封印した過去

 ロイヤルスイートの部屋があるホテルの最上階は、下界の喧騒などまるで届かない別世界のようで、静かで安穏としていて、もの寂しかった。


 康介も吉田も今は事態の収拾に追われており、代わりに荷物持ちと案内をしてくれたのは、若いホテルマンの男性だった。


 妖花は、部屋の入り口でお粥と薬の載ったお盆を受け取り、扉を開けてくれたホテルマンの横を「すみません」と腰を低くしながら通り抜ける。ホテルマンからカードキーを返されると、分厚いドアは音もなく静かに閉ざされた。微かに、オートロックの鍵のかかる機械音だけが妙に大きく聞こえる。

 リビングダイニングを抜け、奥の寝室へ進むと、ベッドに横たわる病人の舞桜と目があった。


「目が覚めましたか?」


「……ああ、お陰で大分楽になった」


「それは良かったです。が、まだ無茶はしないで下さいね?」


「……」


 不服そうな表情をしつつも、文句は返ってこなかった。

 その膨れっ面が何だか可笑しくて、妖花はクスっと笑ってしまうのを堪えながらお盆をベッドサイドテーブルに置き、自身は脇にある一人がけのソファに腰を下ろす。


「食欲はありますか? 吉田さんがお粥とお薬を用意して下さったんですけど、食べられそうですか?」


 蓋を開けると白い湯気が立ち昇って、真ん中に梅干しを置いた綺麗なお粥がささやかな香りで己の存在を主張した。

 木のスプーンでかき混ぜて冷まし、一口掬って差し出すと、舞桜はさらに不機嫌そうな顔になって上体を起こした。


「自分で食べる」


 舞桜は妖花からお盆ごとお粥とスプーンを奪って、食事を始める。

 自分が辛い時ほど、余計に意地を張って周りを頼ろうとしないところが、どこかの誰かに似ていて、零れ出る笑いが堪え切れなくなった。


「……何がおかしい?」


「ああ、いえ、すみません。……ただ、小さい頃の私でしたら、素直に甘えて義兄あに義父ちちに食べさせてもらっていたな、と思って……」


「……半妖でも、風邪を引くのか?」


「引きますよ? 半分は人間ですから」


 風邪も引くし、怪我だってする。


 確かに、身体は普通の人間よりは丈夫で、力も強いかもしれないけれど、高熱が出れば寝込むし、転べば赤い血が出て傷口は痛む。

 半人半妖だって、ちゃんと人間なのだ。


「でも、半分は人間じゃない」


 鋭く突き刺すように、舞桜は指摘した。


「どれだけ取り繕って、理屈を並べて、目を逸らしたところで、その事実は変わらない。……同時に、たとえ今は違うとしても、お前が『雪ノ森妖花』であったという事実に変わりはない。いくら逃げても、『己』からは逃げられない」


 あかく澄んだ眼光が妖花を射抜く。


「……もう一度、今度はちゃんと聞きたい。お前は本当にこれでいいのか?」


 少女のその真っ直ぐな様に、翠色みどりいろの瞳は揺らいで下を向いた。


 吹雪の鳴き声が不気味に唸る。カーテンを閉めていても、外気の寒さと吹き付ける風の冷たさは、現実の過酷さを思い知らせる。そんな音だ。


 きっとこの朱色の瞳をした少女なら、そんな吹雪の中でも向かい風に抗って、真っ直ぐに進んでいくのだろう。たとえ途中で挫けて、転んで、立ち止まっても、決して引き下がることはしないのだろう。少なくとも、今の舞桜はそのつもりでいる。吹雪の中を進むつもりでいる。その覚悟と心構えで、妖花に問いを投げてくる。


 今、月宮妖花は、吹雪の厳しさから守られた堅牢なホテルの最上階で、空調で暖められた快適な部屋の柔らかいソファに腰を落ち着けていた。


「……ずっと、考えないようにしてきました。実の両親のことも、《スノーフォックス》や『悠久の宝玉』についても、……私が雪ノ森妖花だったことも……」


 ゆっくりと語り始める妖花にとって、それは唯一で、全てだった。


「こんなことを舞桜さんに言うのは、無神経なのかもしれませんが、今の私は、幸せなんです。今あるすべてに満足しているんです。……実の父が死んだあと、私は雪ノ森家のお屋敷に身を寄せることになりました。すごく大きなお家で、舞桜さんのご実家のように家政婦の方もたくさんいらっしゃって、自分がすごいお金持ちの家の子になったみたいでした。ですが、あまりいい思い出はありません。雪ノ森の家の方々は、一族の方針に逆らって駆け落ちした父のことを好ましく思っていなかったようですし、それに、私のこの髪や瞳の色も不評を買ったんだと思います。私はいつも邪険にされて、すぐに施設に預けられることになりました。……施設の中でも私は浮いていました。親戚たちが何を吹き込んだのかは知りませんが、施設の大人の人たちは私のことを腫物のように扱いましたし、この髪と瞳の色も災いして、同じ施設の子どもたちとも馴染めませんでした。私自身も、当時はすっかり塞ぎ込んでしまっていて、ずっと、おもちゃの散らばった部屋の隅で膝を抱えてじっとしていたのをよく覚えています。本当にあの時は、居場所がありませんでした」


 辛い過去がある。しかし、それを語る妖花の口ぶりは少しも暗くなくて、その後に起きた奇跡を引き立てるように、声音はむしろ弾んでいた。

 そう。彼女には、救いの手が差し伸べられたのだ。


「……そんな私に帰る場所を、名乗ってもいい名前をくれたのが、義父とうさんと義兄にいさんです」


 暗くて深い闇の中で蹲っていた幼い少女を見つけ出し、連れ出してくれたのは、今は亡き義理の父、月宮兎角と、血の繋がらない義理の兄、月宮静夜だった。


「あの日から今日までのことを、私は鮮明に覚えています。施設から引き取られて初めて家に行った時のこと。入学した小学校の名札には『つきみやようか』という名前が書いてありました。義兄と一緒に、義父からいろいろな陰陽術と月宮流陰陽剣術を教わりました。家事は義兄と二人で分担して毎日欠かさずやっていました。義兄がほとんど一人でやってしまうので、私は夕食の準備と後片付けくらいしか出来ていませんでしたけど、二人に美味しいって言ってもらいたくて、献立や味付けの事を毎日ずっと考えていました。……義父が亡くなった後は、昔ほど平和で穏やかに暮らしているというわけではありませんが、いつまでも義兄にばかり頼っているわけにはいきませんし、この社会で生きていく以上、働かないわけにもいきません……。それでも、今の私は、……月宮妖花は十分に満ち足りていて、幸せなんです。これ以上のことを求めるつもりはありません」


 嘘偽りのない、それが彼女の本心だ。


「多くの事を求めすぎるのは、贅沢というものです。楽しいことばかりではありませんし、陰陽師として生きていくことは危険も伴いますが、私にはかけがえのない家族がいます。信頼のおける仲間もいます。幸いなことにお金にも不自由はありません。仕事もあります。そこそこの地位や肩書だって貰えました。……私はもう、十分です」


 舞桜の目を真っ直ぐに見返して、妖花は断言する。

 決して、妥協や諦めなどではない。全てを取り上げられてしまったが故に、最初から何も持っていなかったが故に、今、自分の手の内にあるものを一つずつ数えて、大切に抱き締めた妖花は、嫌なことも辛いことも全てを許して、現実を受け入れている。


「だから、今更昔の事を掘り返して、もしもこうなっていたら、とか、本当だったら今頃こうなっていたはずだ、とか、そんな、今とは違う別の現在を妄想して、それを探しに行ったり、手に入れようとしたり、納得出来ないと言って戦ったりする必要は、私にはないんです」


 雪ノ森妖花は、もういない。今ここにいる彼女は、月宮妖花だ。

 養子でも、血のつながりがなくても、月宮兎角の娘で、月宮静夜の妹の、月宮妖花だ。


《スノーフォックス》の創設者、雪ノ森冬樹と、九尾の妖狐、『果て無き夢幻むげんを誘う悠久の彼方』の娘、雪ノ森妖花は、胸の奥の目につかないところにしまい込んだまま、取りに戻るつもりはない。

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