羽衣がその身に纏うもの
「――解せぬな。人間とは元来そういう生き物であり、他者や集団に依存する〈存在の定義〉の何がそんなに気に喰わんのか。……妾には理解出来ぬな」
羽衣の据わった声音が低く響いて空気ががらりと変わった。
その瞬間、先程まで揺らめいていた「何か」がはっきりとした輪郭を得て立ち現れる。
駄々をこねて言い訳を並べる子どものようだった
「それは人間にとってごく自然で、当たり前で、普通のことではないかのぉ? ……由緒ある血筋に生まれること。家名や権力を守ること。自分の存在を保証してくれる何かに守ってもらうこと。人が人としての尊厳を保ったまま生きていく上で、それらはどれも必要であり大切なことじゃ」
力強く確信を持って語るその迷いの無さに、言葉に出来ない迫力を覚えて一瞬怯む。
だが、そこに羽衣なりの信条があると分かると、
「ふ、ふん……。お前が伯父上からどんな教育を受けて来たかは知らないが、所詮はお前も竜道院家の人間というわけだな。長いものに巻かれていないと安心できないのか? ……自分の在り方を決めるのは自分だ。自分の生き方を決めるのも自分だ。自分が正しいと信じた道を行き、自分の決断と行動には自分で責任を持つ。他人の言葉や環境を言い訳に使っているうちは自分の尊厳なんて語れない!」
「笑止。間違えておるのはお主の方じゃ、夜桜の。人の在り方も物事の善悪も、それらを決めるのは自分ではない。決めるのは世間や歴史、自分以外の他人じゃ。自分の〈存在の定義〉を自分で定めたところで、世間が認めなければ意味がない。どんなに自分が正しいと思った行いでも歴史が悪と断じればそれまで。お主の語るそれは、ただの自己満足と独善的な正義の押し付けに過ぎん」
「な、なんだと……⁉」
「妾が『竜道院羽衣』であることは家の者も、一門の者も「皆」が望んでおることじゃ。そして妾は、「皆」が正しいと思ったことを行い、願いを叶え、期待に応え、「皆」から『竜道院羽衣』であることを認められておる。故に妾は『竜道院羽衣』で在るのじゃ。自分しか己を肯定するもののないお主の言葉には何の重みも、価値もない」
「伯父上たちの反対を押し切って伯母上を助けに来た口で、よくそんなことが言えるな」
「これには生まれも役割も関係あるまい。家の者がなんと言おうと、その他の「世間」が認めてくれるわ。娘が母の身を案じて何がおかしい? とな」
羽衣の言葉には確かな自信と強さがあった。自分以外の誰かから認められた、保証付きの正しさ。誰もが納得する自然な感情。容易には否定できない集団の肯定。個人の小さな力ではとてもひっくり返せない人としての真理を、羽衣は味方につけていた。
京都の陰陽師にとって禁忌とされる憑霊術に手を染めた舞桜は、押され気味だ。
「……それでも、私は今のままこの道を曲げるつもりはない。ここで折れたらそれこそ何も残らない。自分はこう生きると、自分が歩きたいと思った道を最後まで進んでみて、その先にどんな景色があるのかこの目で見るまでは納得もできない。……たとえ途中で
「その先に待つ景色とやらが、お主の望むものではなかったとしても、かの?」
「……お前こそ、大多数の意見だけを聞き入れて、少数派の意見は全て切り捨てるつもりか? 人の目ばかりを気にして自分を押し殺して生きることこそ何の意味もない」
「ほほッ、それは如何にもお主らしい台詞じゃな。しかし、妾に言わせればそのような戯言は弱者の詭弁に過ぎん。誰にも理解されぬことを、誰にも認めてもらえぬことを世間や社会のせいにして、己の矮小さを正当化するばかりで何の役にも立たん。そして自らの信念を貫いた末の華々しい散り様であれば、誇り高く後悔はないと唱えて負けた時の言い訳に使いよる。生き様ではなく死に様で語る在り方など、何の説得力もないと思わぬか?」
「……」
そこで舞桜は完全に返す言葉を失った。
羽衣の弁舌は止まらない。
「お主が自分で善悪を判断するように、他人も別の価値観から善悪を決める。何が普通で何が異端か。ルールもマナーも所詮は人が決めるものじゃ。そしてその人とは強者。名声や権威を持つ者じゃ。そして弱者は、強者の情けと良心によって居場所を用意してもらい、生かされているだけに過ぎぬ。強者がその気になれば、弱者の生きられる世界は簡単に取り上げられてしまうぞ? 世間への奉仕も社会への貢献もせずに自己実現欲求ばかりを満たそうとする愚か者は、決して誰からも理解されぬ。誰からも認められぬ。自分勝手で自己中心的な、子どものわがままに耳を傾ける大人はおらんからのぉ……」
羽衣は言葉を吐き捨てて、舞桜の信念にとどめを刺した。
奥歯を噛み締めて悔しさを滲ませても、ここから年下の従妹を言い負かす演説はとても浮かんできそうにない。
羽衣の言い分は、どうしようもなく正しかったのだ。
現代社会を支配しているのは、民主主義と資本主義。
一族一門を味方につけ、権威も実力も併せ持つ絶対強者に、一門を追われた持たざる少女が勝てる道理は、あるいは最初からなかったのかもしれない。
舞桜は花がしおれるように項垂れて、敗北の事実を受け入れた。
「……それで? お主らの話とやらはこれだけかの? まさかこんなくだらない自己主張をするためだけに妾に恩を売りつけたわけではあるまい?」
黙り込んだ従姉を捨て置いて、今度はずっと口を挟まずにいた
どう言って切り出すべきかと悩んでいたが、この場は小細工せずに正直に話した方が得策と考え、静夜は昨夜受けた依頼の件を羽衣に打ち明けた。
そして、なるべく今夜の一件を恩に着せて、
話を聞き終えた羽衣は、愉快な高笑いを上げて
「あははははっ! そそるッ! そそるのぉ……! いつの時代も馬鹿の考えることは面白い! まさかあれだけの目に遭ってなおも諦めておらんとはッ! 存外、男女の愛とやらもなかなか馬鹿には出来ぬのぉ……」
その身から溢れる好戦的な狂気を感じ取り、静夜は本能的に身構える。すぐにでも噛み殺されそうな身の危険を察知したのだ。
「良い。楽に構えよ。なんにせよ今宵はこれで終いじゃ。……それにしても、家の者の反対を押し切るだけでなく、よもや《陰陽師協会》を頼って
言葉とは裏腹に興奮した様子の羽衣はとても無害には思えない。
正直に話をしたのは失敗だったか、と静夜は肝を冷やした。
「羽衣、ダメですよ? これは京天門家と紅庵寺家の両家と、依頼を受けた静夜お兄さんたちだけの問題で、私たちが口や手を出すような話ではありません。前の時のようなことをしたらお母さん、今度こそ怒りますからね?」
ずっと黙っていた
羽衣は母の厳しくも心配するような視線を一瞥し、軽く笑うと力を抜いて肌がひりつくような威圧感を内に収めた。
「……心配するでない。お主らの望み通り今回は何もせずに眺めておるわ。あの二人の愛の逃避行とやらをな……。それに、親族が認めぬ駆け落ちとなれば京天門と蒼炎寺の仲が深まることもあるまい。家の者もこれといって何もせぬじゃろう……」
「え? ほ、本当、ですか……?」
何故か静夜の口から敬語が飛び出す。あまりにも意外な返答で混乱してしまった。
「まことじゃ。何ならこの場で約束してやっても良いぞ? 妾はもちろん、他の竜道院一門の連中にも干渉はさせぬ。二年前とは違い、家の者に頼まれても妾は動かぬ、とな。此度は外から見物しておった方が面白そうじゃしのぉ……」
「ま、マジですか……」
驚嘆と納得と安堵が同時に押し寄せて来て静夜の口からは感嘆の吐息がこぼれる。
まさしく棚から
が、そうは問屋が卸さない。
「ただし!」と羽衣は一つだけ条件を付けて来た。
「ただし、もしも今夜の闇討ちが、京天門や蒼炎寺に関わる手の者の仕業であったならば、今度はあの二人の命を貰うぞ?」
対価は命。羽衣の眼は本気だった。
「羽衣!」と千鶴女史が声を荒げるも、本人は取り合うつもりがない。
「聞けぬぞ、千鶴。直接妾を狙うのではなく、お主にちょっかいを出して来たのじゃ。姑息な輩に遠慮をしてやるつもりなどない!」
「……」
そこには羽衣なりの、娘として至極当然の正義がある。母親ですら何も言い返すことは出来なかった。
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