幕間 狐の恩返し③

授かった命

 しかし、雪ノ森の一族は二人の結婚を認めませんでした。


 ある日のことです。雪ノ森冬樹は突然、実家の屋敷に呼び出され、一人の女性と引き合わされました。

 訳も分からないまま彼女と話をするうちに、冬樹は事情を悟りました。

 一族は、彼をこの女性と結婚させるつもりだったのです。


 聞けば彼女は、有名なリゾートホテルチェーンを経営する一族の末娘だそうです。二人が結婚すれば、経営不振が続く雪ノ森一族の会社、《スノーフォレスト》は、彼女の一族が経営する会社から支援を受けることが出来、その後業績が回復すれば、さらに大きな事業展開が望めるというのです。


 当時、日本経済は混迷を極めていました。


 雪ノ森の大人たちは、会社と一族の存亡をかけて、本家の長男である冬樹に政治的な結婚を強要したのです。


 これに、雪ノ森冬樹は反発しました。

 自分には将来を誓い合った人がいる、と。


 冬樹は後日、自分の両親や兄弟、一族の親戚の元へ、件の女性を連れて行きました。

 彼方かなた、という名前のその女性は、銀色の髪に碧色みどりいろの瞳をした、妖しい女性でした。


 冬樹の親族も、最初は彼方の美しさに見惚れましたが、冬樹がどれだけ訴えても二人の結婚を一族が認めることはありませんでした。


 彼方という女性には親戚が一人もいません。天涯孤独で後ろ盾が何もないと言います。

 そんな彼女を嫁にしても、一族が得られる利益は何もありません。

 無益な結婚だ、と雪ノ森の一族は言い捨てたのです。


 冬樹はその言葉に激昂しました。


 一族が勝手に決めた結婚相手にお断りの返事を出すと、実家には何も伝えず、冬樹は逃げ出すように、彼方を連れて田舎の町工場へ飛んで帰りました。

 いわゆる、駆け落ちというやつです。


 そして、しばらくの後、その女性は雪ノ森彼方、と名前を改めました。


 二人は契りを交わし、共に歩いて行くことを誓い、《スノーフォックス》という自分たちの会社を新たに立ち上げました。


 町工場の老夫婦や従業員、近所に住む人たちは、《スノーフォレスト》に本格的に歯向かってしまった冬樹のことを案じながらも、二人の新たな門出を祝福し、応援と協力を惜しみませんでした。


 そうして、狐の不思議な力を借りて作られる、人を心から温めるニットは、田舎の小さく寂れた町工場から始まりました。


《スノーフォックス》は、少しずつではありましたが、その品質が認められるようになり、知名度を広げ、売り上げを伸ばし、大きな反響を呼びました。


 本当に心まで温まる、最高のニットだ、と。


《スノーフォックス》の事業は軌道に乗り、順風満帆でした。


 また同時に、人と妖の夫婦生活も、その裏で実は順調に、慎ましく営まれていました。


 幸せな出来事は重なります。

 雪ノ森彼方が、身籠みごもったのです。

 その報告をいきなり聞かされた冬樹は驚き、喜び、涙しました。

 それは周囲の人たちも同じでした。


 結婚から既に数年が経っていました。待ちに待った懐妊かいにんの知らせに、小さな町工場は沸き立ち、二人は祝福されました。


 しかし、その中で雪ノ森彼方こと、『果て無き夢幻むげんを誘う悠久の彼方』だけは、浮かない顔をしていました。


『冬樹よ、……お前に、大事な話がある』


 妊娠が分かってしばらく経った、ある日の夜のことです。

 町工場から老夫婦の家に戻る道すがら、田んぼと畑だけが延々と広がる殺風景な田舎の道路の真ん中で、彼女は珍しく、人でなく妖として、夫を呼び止めました。


 普段は「冬樹さん」と控えめな口調で話す妻の豹変に、冬樹は身構えます。

 真夏の湿気を含んだ生暖かい夜風が銀色の髪を靡かせました。


『……余は、この子を産めば、死ぬ』


「え?」


 突然の告白に、冬樹は呆けた顔をしました。

 ですが、考えてみれば、それは奇跡の対価として当然の帰結でした。


『……人でない余が、人の子を産むのじゃから。……この子が元気な産声を上げるには、余の命と引き換えにしなければ釣り合わぬ』


 九尾の妖狐は分かっていました。人間の子を産み落とすことがどれだけ大変で、難しいことかを。成し遂げるには、文字通り自分が命を懸けなければならないことを。


「そんな……」


 冬樹は言葉を失いました。

 ただの人間の、それも男である彼は、分かっていなかったのです。子を産むことにどれだけの覚悟が必要であるかを。子を授かるということが、どれほどの奇跡であるかを。


「……じゃあ、……だったら――」


『――愚か者め。その先を口にしたら、たとえお前であっても容赦はせぬぞ?』


 動揺し、取り乱した冬樹が不用意なことを言おうとしたので、彼方は咄嗟に尻尾を一本出して、夫の口を塞ぎました。


 だったら、産まなければいい。そうすれば、この先も二人で一緒に生きていける。


 しかし、雪ノ森彼方は、『果て無き夢幻を誘う悠久の彼方』は、既に最早そんなこと、考えてもいなかったのです。


 何もない道路の真ん中にポツンと立ち尽くす、無機質で白い外灯に照らされた妻の白い頬が赤く染まりました。


『……産ませてくれ。余が、……二千年を生きた余が初めて愛した、お前との子じゃ。余は、この子の為なら、死んでも構わぬ』


 恥ずかしそうに碧色みどりいろの瞳を逸らして、そんなことを言われたら、冬樹は何も言えません。


 雪ノ森彼方は白銀の尻尾を引っ込めました。


「……でも、君がいなくなったら、《スノーフォックス》は……」


 悲しげな顔で、冬樹はそれでも訴えます。


「二人で、夢を叶えるって……」


 それは、二人が交わした誓いでした。

 人の心まで温めてくれる最高のニットを作る。冬樹にとって、この夢はまだ道半ばなのです。

 女々しく俯く情けない夫に、妻はまるで子供をあやすような優しい口調で言いました。


『それは、本当にすまないと思う。じゃから、お前にはこの子と、――余の力の一部を残して逝く』



 静けさの中で舞い落ちる雪が降り積もる、二月十日。


 涙を流す雪ノ森冬樹の腕の中には、産声を上げる元気な女の子と、九尾の妖狐が姿を変えた、白銀に輝く水晶玉が残されました。

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