斎間夏帆の現実④

 鴨川の河川敷に、男女のカップルが等間隔を開けて座っている。

 夕暮れに染まった京都の景色。流れる水のせせらぎと漂う郷愁の香りに身を寄せ合って、時間は普段よりも穏やかにゆっくりと過ぎ去って行く。


 俺は近くのコンビニで買って来た飲み物を差し出して、斎間さいま先輩の隣に腰を下ろした。


「……はい、どうぞ」

「ありがとう」


 アルミ缶のボトルに入ったカフェラテは肌に心地よく冷えていた。俺も自分の分の缶コーヒーはアイスを選んでいる。そういう季節だ。


「……」「……」


 少しだけ喉を潤し、沈黙が下りる。

 俺たちは、他のカップルよりも互いに距離を置いて座っていた。


「……あの、……身体の方は、もう大丈夫ですか?」


 前を向いたまま当たり障りのないところから問いかける。

 先輩は何が可笑しかったのか、クスッと可愛らしく笑って軽く深呼吸をした。


「うん……、たぶん大丈夫。本当に、ちょっと疲れがたまってるだけだと思うから……。ここのところは毎日バイト漬けだったし……。知ってるでしょ? ずっと見てたんだから……」


「ッ! ……」


 もう隠すつもりは無いけれど、そんなふうに言われるとなんかドキッとする。きまりが悪くて俺は顔を背けた。


「やっぱり、私のこと疑ってたんだ? ……それとも、坂上君にでも頼まれた? 私のことを調べるようにって」


「いえ、これは俺が勝手にやったことです。……その、すみません」


「どうして大智だいち君が謝るの? それは私の台詞だよ? ごめんね、怖い思いさせて……」


 思ったよりもやけに素直で、調子が狂う。別に俺は、先輩を問い質して糾弾したいわけじゃなかった。でも、変に気を遣う必要もない。

 俺は思い切って訊いてみた。


「あの、……なんで、こんなことしてるんですか?」


「そんなの決まってるじゃない。お金のためだよ?」


 少しの迷いもない即答が返って来た。


「……それって、大学の授業を疎かにしてまでバイトして、倒れるまで働かなきゃいけないほど大事なものですか? あおいさんの汚い商売を手伝って、人を騙してまで得るほど重要なものなんですか?」


「大事だよ? 私にとっては」


 何もかも諦めたような寂しい笑顔。そんな表情の斎間先輩を見たら、「それは違う」なんて言葉はとてもではないけど出て来なかった。


「……貧乏なのよ。私の家は。……早くにお父さんが事故で死んじゃって、ずっと母子家庭で、他に頼れる親族もいなかったから、お母さんが昼も夜もなく働いて、私をここまで育ててくれた。……だから、明日食べるものにも困るほどひっ迫してるってわけでもないの……。でも、一人娘を私立の大学に通わせられるほどの余裕は、うちにはないの」


 つらつらと先輩が吐き出すように語り始めたのは、外から見ているだけでは分からない、彼女の事情と胸の内だった。


「進学なんかせずに、高校を出てすぐに働けばよかったんだけど、私は大学に進みたかった。お母さんもそれを応援してくれた。だけど、学費の安い公立の大学には落ちちゃって、浪人するだけの余裕もなかったから、奨学金を使って今の大学に入学したの。……でも最近は、お母さんも体調が優れなくて、このままじゃ、来年の授業料も払えない」


「……だから、授業を休んでまでバイトして、学費を稼いでいる?」


「そういうこと」


 先輩の笑顔を見ているのが苦しくて、俺はまた目を背けた。なんて言えばいいのか分からない。


 私立の大学の学費は高い。医学部ほどではないけれど、それは一介の学生がアルバイトをして賄える金額じゃない。


 奨学金だって、あれはただの借金と何ら変わらない。卒業して社会に出た後で、高額な利息付きで返済を求められる。毎月の給料の何割かが学生時代に払えなかった学費のツケのために消えていく。それが数年、数十年と続くそうだ。


 浪人するのだって簡単じゃない。予備校に通うのだってお金がかかるし、それを避けて自力で勉強するにしても限界がある。入試を受けるのだってただじゃない。滑り止めの大学を受験しようとすれば、それだけの受験料がかかってしまう。


 先輩はいろいろなことを考えて、母親とも話し合い、悩んだ末、今の進路を選択したのだろう。


「……そこまでして、どうして大学に来たかったんですか?」


「……」彼女はそこで一度黙り込む。


「……笑わない?」


 そう訊いて来る顔が少し赤くなっているのは夕焼けのせいか、それともコンパの時よりかなり控え目にされた薄塗りの化粧のせいか。

 どちらにしても、変な質問だった。


「……笑われるような理由なんですか?」


「そ、そんなことないと思うけど、……でも、そこまでご立派な理由でもないから……」


 先輩はしばらく口籠ってから、観念したようにため息をついて、正直に話してくれた。


「……私ね、海外留学がしてみたいの」


「……留学、ですか?」


 オウム返しで首を傾げる。

 何が来るかと思ったら、そんなに変な理由でもないような……?


「あッ! 今、お金ないくせにって思ったでしょ?」


「え? いえ! そんなこと思ってないですよ!」


 あらぬ疑いをかけられて、俺は顔の前で手を振った。


「でも、だってそうでしょう? 来年分の学費だって厳しいのに、その上海外留学なんて贅沢過ぎる。それに私の場合は目的だって漠然としてるの。将来、語学の先生になりたいとか、通訳者や翻訳家になりたいとか、そんなはっきりとした夢があるわけじゃなくて、ただ単に海外留学がしてみたいからって、それだけなの……」


 ね? 可笑しいでしょう? と先輩は自虐的に笑う。


「別に、そんなに変なことじゃないと、俺は思います。……俺だって、明確な目標や夢があって大学に進学したわけじゃないですし、法学部ですけど、将来弁護士になりたいとか裁判官になりたいとか、そんなことは思ったこともありません。司法試験にすら興味ないですし、周りの奴らもそういうのが多いです。ただなんとなく、小中高で勉強が出来たから大学に進んだだけで、京都の大学に来たのもたまたまです。……だから、ちゃんとやりたいことがはっきりとしている先輩の方が、俺なんかよりよっぽど立派だと思います」


 言い切った後、俺は何だか照れ臭くなって、缶コーヒーを何口か一気に煽った。微糖なのにいつもより甘い気がした。


「優しいね、大智君は。そんなふうに言ってくれた人は初めて」


「……そ、そうですか?」


「優しいよ。……だって私がこの話をして弱音を吐いたら、大抵の人は『だって自分で決めたんでしょ?』とか、『そんなの自業自得でしょ?』とか言って、愚痴もまともに聞いてくれないんだから……」


「……これって、自業自得、なんですか? 少なくとも先輩の家が貧しいのは先輩のせいではないと思いますけど……?」


「私が公立の大学に合格できなかったのは、やっぱり私の努力が足りなかったせいだよ。それに今だって、大学の試験でいい評定が取れれば返済しなくてもいい給付型の奨学金が受け取れたかもしれないのに、私はその資格を得られなかった。それなのに、私は留学がしたいってわがままを言っている。……ほらね? 自業自得でしょう?」


「……お金が無かったら塾にだって通えません。参考書だって買えません。学費を払うためにバイトをして授業を休みがちになっていたら、試験でいい点だって取れません。……不公平ですよ、そんなの」


 何だか悔しくて、俺はまだ中身の残っているアルミ缶を握って少し凹ませた。

 先輩は呆けた顔で目を瞬かせて、俺の横顔をじっと見つめて来る。


 優しいね、なんて言われたのは初めてだったから、ドキドキしてしまう。彼女の顔を見返すことは出来そうもなかった。

 話題を変えよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る