意外と忘れ去られがちな要素

 納得はしたが、それでも本当なら書きたくない要素というのが世の中には確かに存在する。書きたくない理由は無論、「面倒くさい」の一言に尽きるが、小説の世界を細かく構成するには必要なことだから仕方ない(漫画やアニメは余程背景が白くない限りはそうはなりにくい。ゲームもまた然り)。

 それは「時間の経過」の表現である。師から教わった、時間の表現や気温の表現は絶対に必要なものだから削ぎ落としてはいけない、という言葉は今でも私の中で生き続けている。

 この言葉に納得出来た理由は、時間帯をサブタイトルの前に持ってきている漫画(atの後に英語で時間帯が書いてある)があり、私はソレのファンだからというのがある。だから、紆余曲折ありつつも最終的には納得出来てしまった。たった数分、数秒だけでも表現する方法はいくらでもあるが、分かりやすいのは食事シーンだろう。異論は認める。一度コップに口をつけただけでも、数秒が経過したという扱いにはなるからだ。そのあと「カラン」と氷が鳴れば完璧ではないか。

 長ったらしい説明や引用も、読む人のためにはならず、寧ろすぐに飽きられる原因となる。ならば、作家に出来ることは、モリモリ捻り出した上で美しい言葉を、世界を紡ぎ出すことではないだろうか。オリジナルなら特にそうだろうことは明白で、描写を細かくしないと分からない箇所が多くなる。漫画やアニメ、ゲームとは訳が違うのだから、描写を多くして損はないだろう。

 セリフは余程シナリオに関わらない限りは「チェックポイント」の一つと考えた方がいい。逆にセリフを多くしてしまうと、台本になってしまう。台本のような小説は、(純文学を目指している者限定だが)あまり読まれない。寧ろ場合によってはプロットだと思われてしまう(ライトノベルであれば話は別。ただ、その場合も西尾維新レベルが適切だと、私は考えている)。

 大体にして、人とクオリアを共有することは出来ない。私でさえ生まれて23年経って、ある出来事を経て漸く気づいた事実である。だからこそ、小説ではどんな風に伝わるのかを考慮して書いた方がいい(この辺は児童向けのホラー小説でも案外徹底して書かれている)。挿絵がない場合は特に、である。例えば、「お茶が入った湯呑み」とだけ書かれたらどんな風に思い浮かべるだろうか。お茶にもさまざまな種類があるし、湯呑みの材質も一つではない。もしかしたら茶柱が入っていたかもしれない。視点次第では、登場人物の心情という形でクオリアを共有することもできるだろう、と私は考えている。

 小説家にとって一番ベストなのは、文章から色や味を感じられることだろうか。それとも全く別のことだろうか。私には分からない。

 

 

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