第46章 導かれし者

 3月2日、20時過ぎ……浦和駅前のビル群から外れ、まばらな街灯のみが辺りを照らしている。その一角にある寮の前で、私とミカ、ナオは少し話をしていた。


 本来なら浦和駅で私たちは、解散するはずだった。私とナオは寮生活なのだが、ミカは少し離れた実家から通勤している。確か、与野よのの方面だったと聞くが、正確な位置までは分からない。

 いずれにしろ、ミカは浦和駅で降りずにそのまま電車に乗っていれば、最寄り駅に着くはずだった。しかし、彼女はこうして私たちと一緒に電車を降り、寮の前まで付いてきてくれたのだ。


 その理由は、何となく察しがついていた。喋り足りない、という単純な理由ではない。


「今日はごめんね……色々と振り回しちゃって。ミカも、ここまで来てくれて」

「いいよ、そんなこと。それより、藤花ずっと調子おかしかったじゃん? 別れた後に倒れちゃった、なんて聞いたらそれこそ夢見が悪いし」


 やはり、彼女は私の体調を気にかけていたようだ。無理もない、病院を逃げるように抜け出し、しかも駅前では頭を抱えて座り込んでしまったのだ。何かあったのだろう、と疑わない方がおかしい。


 およそ8時間前……高木から、岬 千弦という人の連絡先を渡された後のことだが、私たちは近くのカフェに立ち寄り、電話を掛けるべきか三人で議論を重ねた。

 その時にはすでに私の体調は回復しており、今からでも電話を掛け、直接話をしたいと打ち明けていた。しかし、二人から猛反対されてしまったのだ。


 当然のことだ。ついさっきまで、歩くこともままならないほどの痛みを、しかも頭部に起こしていたのだ。記憶障害と何らかの関連性を疑うのが普通であり、そんな状態でより脳に負荷がかかるようなことを、友人として推奨など出来るはずもない。


 結局、私はそんな二人の説得によりその場で電話することを諦め、こうして寮の前まで来たわけだ。


 確かに、今冷静になって振り返ってみても……明らかに無謀なことだった。もし、ミカ、もしくはナオが同じ状況になったとしたら、私も必死で止めたことだろう。

 愛されているのだな、と改めて実感するとともに、口元が少し緩む。


「……えへへぇ……」

「……なに笑ってんの。気持ち悪っ」


 しまった、ミカに見られていた。真剣な顔で心配している友人を前に、こんなだらしのない表情を見せつけてしまった。少しカッコ悪い。

 しかし、そんな私の様子を見て安心したのか、ミカはフッと小さな笑みを浮かべる。


「もう、大丈夫そうだね。ナオ、何かあったらすぐに連絡してね。……そんで、藤花はその連絡先に、絶対に電話しないようにね。もし電話するのなら、私たちのうちどっちかに相談してからにすること。いいね?」

「……もー、そんなに心配しなくたって。私だって、ちゃんと考えて行動するってば」


 ミカの、母親のような言い草に、少しだけ唇を尖らせる。そんな私の言葉を聞き、ミカとナオは、わざと私に聞こえるように、コソコソと話を始める。


「……自覚、あったんだね。暴走するって」

「……そうみたい、ね。意外だわ……」

「聞こえてるんですけど!?」


 軽く地団太じだんだを踏む私を見て、ミカとナオはクスクスと笑う。まるで緊張感のないやり取りに、思わず私もつられて笑ってしまった。

 住宅しかない寮の周囲を、私たちの笑い声が支配する。雨はすでに止み、冬の名残が一層、私たちの声を鋭く響き渡らせてゆく。


「はぁーあ、さてと。もうこんな時間だし、明日は……また仕事ないかもだけど、一応自宅待機しておくからね。何かあったら絶対に連絡してね! じゃ!」


 ミカは、私の笑顔を満足そうに見届け、きびすを返し歩き出す。


「バイバイ、今日はありがとう!」


 遠くなる背中に声を掛ける。ミカは、振り返ることなくその右腕を挙げ、ひらひらと手を振り、そのまま闇の中へと消え去った。笑い声は消え、バイクや車のエンジン音だけがこの閑静な住宅街に響く。


「……ナオも、今日はありがとう。まさかお母さんに会うとは思ってなかったけど」

「いや、それは私もびっくりしたけど……ミカも言ってた通り、今日は大人しくしてね。んだからさ……」


 そう言って、ナオは私の頭をそっと撫でる。


 『焦ることなんてない』……記憶を失っていない者からすれば、命に関わることではないからこう言えるのかもしれない。しかし、私にとっては大事なことだ。私が一体、どういう風に生きて、そしてどうして記憶を失うようなことになったのか……それをすぐに知りたい、というのは私の我がままなのだろうか。


「……」


 得体の知れないモヤモヤとした気持ちが、心の中で渦巻いていく。二人の気持ちはとても嬉しい。私の身を案じてくれている、というのが素直に伝わってくるから。でも……。


「……結局、私のことを理解してくれる人はいない、のかな……」


 隣のナオには聞こえないように、ボソッと呟く。雲間から一瞬だけ見えた月が、私を嘲笑あざわらっているように見えた。








 23時――――

 普段ならもう眠っている時間帯だが、私は全く寝付ける気がしなかった。高木という女性がくれた、この、岬という人の連絡先……電話番号から察するに、携帯電話なのだろう。思い立ったら、すぐにでも電話を掛けることが出来る状況だ。そして、電源を切っていない限りは、岬という人に繋がるはずだ。


「うぅ~、どうしたらいいのかなぁ……」


 ゴロゴロ、とベッドの上を転がる。強い興味と、友人たちへ連絡すべきかどうかという葛藤。それに、こんな夜中に掛けてもいいのだろうか、という常識的な問題もある。

 何せ、名前しか知らない相手なのだ。この名前……千弦、というものからして、多分女性だと思うのだが……知らない番号からの着信など、必ずしも応える訳ではないだろう。特に女性は、この手の電話を嫌う傾向にある。


「どうしよう、かなぁ……」


 仰向けに寝転がりながら自身のスマホを持ち、発信画面を起動させる。あとはこの画面に、紙に記載された数字を入力するだけ……なのだが、どうしても指が動かない。興味と恐怖が拮抗している状況だ。


「はぁ、どうしよ……あっ」


 ふと、スマホを掴む手の握力が弱まり、その手からスマホが落ちる。そして、その真下にある私の顔面にクリーンヒットする。


 ガツッ


 小さく鈍い音が部屋に響き渡る。じんわりとした、しかし無性に腹立たしい痛みが額を襲う。


「も~……痛いなぁ……はぁ、バカみたい」


 一度冷静になろう、そう思い私はキッチンへと向かう。コップの半分ほどに水を入れ、一気にあおろうとした、その時だった。



 ピリリリリ……ピリリリリ……



 寝室の方から、スマホの着信を知らせる音が聞こえてきたのだ。

 不意を突かれ、私の心臓は喉から出てきそうになるほど、強く跳ね上がる。そして手からはコップが滑り落ち、そのコップは大きな音を立てて床当たり、周囲へ水を撒き散らす。不幸中の幸いと言うべきか、コップはプラスチック製だったため割れずには済んだが、それが余計に私を苛立たせる。


「あ! ……あーもー、何? 何なの……?」


 濡れてしまったキッチンの床は一旦置いておくとして、一先ず、あの鳴り響くスマホを確認しないことには始まらない。

 こんな時間に、一体誰が電話してくるというのだろう。ミカやナオではない。彼女たちは、私がいつもこの時間にはすでに寝ている、ということを知っている。……明日の仕事についての話だろうか。それなら理解できるが……。


「……う?」


 スマホに表示された発信先を見て、私は目を疑った。電話帳に登録のない番号だったが、この番号には見覚えがある。そう、先ほどから何度も電話しようか、どうしようかと逡巡しゅんじゅんしていた、あの番号……岬 千弦の携帯番号だった。


 私が電話を受けるべきか躊躇ちゅうちょすることを予期しているのか、着信音はずっと鳴り止まない。あたかも、私の行動が監視されているかのようで、背後に寒気を感じる。

 しかし、こうなってしまっては仕方がない。私から電話をしたのではなく、向こうから電話をかけてきたのだ。ミカたちに相談なんてしようがないし、第一、そのスマホが今、着信を受けているのだから。


 意を決し、私はスマホを手に取る。そして、通話へと切り替え、恐る恐るスマホを耳に当てる。


「……もしもし?」

「……」


 なぜか、電話口からは何も聞こえてこない。環境音のような、ザーッというものだけ。むしろ私の部屋にある冷蔵庫の方が、よっぽど音を発しているような状況だ。

 おかしい、向こうから掛けてきた電話だというのに、もしもし、という言葉すら聞こえてこない。まさか、悪戯電話なのだろうか。


「あの、もしもし?」


 もう一度、少し大きめの声で呼びかけてみる。しかし、返ってくるのは環境音のみだ。やはり、偶然似たような番号からの悪戯だったのだろうか。


「……切りますよ? いいですね?」


 通話料金の問題もあるし、何より先ほど零してしまった水を拭き取らなければいけない。もう、こんな悪戯に付き合う必要はない。さっさと切ってしまおうと、スマホを耳元から遠ざける。

 すると――――


「……宮尾さん、ですね」

「……っ!?」


 急に、受話口から女性の声が聞こえてきたのだ。驚き、危うくスマホを取り落しそうになる。慌てて耳に当て直し、脳内に押し寄せる質問の波を、電話口の彼女に浴びせようとした。


「も、もしもし? あの、あなたは一体――――」


 しかし、私の言葉など聞こえていないように、彼女は質問を断ち切る。


「私は、岬 千弦。宮尾さん、あなたが本当に、過去を知りたいというのなら……全てを捨てる覚悟で、これから指示する場所に、指示する時間に来てください」

「え、ちょ、待っ――――」


 まるで自動音声のようだ。一方的に話を始め、用件だけ伝えて電話を切る、あの面白みのない音声とそっくりだ。


「明日、3月3日……13時ちょうど。代々木警察署の入り口まで来てください。そこで、中原という女性の警察官が迎えに来るでしょう。よろしい……あぁ、そうだった。あなたは少しだけ、記憶力が悪かったですね。繰り返しましょうか?」

「……え?」


 なぜ、そんなことまで知っているのだろう。

 確かに、私の記憶力は少しだけ悪い。しかし仕事中は、物覚えが良い、と上司に褒められたこともある。義務教育課程の知識だって、極端に忘れているような分野は無かった。

 ただ、つい先日、ナオから『記憶力が悪い』と指摘されたばかりだった。約束の時間とか、場所というものは抜けやすいようなのだ。


 そんな、自分でも気付いていなかったようなことを、この人は知っている。それはつまり、この人と私はそれなりの長い時間を、一緒に過ごしてきたのではないだろうか。友人、いや、親友とも呼べるほどの、長い間を。


「ね、ねぇ……あなたは、一体誰なの? 私の、何を知っているの? 教えてよ、ねぇ……!」

「岬……」


 受話口から、ポツリと哀しげな声が響く。暗く、沈んだような声……先ほどまで機械のようだったものとは、明らかに変わっていた。


「え、あの……」

「……繰り返しますね。明日の13時、代々木警察署前です。それでは、おやすみなさい」


 岬は何か急ぐような調子で一気に言葉を繰り返すと、そのまま通話を切ったようだ。ビジートーンが私の鼓膜を刺激する。


「え、ちょっと! 何で?」


 一方的に、しかも意味深な様子で切られてしまったのだ。真意を聞くため、何度もリダイアルするも、すでに電源が切られてしまったようで、それ以降は一切、繋がることはなかった。


「……」


 訳が分からない。どうして岬は私の電話番号を知っていたのか。そして、私の性格……どちらかというと性質、だろうか。それをも知っていたのか。

 頭が痛くなる。心臓の鼓動に合わせ、ズキズキとこめかみの辺りが痛む。それは今日の昼、駅前で起きた症状と似ていた。


「うぅ……何も、分からない。分からない、けど……」


 一つだけ、確かなことがある。

 明日の13時に、代々木警察署の前に行かなければならない。全てを捨てる覚悟で、と彼女は言っていた。しかし、私には今さら捨てるものなど何もない。記憶が、家が、家族がいないのだから。


「終わらせるんだ……全部」


 そうだ、このモヤモヤとした気持ちを晴らすためにも。私自身を取り戻すためにも。明日、代々木警察署に行くしかない。どんな運命が待っているのかは分からない。でも、立ち向かってやる。









 同時刻、代々木警察署。

 小会議室、と書かれた小部屋に、岬、中原、高木、森谷。そして若い男性が一人いた。


「……これで、本当に良いの……?」

「……ああ、後は俺が何とかする。ありがとう、岬」


 電源の切られたスマホの真っ暗な画面を前にし、岬は小さく震える。ポタ、ポタ、と溢れ出る涙を、彼女は抑える様子もなく、ただ床を見つめる。


「…………あぁ……」


 涙を零し俯く岬を、中原は静かに抱き寄せる。小さな嗚咽おえつが、狭く暗い会議室の中に響く。そんな彼女たちを悲痛な表情で見つめる若い男、そしてその横には高木がいた。


「ごめんなさいね、私が口を滑らせたばっかりに……」

「あ、ああ……は悪くないですよ……悪いのは……多分、この決断をした俺、なんだと思うので……」


 顔色の悪い高木に、男は優しく声を掛ける。そんな彼らの会話を、苦しそうな表情で聞いていた森谷は、はぁ、と一息つき、男性に問いただす。


「……それで、君はどうするんだい? あんなニュースになるような事件を起こして、一体どうしたいんだ?」


 重い空気の中、その男は徐に立ち上がる。そして、窓の外を眺めながら、森谷の質問に答えた。


「今のところは、順調です。……明日、全てが決まります。彼女が人生を取り戻すために……俺は、全てを賭けます」


 グッと、固く拳を握りしめたその姿は、窓から差し込む月の光に照らされ、まるで神に導かれる聖人のように、輝いていた。

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