桜火
「……これ以上は時間の無駄です。素直に負けを認めて、大人しく降参して下さい」
「……なん、だと……?」
妖花は痛ましそうな表情で目を細め、同情を込めながらも、宣告はどうしようもなく無慈悲だった。
「……諦めろと、言いたいのか?」
「はい」
「……何を、諦めろ、と?」
「全てを、です」
容赦のない答えだ。舞桜が手に出来たものは少なく、残されているものもわずかしかないというのに、そのなけなしの全てを投げ出して諦めろと、妖花はそう言ったのだ。
舞桜は大きなため息をつき、項垂れて膝をつく。
「……無理な話だ」
乾いた笑いと共に舞桜は妖花の要求を吐き捨てた。
今の舞桜には何もない。妖花を倒すだけの力はもちろん、誇れるだけの功績も、意見を述べる権利すら、何一つ持ち合わせていないのだ。
ないものを捨てろと言われても、いったい何を捨てればいいのか。
最後に残っているものがあるとするならば、それは少女の、愚かな虚勢くらいのもの。
自分を保つために、自分の心を守るために、舞桜が築き上げた傷だらけの結界。下らない意地、空虚な見栄。
それを壊してしまったら、後には何も残らない。砕けたプライドの残骸が、舞い散り泥水に汚れた花びらの如く、無様を晒すだけ。
たとえ誰かに負けるとしても、自分から折れることだけはあり得ない。
舞桜は拳を握りしめた。
「……――我に集いし霊魂たちよ、我が希求に応じて顕現せよ。形なき思念に器を与え、今一度咲き誇る桜花と成れ。再び舞い散る花びらと化せ。汝らの威光をここに示せ」
始まった詠唱が次第に熱を帯びる。妖花は手を出すことなく舞桜を見つめ、完成を待った。
もうダメだと、舞桜の勝利を諦めていた《平安会》の陰陽師たちの眼に、ふと何かが映り込む。それは空中を漂い、行き場もなく彷徨う想いのかけら。やがてそれらは引き寄せられるようにして、うずくまる少女の元へ召し上げられていく。
そうして、いくつもの名も無き魂が集まり、舞桜の拳で火を灯す。
――我らが姫君の仰せのままに。
静夜の耳に声が響いた。平安神宮で、舞桜の憑霊術が暴走した時に聞いた時と同じ声。
横に座る栞を一瞥するが、彼女は舞桜の方をじっと注視しており、何か聞き慣れない声を聞いた様子はなかった。
栞にすら聞こえない声が、どうやら静夜には聞こえるらしい。
それはきっと何かの縁。静夜は満開の桜の木の下に佇む、大鎌を持った少女の姿を思い出しながら、そう思った。
舞桜は握り締めた右の拳を祈るように左手で包み、大事そうに胸に抱えて立ち上がる。開眼した朱色の瞳は妖花を射抜き、揺るぎない視線の先には、勝利の二文字が見えていた。
静夜は言った。妖花がただの人間に負けるなんてことは想像できない、と。
しかし果たして、竜道院舞桜は、本当にただの人間だろうか。
否。人は人でも、彼女は、舞桜は、妖に愛された呪いの子。
禁忌の術に手を染めてもなお、決して瞳を曇らせない、純潔の少女。
何も持たざるが故に、己のすべてを絞り出して、現実に立ち向かわんとする愚かな少女。
決意と覚悟の裏側に、不安と焦燥を抱えながらも、脆く儚い見栄と意地だけでそれらを隠し、戦う少女。
竜道院舞桜は、年の瀬の風が凍てつく大晦日の夜に、狂い咲く。
握りしめた拳を広げて、その
「――燃えろ、〈
直後、銀色の少女を桜色の炎が包み込む。
突然の着火、離れた場所にも伝わる熱さに、見ていた陰陽師たちは目を見張った。
妖花はすかさず飛び退き、一瞬で炎の中から脱出するが、舞桜はそれを追って再び念を飛ばす
「――〈桜火〉」
炎は先程よりも大きく、熱く、妖花の白い肌を焼き焦がさんとする。堪らず妖花は覇妖剣を呪って炎熱を振り払おうとした。
「――月宮流陰陽剣術、八の型・〈破月〉!」
術を破壊する八の型。その斬撃を受けても、桜色の炎は消えることなく燃え続ける。
あまりの手応えの無さに、妖花の表情からは血の気が引く。《平安会》の陰陽師たちの間でもざわめきが起こり始めた。
妖花は再び素早い離脱を試みる。だがその瞬間に風が吹き、桜色の炎が逃げる彼女を追う。まるで生き物のように意思を持って動いているかのようなその炎に、妖花は得体の知れない恐怖を覚えた。
「――臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
九字を切ると風が止み、炎は妖花を追う力を失う。それでもなお、桜色の火の粉は消えることなく空中に残滓となって漂い、桜の花びらの如く舞い散って地に落ちるとようやく、まるで溶けるように熱と光を手放した。
「……何ですか、これ?」
妖花でさえ戸惑う謎の炎。
火を操ると言えば、真っ先に思い浮かぶのは、五行の『火』を用いた術であるが、八の型・〈破月〉で破れないとなると、少なくともこれは陰陽術ではない。
「……まさか、〈妖力〉本来の使い方?」
信じられない仮説が浮かび、思わず唸った。
〈妖力〉とは、妖が生まれながらに持っている固有の力や能力の事である。それは〈存在の定義〉を具現化したものとも言われ、力の発現によって起こる現象は、妖の名前や在り方を分かりやすく示していると考えられている。
例えば、『狂犬を統べる鬼面の将』が自らの手足を動かすように妖犬を自在に操ったように、妖力には人が生み出す法力にはない、特殊な効果があるのだ。
舞桜は、憑霊術によって纏った妖の力を、主に自身の身体能力や〈法力の最大値〉の向上に用いている。だが、それは妖が本来持っている〈存在の定義〉とは異なる力の運用法だ。その〈妖力〉にはもっと相応しく、適した使い方がある。
「……ですが、念の練り方次第で性質を柔軟に変えられる〈法力〉と違い、〈妖力〉は最初から用途が限定され、特化している分、癖が強くて、人間が簡単に扱えるものではないはずです」
妖花は身体に纏わり付く炎の残り火を払いながら舞桜を睨んだ。
〈妖力〉の扱いの難しさを、妖花は自身の経験からよく知っている。
それなのに、舞桜はいとも簡単に、掌に揺らめく桜火を灯した。
「お前がどれだけの苦労をしたかは知らないが、一応弁明しておくと、これは私の憑霊術の一部に過ぎない。私が妖に身を堕としたわけではないし、半妖とも違う。私が彼らから預かり、使うことを許された力の欠片が、この〈桜火〉だ」
掌に乗る桜色の炎が風を集めて徐々に大きくなっていく。舞桜がそこに息を吹きかけると、炎は空気を伝い、立ち尽くす妖花を囲い込んで、襲い掛かる。
妖花は諦めず、覇妖剣を構えた。
「――月宮流陰陽剣術、二の型・〈
呪詛の型を変えて〈桜火〉に挑む。二の型・〈気更着〉は、術に込められた念を術者へ跳ね返す呪い。法力も妖力も、元を正せばただの〈念〉。炎を斬り裂けば、それは舞桜の元へと帰るはず。
覇妖剣を振り下ろす。炎は二つに分かれ、呪いの効果が発動する。
そこで妖花は、再びその目を見開いた。
桜火は、それでも舞桜のところへ帰ることなく、そのまま妖花を呑み込んで、炎上したのだ。
妖花は切迫した表情で呪詛を切り替える。
「――十の型・〈
最後の望みをかけた一太刀。以前、憑霊術の暴走を止めた十の型の呪いは、怒りを鎮める効果を持つが、さらに言うと、力や念に対する鎮静効果がある。
燃焼材があるわけでもないのに、桜色の劫火は燃え広がっていく。
妖花が地面に刃を突き立てると、炎の勢いは若干弱まるものの、鎮火には至らない。揺らめく炎はしぶとく地面を焦がし、熱は消えることなく陽炎を起こした。
「……さすがに、これほどとは思ってなかった」
傍から見ていた静夜も息を呑む。
ある程度、予想はしていた。舞桜が憑霊術の力を妖力として使った場合、この決闘の展開が変わることを。それでも、ここまで妖花を驚かせ、追い詰めるとは思っていなかった。
〈破月〉で破れず、〈気更着〉でも返せず、〈神凪月〉でも鎮まらない。
〈桜花刈〉といい、この〈桜火〉といい、舞桜が纏う件の妖と憑霊術の潜在能力には、底が見えない。
炎は北風に吹かれ徐々に小さくなるが、その中心に立ち尽くす妖花は、服の袖を黒く焦がしていた。自身は法力と妖力の層で身を守っているのか、その白い肌や銀色の髪に傷はないが、辛酸を嘗めた妖花は口元を固く紡ぎ、妖を纏う桜色の少女を睨んでいた。
「な、なぁなぁ、静夜君、……これってもしかして、舞桜ちゃんが勝っちゃったりせぇへんかな?」
栞が声を潜めて静夜に耳打ちする。
耳を傾ければ、舞桜の勝利を信じてなかった《平安会》の大人たちさえも騒めいている。先程までは呆れて肩をすくめていたのに、現金な人たちだ。
静夜は半眼になって、両手に炎を抱く舞桜を見る。
「確かに、今優勢なのは舞桜の方。この調子でいけば、勝てたかもしれない」
「勝てた、かも?」
不穏な言い方に栞は首を傾げた。それはまるで、彼女の勝利を一切信じていないような、達観して告げられる虚ろな予言。
「……妖花の得物が〈覇妖剣〉じゃなかったら、舞桜の勝ちだった」
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