第1話 クリスマスの来訪者

日常と化した朝

 翌、12月25日、クリスマス。


 月宮静夜の一日は、ソファで目を醒まして始まる。

 時刻は早朝六時。閉ざされたカーテンの向こうはまだ暗く、すぐ横のベッドでは、分厚い布団と毛布に身を埋める少女が、穏やかな寝息を立てていた。


 いつもと変わらない、いつも通りの朝。


 竜道院舞桜が静夜の下宿に居候を始めて20日余り。ベッドは完全に彼女の寝床となっていた。家主であるはずの静夜は、ソファの背もたれを倒して広げ、簡易ベッドに変形させてそこで寝袋に包まり夜の寒さを凌いでいる。納得しているわけではないが、真冬の凍てつく廊下に捨てられるよりは随分とマシだ。


 独り暮らしの大学生の一日は、家事に始まり、家事に終わる。


 体を起こした静夜はまず、炊飯器の中に昨晩研いだお米と水が入っていることを確認してスイッチを入れる。

 炊きあがりを待つ間は洗濯。色物とそうでないものを分け、洗濯機を回す。幸い季節が冬ということもあり洗濯物は少なく、タオルと肌着類だけなら洗濯機を使うのは一回で済む。


 しかし、現在ベッドで眠りこけている少女の下着だけは、要注意である。


 舞桜は、破門されたとはいえ、元は竜道院家のお嬢様だ。買い与えられたという下着は高価なものばかりで、それらは洗濯機で洗うことが出来ないと洗濯表示に記されていた。


 静夜はデリケートな素材で作られた下着を、心を無にして手洗いしていく。


 居候を始めた最初の頃は舞桜も恥じらって、下着だけは静夜から隠れて自分で洗っていたのだが、1Kの狭いマンションでは互いのプライバシーなど皆無に等しい。二人で部屋にいればもう一人が何をしているのかは全て筒抜けになってしまう。

 静夜の留守中を狙うといっても、それが出来たのは最初の一週間だけで、妖犬の事件が決着して以降は《平安会》の厳戒態勢もなくなり、加えて舞桜は学期末のテストを受けるため、それ以降は籍を置く中学校の授業に出席していた。

 洗濯をするのが徐々に面倒になっていった舞桜は、居候を始めて十日が過ぎると、静夜が部屋に居ても堂々と下着を洗うようになり、さらに三日が過ぎるとすべてを諦め、「もうお前がやれ」と完全に家事を丸投げしてしまった。


 洗濯が終わると次はトイレ掃除と風呂掃除。排水溝まで丁寧にやっていると、洗濯機の洗濯が終わるので、それらを外に干し、外に干せないもの(舞桜の下着)は風呂場に干す。空気清浄機を衣類乾燥モードにして風呂場に置けば完了である。


 本当なら、平日の朝に、ここまで丁寧に家事を行う必要はどこにもない。

 住人が一人増えたと言っても、日中は静夜も舞桜も外出するため掃除をするほどの汚れはほとんどなく、洗濯物も数日分貯めてからまとめて洗っても何の問題もない。


 しかし、習慣とは恐ろしいもので、静夜は幼い頃から身に沁みついた、朝に家事を済ませるという日課を、今でも忠実に続けている。


 年老いた義父と二つ年下の義妹しかいなかった月宮家において、朝の家事はすべて長男である静夜の仕事だったのだ。


 そのため、朝食を作る彼の手際にも迷いはない。

 独り暮らしを始めてからは、朝食を疎かにすることも多かったが、舞桜と一緒に生活するようになってからは、毎朝きちんとした食事を用意するようにしている。そうしないと、その華奢な身体に巨大な胃袋を内包した少女に怒られてしまうから。

 今朝のメニューは卵焼きと塩サケ、ほうれん草のおひたしに白米とインスタントみそ汁。一汁三菜のまさしく日本の朝ごはんだ。


 部屋に料理のいい匂いが漂い始めると、それに釣られて少女がようやく目を醒ます。

 時刻は七時。白い朝日が窓から差し込み始める頃。


「おはよう、舞桜」


 眠気眼を擦る少女に静夜はキッチンから声を掛けた。

 長い黒髪を寝癖でぼさぼさにした舞桜は、匂いのする方へ歩いて来ると、静夜の手元を覗き込む。


「…………」


 そして何も言わず、少女は顔を洗ってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。米の炊き上がる香りと塩サケの匂いで満たされていた狭い室内に、コーヒーの香ばしさが加わっていく。

 和食の朝ごはんにコーヒーは合わないと思うのだが、舞桜は毎朝欠かさず自分でコーヒーを淹れている。

 だが、今日はいつもよりコーヒーの香りが高い気がした。


 舞桜は出来上がった黒い液体をカップに注ぎ、ブラックのまま一口飲むと顔を顰める。


「……苦く作り過ぎた」


 すると冷蔵庫を開けて一言。


「おい、静夜、牛乳がもうないぞ?」


「え? 嘘」


 卵焼きの形を整えていた静夜はそれをお皿に移してから冷蔵庫の中を見る。確かにパックに入っている牛乳は残り少なくなっていた。買い置きもない。


「あ、醤油も切れてる」


 さらに静夜は、ほうれん草のおひたしに使う大事な調味料がないことにも気付く。


「舞桜、ちょっとすぐそこのコンビニで」


「無理だ。今は寝癖を直すのに忙しい」


「そっちは今日から冬休みだろう? 別にいいじゃん、それくらい」


「嫌だ」


 舞桜は風呂場の鏡越しに静夜を睨んだ。

 見開いた朱色の瞳には、絶対に外には出たくないという強い意志が宿っている。


 舞桜は寝起きがいい方ではない。とある半妖の妹ほどではないにしろ、特に寒い日は朝から機嫌が悪い。寝癖の跳ね具合からもよく分かる。


 こうなっては、静夜の方が折れるしかなかった。

 財布と上着を取って、スニーカーに足を突っ込む。


「じゃあ僕が買って来るから、摘み食いしないようにね」


「牛乳も忘れるなよ」


「分かってるって」


 いつも通りの朝に、ちょっとしたイレギュラーが起こったと思いつつ、静夜は玄関のカギを開け、ノブを回してドアを開けた。


 朝日に照らされた廊下から冷たい空気が入って来て、露出した頬の肌を刺す。吐き出す息は白く染まり、踏み出そうとした足は、ふいに止まった。


 扉を開けたすぐ目の前に、人が立っていたからだ。


 それも、思いも寄らない人物が。


「それ、私が買ってきましょうか?」


「……え?」と固まる静夜に、笑いかけるのは一人の少女。


 彼女を認めた静夜は、ちょっとしたイレギュラーどころの騒ぎではないと考えを改めた。


 銀色の長い髪。雪よりも白い肌。真っ直ぐに伸びた背筋と、姿勢の良い佇まいに、肩には竹刀袋を提げている。首には暖かそうな純白のマフラーを巻き付け、整った目鼻立ちと、吸い込まれそうになるほどの大きな翠色の瞳が印象的なその少女は、「うふふ」と上品に笑い、まるで、夜の間に人知れず降り積もった綿雪の悪戯を思わせた。


「……よ、妖花ようか?」


 静夜は自分の目を疑いながら、彼女の名前を口にする。


 その少女は紛れもなく《陰陽師協会》が誇る最強戦力。数少ないSランク陰陽師にして、特別派遣作戦室、通称、特派の室長。月宮静夜の上司であり、義理の妹。月宮兎角とかくの後継者。〈覇妖剣はようけん〉を受け継いだ、白銀の半妖。


「メリークリスマスです、兄さん」


 月宮妖花は、朝の陽光にも負けない澄み切った笑顔で、兄の胸に飛び込んできた。

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