに胴上げされるだけです。


「よし!」


 目を開けると、花野子ちゃんの真似をして両手を伸ばしました。岩までの高さを目ではかると、お殿様の背より低くて家老よりちょっと高いくらいです。


 ――大丈夫。頑張れ、僕。


「えい!」


 思いきり足元の崖を蹴ると、岩の固いでこぼこに指がかかりました。


「うまいぞ、チビさま!」


 花野子ちゃんが若様の手をつかんで、引っ張りあげてくれました。


「ぐへええ。恐かったあ」


 冷たい岩のうえにぺたんと腰を落とすと、虎千代が若様の顔をべろべろ舐めました。


「うぎゃあ。やめて。くすぐったい!」


「おん、おん」


「頑張ったな。チビさま」


 笑っている花野子ちゃんの背中から後光が差して、風がピーピー鳴きました。大岩は雪の日に作るかまくらのような形をしていて、いびつにへこんだ穴の奥から陽射しと冷たい風がもれてくるのでした。


「なんだ、ワンコも連れてきたのか? 言えば、俺が抱っこしてやったのに」


「平気だよ。とらちゃんは軽いもん」


 虎千代を地面におろすと若様は額の汗をぬぐいました。虎千代はプルプルプルと身を振るわせると後足で耳をかきました。

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