緊急救難要請
「何、それ?」
「《平安会》で決められている、
《平安会》内部での取り決めに最も詳しい舞桜が、その言葉の意味を説明する。差し迫った
万が一の時の為に取り決められた文言。それが今、強力な妖が大量発生している京都で放たれた。
まず間違いなく、春の雨が降り続くこの京都の街で、何かが起こったのだ。
「ねぇ、ちょっと舞桜ちゃん! コレ、なんかのアプリッスか? ウィルスを仕込んだスマホ全部に次々と通知が来てるッス!」
萌枝のパソコンでは、次々と新しいウィンドウが立ち上がり、その全てで『緊急救難要請』の文字がアラートのように
「全てのスマホに通知が来ているということは、同じ一族や一門の人間だけでなく、本当に《平安会》に所属するすべての陰陽師に向けて発信したんだ。送り主は相当不味い状況に追い込まれていると考えられる」
赤いゴシック体の大きな文字だけだった画面のいくつかが、京都全域を映した地図に切り替わる。おそらく、救難信号に気付いた持ち主がスマホの画面を操作したのだろう。地図上で点滅する赤い印が、発信者の現在位置を明確に
「場所は
「よし、そんなに遠くない! 今から急げば間に合う!」
萌枝の早口な報告を聞いた舞桜は、素早く38口径のオートマチックを手に取り、装備を整え出発の準備を始める。
部屋を出て行こうとした彼女の前に、静夜は玄関前に先回りをして立ちはだかった。
「ダメだ、舞桜! 僕たちは出て行っちゃいけない!」
狭い廊下で行く手を遮られ、舞桜は
「
「いや、退けない。気持ちはわかるけど、この救難要請は無視するんだ」
「……それは、本気で言っているのか?」
「うん。本気だよ」
静夜と舞桜は再び、互いの目を見て睨み合う。
「……お前の言う《平安会》を出し抜けるチャンスというのは、今じゃないのか?」
「今じゃない。むしろその逆だよ。今僕たちが三条通へ駆けつけたら、萌依と萌枝が仕込んでくれたこのハッキングがバレてしまう。運良く《平安会》の人たちを出し抜いて、救難要請を出した人を助けられたとしても、後で絶対に質問される。……お前はどうやって、この救難要請の情報を知ったのかってね」
「ッ!」
静夜に言われて舞桜は初めてこれに気付いた。
救難信号を受信しているのは、《平安会》の陰陽師だけ。静夜や舞桜のスマホにはメールや電話の一つも入ってきていない。
本来であれば、静夜たちはこの信号を、誰かが危機的状況に陥っているという事実そのものを知らないはずなのだ。
《平安会》の陰陽師だけが駆けつけるべきはずのところへ、突然、舞桜や京都支部の陰陽師たちが現れたら間違いなく不審に思われる。
まさか、たまたま通り掛かっただけなどという嘘が通用するはずもない。
「ハッキングにせよ、盗聴にせよ、なんらかの手段での情報漏洩が疑われると、僕たちは今後の諜報活動がやり
陰陽師として、否、それ以前に人として、これは最低最悪で、義理にも人情にも欠ける非情な選択だと思う。
静夜はそれを承知の上で、京都支部の支部長として、組織の利益を考えた結果として、この判断が正しいと断じた。
それに、《平安会》を出し抜くために動くとすれば、少なくとも今ではない。
こんな突発的な情報に浮き足立って流されて、付け焼き刃の準備しかせずに飛び出していけば、失敗のリスクは大きくなる。
「
京都支部を預かる者として、静夜は命令のつもりで口にした。これが最も合理的で適切な判断であると信じて。
舞桜は、静夜が一歩も譲る気がないと悟って下唇を噛んだ。彼がここまで意地になるなんて珍しい。思わず
人一人しか通れない狭い玄関先での攻防。互いに自分の間合いを保ったまま、相手の出方を伺いながら、集中力を研ぎ澄ませ、向かい合っている。
しかし静夜は、この不毛な睨み合いの行き着く先を既に知っていた。
このようなことは、この四ヶ月余りの付き合いで何度もあったことだからだ。
いつもなら静夜が諦めて、
舞桜が引き下がるということは、今まで、ただの一度もありはしなかった。
「……嫌だ。私は行く。そこを退かないと言うのなら、無理矢理にでも押し通る!」
閉め切った室内で、どういうわけか風が巻き起こる。雨で湿って生暖かくなった空気が、少女の元へと吸い寄せられるように集まって彼女の長い黒髪を
どうやら今の舞桜は、こんな天気の室内であっても、例の妖の力を借りられるようだ。
本気になったら、静夜では止められない。
先手を取るほかに道はなかった。
「――
何処からともなく引き抜いた
無我となった舞桜は集中の糸を切らし、風は周囲に散って、部屋には
「――月宮流陰陽剣術、一の型〈
続けて静夜は、決して己を曲げない小さな少女を眠らせる。
優しい呪いを込めた刃のみねで額を小突くと、舞桜は霧散した念の力を取り戻す間もなく意識を奪われ、その場に崩れ落ちた。
静夜に抱き止められた少女は、穏やかな寝顔で静かな寝息を立て始める。
「……悪いけど、今回だけはこうさせてもらう」
聞こえていないと知りながら、謝罪の言葉だけはちゃんと口にした。
「あ~あ、やっちゃった」
「目を醒ました時が怖いッスよ、これは」
萌依と萌枝が嫌味のこもった笑みを向けて来る。
無理矢理言うことを聞かせたのだから、非難を受けるのは覚悟の上だ。
「それでも、今は舞桜を行かせないことの方が大事だったよ」
「……先輩のその選択が、悪い方に転ばないといいッスね」
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