第1話 狐の魔法を継いだ者
講演会の裏事情
試験を乗り越えて迎えた八月最初の土曜日。
人がすっかりいなくなった夏休みのキャンパスは、日頃の喧騒が嘘のように静まり返り、より一層激しさを増した
夏季休暇に入ったばかりの時分から就職活動を始めるような熱心な学生は、三回生の中にもそれほど多くはないだろうと思っていたのだが、講演の会場となる講堂の周りには既に人が集まり始めていた。
やはり、最近話題になっている有名ブランドの社長がやって来るというだけあって、興味を引かれた人は多いようだ。
「あ、
木陰に立つ一人の女性が青年に気付いて手を振った。
「ごめん
「ううん、ウチも今さっき来たとこ」
今日の彼女は、編み込んだ髪を後ろで束ねて
今来たばかりと笑顔を見せてくれた彼女だが、額や首元には汗が滲んでおり、静夜はすぐ室内へ入ろうと促す。
普段は滅多に立ち寄らない産業社会学部の基本棟。その横に併設されたホールが今回の会場となっていた。
入口には『就活生のための特別講座』と銘打たれた看板が立て掛けられ、広くて席数も多いホールの中は既に半分くらいの座席が埋まっている。
「うわッ! 思っとったよりもすごい人気やねぇ」
と感嘆しつつ薄暗い会場内を見回していると、栞がステージのところで何やら大人たちに指示を出している一人の学生らしい人影を見つけた。
「なぁ、あれってもしかして、
「……え? あぁ。あの派手に赤く染めた髪は、確かに
出会った頃はそうでもなかったが、坂上康介の髪色はどんどん明るく垢抜けていき、それと比例して彼の軽薄さにもさらに拍車がかかって来ていると感じる今日この頃。
クールビズのスーツ姿で決めた大人たちに混ざって、オフィスカジュアルの服装で現場を仕切っているように見える彼の様子は、なんだか不思議というか、違和感がすごかった。
そんな学友を二人で呆然と眺めていると、視線に気付いた康介が振り返って二人を見つけ、舞台から降りて駆け寄って来る。
ニヤニヤと浮かべた底意地の悪い笑みはいつもの彼らしかった。
「何だよ静夜、やっぱり来たのか? 俺がこのこと喋った時には興味なさげにしてたくせに。しかも栞ちゃんまで誘って……。デートのつもりか?」
のっけから御挨拶な嫌味をかまして来る悪友に対し、静夜は腕を組んで「ふん」と鼻を鳴らす。
「デートのつもりだったらこんなところには絶対に来ないよ。それに僕はホントに来る気なんてなかったんだ。でも、栞さんがどうしても行きたいって言うから……」
「おいおい静夜、それはちょっとずるい言い方じゃねぇか?」
「ええよ、ええよ! ウチが結構強引に誘ったんはほんまやし……。それよりも、康君はこんなところで何しとるの? 講演会のお手伝い?」
「まあ、そんなとこ。前にもちょっとだけ話したと思うけど、俺って親父の仕事の関係で雪ノ森の人たちとは交流があるからさ、その辺の繋がりで、ちょっとな」
「でも、京都で講演会なんてよくできたね。平安会のお膝元なのに……」
「まあな。って言っても、そっちからの圧力は全然なかったみたいだぜ? 雪ノ森んとこが静夜たちの組織と手を組んでるって話は秘密にされてるっぽいし、
「へぇ、なるほど……」
康介からの裏話を聞いて、静夜は納得する。
一応、平安会のことは気にかけているつもりらしい。
「せやけど、
京都の陰陽師を束ねる平安会に所属する陰陽師で、
それなのに彼は、その時に知った事実を実家はおろか平安会に報告することもなく、一人で胸の内にとどめているようだ。その証拠に、スノーフォックスの商品は未だに京都市内でも普通に販売されている。
「おおかた、今のところは放っておいても大丈夫って思ってるんじゃないかな? ニット製品に限って言えば、雪ノ森冬樹の〈フォックスマジック〉で妖を引き寄せるようなことにはならないし、それは昔に平安会が自分たちで調査して問題なしって認めてる。一度流通してしまった商品を陰陽師の都合で街から全部排除するなんてほぼ不可能だし、やるってなったら莫大なコストがかかるからね……。あのスキー場で見たような紛い物の〈フォックスマジック〉が掛けられた商品がリリースされるまでは知らないふりをしていようってことだと思うよ?」
静夜たちが今年の冬に見た、紛い物の〈フォックスマジック〉。
それは、雪ノ森冬樹が作り上げた〈フォックスマジック〉を改良し、ニット製品以外の物にも狐の魔法をかけようとした実験の産物だった。
スノーフォックスは自らが運営するスキー場『フォックスガーデン』にて、スキー客にその試作品を貸し出し、その効果や評判をリサーチするとともに、何らかの問題が発生しないか実証実験を行っていた。
そしてその結果として、一つの重大な問題が発生した。
改良された〈フォックスマジック〉を付与された品は、そこに残された『悠久の宝玉』の気配によって妖を引き寄せてしまうのだ。
陰陽師協会が手を回したことで人的被害はもみ消されたが、アレは死人が出ていてもおかしくない事態だった。
そんな事件があってもなお、スノーフォックスは陰陽師協会から力を借り、〈フォックスマジック〉や『悠久の宝玉』の研究を続けているらしい。
そんな彼らが、京都市の中心部に位置する京都大学で、しかも京都の英雄と讃えられる竜道院星明が見に来るであろう場所で講演会を開くのはさすがに不味いと思ったのだろう。
だからこそ妥協案として、顔見知りである康介や、陰陽師協会の京都支部のメンバーが通っている静夜たちの大学が選ばれたとすれば、すごく自然な流れであるように思える。
「坂上さん、すみません! ちょっと来ていただけますか?」
そこで、後ろから駆け寄って来たスノーフォックスの社員と思われるパンツスーツの女性が康介に小声で話しかけた。どうやら立ち話はここで終わりらしい。
すらりと背の高い女性社員から話を聞いた康介は「分かった、すぐに行く」と手短に答えて、静夜たちに断りを入れてから舞台袖の方へと戻って行った。
「……康君、大変そうやね」
「楽しそうにも見えるけどね」
「せやね」
取り残された静夜と栞は、社員と思われる係の人の誘導に従ってホール中央あたりの席に落ち着いた。
受付で貰った会社案内のパンフレットや広告に目を通しながら開演を待つ。
冷房を必要以上に効かせた館内は肌寒く、栞は夏用のカーディガンを羽織ってハンカチで汗を拭う。
静夜は持参した飲料水を口に含み、顔を上げたついでに座席が埋まり始めた講堂内を見渡した。
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