二章 聞き耳ドングリ(3)

「若さまあ」 「若さまあ」


 虎千代が困ったように鼻を鳴らす声も聞こえます。


「ああ、しまった。とうとう見つかった」


 若様が情けなさそうに目をつむりました。


「こいつは驚いた。坊ちゃん、お城の若様でしたか。へへええい」


 リスが手のひらで平伏すると、持ち上がった尻尾がもこもこと揺れました。


「やめてよ。恥ずかしいよ」


 困った若様は寄り目になってしまいました。おとなの人から御辞儀おじぎをされるたびに、こんなふうにきまりの悪い思いをするのです。


「うちのお城とリスさんは、なにも関係ないじゃないか」


 若様は頬をふくらまして言いました。


「そんなこたあ、ありませんよ」


 リスの倫太郎はひょいと顔を上げました。


「わっしら、素羽鷹のお殿様には昔から御世話になっておりますからね」


「あれ? そうなの?」


「そうですとも」


 倫太郎はヒゲを振るってうなずきました。


「若様がいらしたぞお」


 やっぱり先に駆けてくるのは白髪の家老です。


「若様、朝から隠れん坊ですかい?」


 リスが大きな瞳をぱちくりさせて訊きました。


「ううん。そうじゃないんだけど。たつこくになにか大変なことがあるらしいんだよ」


「いったい何があるってんですか」


「わかんないけど、辰の刻に天守閣からお天道様を拝むんだって。僕も行きたかったのに子どもはダメだって言うから、素羽鷹沼の岸から拝もうと思ったんだ」


「そいつは残念。もうすぐ辰の刻だ。おっと。それじゃ、わっしは御免ごめんなすって」


 リスは、あっという間に森に姿を消してしまいました。




「若様。探しましたぞ」


 眉をひそめて近寄ってきた家老が低い静かな声で言いました。ひっと息を飲んだ若様はあわてて謝りました。


「ごめんなさい!」


「何じゃ、そのなりは。刀も差さず城を出るとは。若君ともあろうお方が」


「申しわけありません!」


 小さい若様にとって家老は家来などではなく、一番おっかない先生でした。


「むむ。ずぶ濡れではないか」


「申しわけありません。お堀で泳ぎました」


「なんたることじゃ!」


 言葉こそ驚いていましたが、家老と先生は手慣れたもので、あっというまに若様の濡れた小袖こそでをはぎ取り、乾いた手拭てぬぐいで濡れた体を拭いてくれました。二人がかりで痛いほどゴシゴシこすってもらうと、若様の体はたちまち暖かくなりました。


「取りあえず、これを着てください」


 和真先生が自分の羽織を着せかけると、若様のくるぶしまですっぽり隠れました。


「ありがとう」


 人心地のついた若様は、ほっとした顔で御礼を言いました。和真先生は家来というより優しいお兄さんでした。


「さあ、帰りましょう」


 濡れた着物を小脇に抱えた先生が頬笑みました。足元で虎千代がシッポを振っています。家老の後から若様が続き、しんがりは和真先生でした。若様の握りしめたこぶしを虎千代がクンクンと嗅ぎました。手の中には倫太郎に返し忘れた聞き耳ドングリがありました。


「若様。寒気さむけはなさいませんか」


 大きな先生が若様を優しく見おろしています。


「うん。平気。あのね、先生。さっきリスがいたんだよ」


 若様は先生を見上げて、こっそりささやきました。


「そうでしたか。それは良かった」


 先生はふふっと頬笑みました。


「弓の的によろしいですな」


「ダメだよ! なんてこと言うの!」


 声が裏返った若様は、いつにない剣幕けんまくで先生をにらみました。ただならぬ気配に家老が眉を吊り上げて振り返ります。


「城山のリスを獲ることは、まかりならぬ!」


 小さい若様の命令に条件反射で思わず「ははあ」と深く腰を屈めた先生は、ドングリに足を取られて、すてんと尻餅をつきました。


「あ痛てて」


「ああっ! ごめんなさい。先生」


 若様は我に返って謝りました。


「いやいや。それがしの不始末でござる」


 先生は腰をさすって立ち上がりました。


「これはまた、たいそう落ちたものだな」


 眉をひそめた家老が、道一杯のドングリを見渡しました。


「お願い。このドングリはこのままにしておいてください」


 若様は家老と先生に頼みました。


「なりませぬ。通行の迷惑でござる」


 家老が若様とドングリを代わる代わるにらみつけました。


「このままにしておいたら、みんな転んでしまいますよ、若様」


 先生も言いました。すると若様の瞳がみるみる涙でうるみました。


「だって大事な食べ物なんだよ。これが無いと冬が越せなくてみんな死んじゃうんだよ」


「いったい誰が食べるのですか」


 先生が目を丸くしました。


「リスだよ」


 ほろほろと涙にくれる若様に、家老と先生は顔を見合わせました。


「なるほど。リスはそろそろ冬ごもりじゃ」


 家老の眉がふわりと下がりました。


「なにも燃やすと言うてはおりません。やぶの奧にでも寄せておけば良ろしかろう」


「ほんとに?」


 若様が顔を上げると、もう家老は肩を怒らせて橋を渡っていくところでした。苛立たしげに足を早めています。若様と虎千代と先生はあわてて後を追いかけました。


「若様。良かったですね」


 若様のすぐ後ろを走りながら、先生が言いました。


「うん。ありがとう」


 リスの一家の暮らす森をもう一度だけ振りかえってから、若様は急いで駆けだしました。

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