full moon

 あれから一月ひとつきが経過した。


 きゃっきゃっ、とはしゃぐ幼い声に振り向くと、先月出会った赤ん坊が、よちよちとこちらに向かってくるところだった。

「あ…… この前の」

 後ろからついてきた男女が笑顔で会釈する。沙夜乃さやのも「大きくなりましたね」と微笑んで会釈を返した。


 と。


「サヤ」


 背後から声をかけられた。微笑みを絶やさぬまま振り向いた先には、予想通り、恋人であるひかるの穏やかな笑顔があった。

「バイト終わったの? お疲れ様」

 光を見下ろし、その腕を取る沙夜乃。お揃いで買ったこの花柄のワンピースが、やはりこの子によく似合う。

「うん。一緒に帰ろうか」

 愛おしそうに、背伸びをしてそっと沙夜乃の頬を撫でる光。

「うん」

 沙夜乃は親子に再び会釈し、光もそれにならう。二人は腕を絡ませ合いながら、その場を去った。


「今日どうだったの?」

「いつも通りだよ。何事もなく平和に終わった。サヤは?」

「こっちのバイトもそんな感じ」

「そっか。それが一番だよね」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。




 二人と同じ大学に通う後輩達が、そんな様を目にし、口々に囁きあう。

「見て! 沙夜乃さんと光さん!」

「美女カップルだよねー。正直最初はちょっとびっくりしたけどね。でも今となっては本当、雲の上の存在だわ」

「あーあ、沙夜乃さんか光さんみたいな人になりたいわーマジで。あたしじゃ無理だろうけど……」

 二人は、誰もが憧れるカップルだった。




 あの頃の生活が嘘のようだ、と沙夜乃は思う。

(……『嘘のよう』じゃないね。『嘘』にしたんだから)

 もう枷はない。何にも怯えることなく、微笑むことができるようになった。



 

 「光」を殺したあの朝。早朝に目覚め、けれど全裸のまま二度寝してしまった光を起こさぬように、沙夜乃は静かに起き出した。確認しておきたいことがあった。


 まず自分の体を姿見まで使って隅々まで確認してみた。「光」に振るわれた暴力の証は、どこにもなかった。胴体・肩から肘・足の付根から膝も含めて、傷一つない肌がそこにあった。


 続いてクローゼットを開けてみた。その右半分には「光」の衣類、左半分には沙夜乃の衣類を収納することになっていた。

 目に飛び込んできたのは、右端に寄せられたパステルカラーや白黒など、大人しめの色のスカートやワンピースといった、女性ものの衣類。

 吊るされたそれらの下に置かれた、木目調の小さな箪笥の引き出しを、ドキドキしながら引いてみる。一番上の段には、女性もののショーツ。二段目には、小さめサイズのブラジャー。いずれも自身の存在をひけらかすまいとするような、控えめな色合い。

 でもやっぱり念の為…… と、光のバッグを漁り、財布を取り出した(どちらも女性ものに変わっていた)。保険証を確認してみる。

 記されていたのは光の名と…… 「性別 女」。


「サーヤっ!」

 弾んだ声とともに後ろから細腕に抱きつかれ、一瞬背筋が凍りついた。が、気を取り直し、まずは謝る。

「ごめんね、勝手に見ちゃって……」

「いいんだよ! サヤはいつでも、勝手に見ていいの」

 部屋着を身にまとった光の、屈託のない笑顔。そこに「光」の面影は全く無い。


 「光」ならば、私物を勝手に見たらただでは済まなかった。

 改めて胸の奥底から安堵がこみ上げてきた。

 そっと光の髪を撫でてみる。さらさらとした、触り心地の良い髪だった。




 「光」だった人物の中からは、「光」の人格が消え失せていた。

 現在の光自身も、かつて自分が「光」という名の男だったことを欠片すらも覚えていない。「光」とは真逆で、優しくて明るくて、沙夜乃によく甘える、女の子らしいものが好きな、普通の女の子だ。

 本人だけではない。光の周囲の人間達も、「光」を忘却し、代わりに「光は最初から女性だった」という植え付けられた記憶に従い、現在の光を当たり前のように受け入れている。

 保険証の例で分かるように、公的な書類も書き換えられているようだ。


 「光」は世界から完全に消滅した。というよりも、最初から生まれてさえいないことになった。そのポジションには今の女性の光が収まり、誰一人それに違和感を覚えることはない。この世の誰も「光」が沙夜乃に「殺された」ことを認識できないのだから、沙夜乃が罪に問われることは、当然ない。

 「光」が過去に残してきたものも、それまでに経験してきた全ての感情も何もかも、何一つ、なくなった。沙夜乃の中以外には。


 沙夜乃だけは覚えている。自分が「光」に何をされたのかも、何をしたのかも。

 確かに自分の行いは、「殺すよりも酷いこと」だ。「光」は消えたことにすら気付いてもらえず、弔うことすらしてもらえないのだから。


 けれど、罪悪感は驚くほど湧いてこなかった。敵がいなくなってくれて、ただただ心の底から幸せだった。

 自分を理不尽に縛る者が存在しないこと。好きなスポーツや服装ができること。決して心身を傷つけることなく、優しく寄り添ってくれる恋人が存在すること。それらがこれほど幸福なのだと、やっと知れた。




 昨日くらいにやっと気が付いたのだが、自分に「光」の殺し方を教えてくれたあのアカウントの名前もアイコンも思い出せない。あれほど何度もやり取りしたダイレクトメッセージも削除されていた。単にアカウントを消しただけなのかもしれないが、それにしては妙なのだ。


 ダイレクトメッセージで話した内容が、思い出せない。「光」の殺し方以外、何を話したのか、何一つ思い出せない。「話していて楽しかった」という感情以外、何も。

 何よりも…… 「光」を殺すために他ならぬ自分自身が一週間も毎日行っていた儀式の内容が思い出せない。あんなに逃げ場のない思いで行っていたのに。


 あのアカウントの人物は…… ひょっとしたら「人物」ではなかったのかもしれない。

 今更ながら思い至るも、恐怖は全く湧いてこなかった。「光」を殺させてくれた感謝しか、なかった。

 ……そういえば、「光」に殺すよりも酷いことをする代償が云々と言っていたが、今のところは特に何の変調もなく、光と平和に過ごせている。

 あれはただ私の覚悟を問いたいだけだったのだろうか。まあいい、今が幸せなのだから……




 そんな沙夜乃が、ようやくおかしいと気付き始めるのは数日後のことだった。

 光の覇気が、徐々に無くなってきているように見える。好きな食べ物を作ってみたり、デートの回数を増やしてみたりと色々試したが、やはりおかしい。ふとした拍子にやっと笑ったと思っても、何かに気付いたようにふっとまた辛そうな顔に戻ってしまう。そうして、時折沙夜乃をどこか寂しげに上目遣いで見上げるのだった。


 まさか…… 記憶が蘇った? そんなはずは…… 殺せたはずなのに……

 最初は気のせいかと思っていたが、それで通すにはやはりどう考えても無理がある。


 ある晩、沙夜乃はソファに隣り合って座ってきた光に訊いてみることにした。


「最近何かあったの?」

「え? 何のこと?」

 小首を傾げ、とぼける光。けれど一瞬だけ、激しい狼狽の色を顕にしたのを、沙夜乃は見逃さなかった。

 なるたけ優しく話しかけてみる。

「怒ってるわけじゃないよ。ただちょっと元気ないなって」

「……」

 俯き加減になる光。自分が今座っているのは、ちょうどあの日「光」が陵辱された場所なのだと知る由は、無論ない。


「心配なんだよ」

「……」

「光、あなたは私の大事な彼女なの。だから、話してほしいな。何かあったのなら。私にできることなら何でもする。

 ねえ…… 言ってみて。どうしたの?」


 光は沙夜乃から目をそらしたまま、しばし何事か逡巡していた。

 どれほど経った頃か、ようやく顔を上げた。

「あのね…… その、こんなこと言ったら、怒らせちゃうかもしれないんだけど……」

 今にも消えそうな、弱々しい口調。

「怒らないよ。大丈夫。ちゃんと聞くから」

「そう……? じゃあ……」

 光は口ごもり、けれど今度こそ言葉にした。


……」


「…………え?」

 あまりに意図のつかめない言葉に、呆けるしかなかった。


 もじもじと、恥じらっているようにさえ見える仕草をしつつ、光は続ける。

「最近、全然殴っても蹴ってもくれないし、噛んでもくれないし…… あっ、あとその、ちょっと優しすぎるし…… 私はダメな子だから、もっとちゃんと厳しくしてもらわないともっとダメになっちゃうのにって…… あ、それに、サヤは家事なんてやらなくていいんだよ? 私達女の子同士だけど、そんな時はバイトでいっぱい稼いでる偉い人にやらせるべきじゃないよ。疲れて帰ってきてるんだから。どんな時でも、下の立場の私がやらなきゃ。あ、あと、セックスも最近全然してないからさ。どうしたのかなって。私はサヤに付き合ってもらってるんだから、サヤは自分がしたい時に、自由にしていいんだよ。私の同意なんてなくても。ね?」


 この子は何を言っているんだろう。

 何を言っているんだろうこの子は。

 これでは、まるで……


「あ、それとね」

 光は、どこからかキャラクターものの小さな手帳を取り出し、ページをめくった。

「今日ね、サヤのいないところで勝手に微笑んじゃったの。三回も。ちゃんと数えておいたよ。いけないよね。サヤは頑張ってるのに、私だけヘラヘラ笑ってるなんて。だから、だから」

 するり、とワンピースを脱ぎ捨て、下着姿になる光。随分と久しぶりに見る光の肌は、痣や切り傷や噛み傷でいっぱいだった。ご丁寧に、ちょうど半袖の服で隠れる部分だけが。

「罰を、与えてもらわなきゃ、って……」

 硬直する沙夜乃に、光は歪に微笑んだ。




 要らない女は生めたくせに、男の子を生めないなんて。この役立たずが。

 光が物心ついた頃から、克明かつあきは妻をそう罵るのが癖だった。

 妻だけではない、光も暴言と暴力の対象だった。「自分が望んだ性別ではない」というだけで、克明にとっては虐げていい立派な理由になった。

 家庭という閉鎖空間の中でそんな日々は続いたが、光が高校生の時、妻は光に話しかけたことがあった。

 克明の不在時、ボロボロの妻は光の両肩に手を置き、真剣に、目を見て、切羽詰まったように。

「ねえ、もう逃げよう。逃げようよ、パパから。お願い、一緒に…… このままじゃ……」

 光は少し考え…… 首を横に振った。

 そして、こう言った。

「ダメだよ。お母さんも私も幸せなんだからそんなこと言っちゃ。だって、支配してもらうのが、女の子の幸せなんだから……」

 妻は今にも泣きそうな顔になった。


 「俺はダメなお前達を教育してあげている。感謝しろ」そんな戯言を聞かされて育てられ、光はそれが正しいのだと考えるようになっていた。

 というよりも、そう考えていないと心の安寧を保てなくなっていた。

 私は幸せなんだ。お父さんは酷いことをたくさんするけど、それもこれもクズな私やお母さんに良くなってほしいからなんだ。諦めずに指導してくれるなんて、なんて優しいんだろう。ありがたいことなんだ。感謝しなきゃいけないんだ。

 感謝しなきゃ感謝しなきゃ感謝しなきゃ……


 辛いと思わないように、痛いと思わないように。必死で自分に言い聞かせていた。言い聞かせすぎて、とっくに自身の中の大切な部分が壊れてしまっていることには、気づけなかった。


 妻は光の返答を聞いて以来、寝室で布団にこもって過ごすようになった。克明はそんな妻を相変わらず怒鳴り続けた。光はそんな二人を見ながら、母は気の毒だが、父が怒るのは仕方のないことなのだと考えていた。


 結局、光が十六歳になる数ヶ月前から「さっさと結婚させて男孫を生ませる」と光の結婚相手を探し始めた克明の言動が流石に周囲からも異常に思われ始め、そこから芋づる式に家庭で妻子に対して行ってきた非人間的な行為の数々が明らかになり、大揉めに揉めはしたが克明とその妻の離婚が成立した。

 妻は実家に帰ったが、今でもほとんど引きこもったままなのだという。

 光はどちらにもついていかず、高校の寮に入り、そこで卒業までを過ごした。



 

 けれど、「支配してもらうのが女の幸せ」という歪んだ考えは抜けなかった。

 理解してはいるのだ。そんなのはおかしいと。支配されず、自分の意思で自由に生きることが幸福なのだと。

 けれど幼少期から叩き込まれ続けてきた誤った思想が根強く、自分のその思考を自覚することができない。ふとした違和感がよぎることがあっても、それが詳細な形を持つことは決してない。

 だから、今日も暴言と暴力に縛られることを、自ら望む。望んで、しまう。

 ちょうど、かつてあの男が理想とした女のように。


 たった一人の人物が蒔いた種は、現実が大きく改変された今となっても、形を変え、別の呪いとして存在し続けたのだ。




「ねえ、サヤ…… 私を、幸せにしてよ」

 沙夜乃は動けなかった。

 けれど、動かなければならないのだと分かった。




 はあ、はあ。


 荒い息が、決して広いとは言えない室内にこだまする。汗が全身からぼたぼたと流れ落ちる。このままでは全身の水分がなくなってしまう。それでも、汗は無限に湧き出し続け、自分の肉体の下に横たわる恋人に降り注ぐ。

 

「……ねえ、どうしたの?」

 腹部を望み通りに散々に殴られ、苦しそうな光が、歪んだ表情のまま話しかけてくる。


 ――私、こうやって暴力を振るうのを当然だと考えるような、そんな奴になっていくのかな。「光」みたいに、なっちゃうのかな。


「……どうしたの? どうして……」


 ――光は、これ以外を本当の幸せと受け取ることができなくなってしまった。私の責任だ。


「なんで、泣いてるの?」


 ――他人を自分の思い通りにしようとする。なんだ、私だって、「光」と同じことをしたんじゃないか。

 そうか、これがあの時言われた……


 光は困惑し、けれどやがて、合点がいったように少しばかり苦痛の和らいだ表情で言った。

「あ、もしかして『幸せすぎて怖い』ってやつ?」


 沙夜乃は微笑んだ。

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微笑みを数える日 ~一人のバカが死ぬだけの話~ PURIN @PURIN1125

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