びっくり箱の中身

 エントランスを抜けると、確かに微弱ではあるが、妖の気配を感じる。星明によって既に人除けがなされているマンションからは、逆に人の気配が一切しなかった。


 エレベーターで三階へ上がり、廊下を歩いて部屋の前へ。大智から預かったというカギを使って星明が玄関の扉を開けた、その瞬間――。


 ――部屋の中からいきなり黒い人影が襲いかかって来た。


 出会い頭の奇襲に、三人の陰陽師は瞬きのひとつも出来ないまま、影はまるでホラー映画のゾンビのように、星明に飛びつき、押し倒し、頬が裂けそうなくらいに口を大きく開けて、彼の首元にかぶりついた。


「ぐわッ! ぅああああッ!」


 肉を喰いちぎられる痛みに、さすがの星明も顔を歪めて悲鳴を上げる。

 本能的に足を使って相手を蹴り飛ばし、覆いかぶさって来た影を押し除ける。

 廊下の突き当たりの窓に背中をぶつけた黒い影の正体は、あまりにも長すぎる黒髪で全身を覆い尽くした人間の女性の姿の化け物だった。


 髪の隙間から静夜たちを覗く眼は、理性を失った獣のようで、口からは血と唾液を滴らせ、ひどく飢えて肉を欲している。

 狂気に満ちた異形の存在を認めて、静夜たちは思わずたじろいだ。


 聞いていた話と違いすぎる。


 先程まで静夜たちが感じ取っていた妖の気配は、こんなにも禍々しく、強烈ではなかった。

 京都の英雄と称される星明ですら、最低限のチェックだけで扉を開けるくらいには他愛もない相手のはずだった。


 それなのに、今静夜たちの目に写る、部屋から突然飛び出して来たこの妖は、鼻が曲がりそうになるほどの異臭を放ち、触れただけで皮膚が焼けるようにしびれる瘴気を発し、本来なら妖の姿が霞むはずの昼間の時間にもかかわらず、その姿ははっきりと象を結んで、圧倒的な存在感でもってそこに立っている。


 静夜は舞桜を庇うように前に出て、負傷した星明を挟んで、女の妖と対峙した。


 即座の反撃を躊躇する。今ここで銃声を鳴らして戦端せんたんを開けば、自分たちは抵抗虚しくこの妖に喰い殺されてしまうだろう。

 結界を張って防御するのもダメだ。距離が近すぎる。印を結んで唱えても、結界が展開し終わる前に間合いを詰められて肉を喰い千切られるだろう。


 可能なら、この廊下での戦闘は回避したい。今すぐ星明を連れて撤退し、彼の手当てと救援の要請をするのが賢明だ。


 冷や汗が、滴り落ちた。


 舞桜も静夜の背中からその張り詰めた緊張感を汲み取ったのか、左手に握った拳銃を構えることはしないでくれた。


 永遠にも思える長い沈黙。睨み合い。


 生暖かい春の東風がマンションの廊下を不気味に吹き抜ける。

 最大限の警戒をする陰陽師と、今にも襲い掛からんとする異形の妖。

 静夜は乾き切った口の中を潤したくて、生唾なまつばを無理に作って飲み込んだ。


「……――ッ!」


 不意に妖が、上体をゆらりと揺らして項垂うなだれる。

 顔を上げ、再び静夜たちをその長い黒髪の間から覗き込むと、そこから放たれる鋭い殺気が爆発的に膨張した。


 敗北と瞬殺を直感し、すぐさま身構える。

 しかし、不自然な突風が吹き荒れた直後、部屋の中から強襲を仕掛けて来た妖は静夜たちの前から忽然こつぜんと姿を消してしまった。


「……え?」


 飛びかかってこなかったことが意外で、舞桜は間の抜けた声を漏らす。


「……ふうぅう」

 

 一方で静夜は、心の底から安堵のため息を吐き出していた。


 おそらく、わずかな隙も晒さなかったことが功を奏したのだろう。妖は正面から静夜たちと戦うことを好まず、見逃してくれたようだ。


「星明さん! 大丈夫ですか?」


 静夜は呪符を複数枚取り出し、「――〈治癒快々符ちゆかいかいふ〉、急々如律令」と唱え、それを首元の傷に押し当てた。


「ぐッ! ううう……」


 星明は苦悶くもんの表情で激痛を堪える。傷口から溢れ出る鮮血は、止まる気配を見せなかった。

 静夜の呪符程度では、応急処置にもならないというのか。あの妖がどれほどの力を持っていたのかが窺い知れる。


「舞桜! すぐにご実家に連絡して! 星明さんの救護と緊急配備をお願いするんだ! この地域周辺に厳戒態勢を敷いて、誰かが被害に遭う前にあの妖を処理しないと……!」


 昼間の京都の街中に、あんな化け物が解き放たれたとなれば、何が起こっても不思議はない。取り返しのつかないことになる前に、手を打たなければならなかった。


「――……君が行け、静夜君!」


 星明が、絞り出すように声を張り上げる。


「助けくらい、自分で呼ぶさ……。はぁ、はぁ、……緊急配備の手配だってその子がやるより僕が直接話を通したほうが、……速い」


「で、でも……!」


 息も絶え絶えになって喋るのも苦しそうな重傷者を放置したままには出来ない。

 それにあの妖は、静夜一人でどうにかなるレベルを遥かに超えている。追いかけて挑んだところで、返り討ちにされるのが関の山だ。


「だったら、私が行く」


 躊躇する静夜に代わって名乗りをあげたのは、あの化物と同じ長い黒髪を、あの化け物とは違って美しくなびかせる少女、舞桜だった。


「む、無茶だ! そんなの! 絶対にダメだ!」


 思わず怒鳴ってしまう。

 いくらなんでも、その申し出は無謀すぎる。自殺行為もいいところだ。


 しかし、静夜の目を見て訴える少女の瞳は頑なで、大真面目だった。


「……」


 無言のまま、舞桜はその態度を崩さない。


「……それでもダメだ。今の君がアレに勝てるわけがない」


「今の私なら、勝てるかもしれない」


「……何だって?」


 顔を顰める静夜。舞桜が冗談を言っているようには聞こえなかった。

 時刻は昼過ぎ。舞桜の代名詞である禁術〈憑霊術ひょうれいじゅつ〉は、月明かりが差し込まなければ使えない。


 太陽が燦然さんぜんと輝く青空の下では、舞桜は非力で無力な少女に過ぎないはずだ。


 それなのに、自信があるというのか?


 目だけで問いかける静夜に対し、舞桜も目だけで答えを返した。


「……星明さん、申し訳ありませんが、《平安会》への連絡と説明はお任せします。僕たちは二人でアレを追います」


「……ああ、……頼むよ」


 静夜が血をいっぱいに吸った呪符から手を離す。

 星明を置き去りにして、静夜は既に駆け出している少女の小さな背中を追いかけた。

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