元凶

 圧倒的だった。まさに目を奪われるほどに。

 真冬の月夜に狂い咲く、あれこそが舞桜の真の姿。


「……う、嘘よ。あり得ないわ。信じられない」


 青ざめた顔で現実逃避を呟き始めた美春には、かけらほどの戦意も残っていない。


「母上。……私はあなたを殺したいわけじゃない。だから、残ったその二匹と一緒に、今夜はもう、帰って下さい」


 最後は優しく警告する。少し安堵する表情を見せた舞桜を、母は虚ろな瞳で見上げ、――隣の二匹の妖犬は、未だに牙を剥いて唸っていた。


 彼らの狂気だけはまだ、死んでいない。


 やがて、美春の口から吐き出される言葉は呪詛に変わった。


「……そうよ、嘘よ、あり得ないわ、そう、あり得ないの、あってはいけないの」


 彼女の震えが次第に痙攣に近くなる。


「ここで娘を殺さなきゃ、私は一生、あの家の子守り役。実家の都合で嫁に出されて、大学も辞めさせられて、高校から付き合っていた彼とも別れて、そこまで苦労してようやく産んだ子供は史上最悪の失敗作! ……嫌、このままは嫌。変わるの、変えるの、終わらせるの。こんな人生から抜け出すの!」


 これは、不味い。


 直感した後、美春の握る犬笛から、――ピィイイイ、と甲高い音が鳴り響く。美春が吹いたわけではない。犬笛が自らその音色を奏でていた。


「舞桜、犬笛だ! その笛を今すぐ壊すんだ!」


 静夜が叫ぶが、その時には既に遅かった。


 犬笛から禍々しい瘴気が溢れ出す。美春は妖気に呑まれ、左右に控える妖犬はその身体をさらに大きく、牙をさらに鋭く変化させた。

 黒い影に呑まれた美春が立ち上がる。その所作は武骨で、奥方の慎ましさはなく、それは、竜道院美春ではなくなっていた。


『……情けない。折角、我が力を貸してやったというのに』


 低い、大人の男の声が聞こえる。影が風に攫われると、甲冑に身を包んだ大柄の武将がその姿を現した。


 気配だけで静夜は察する。これは、かなり強力な部類の妖だ。

 甲冑の妖が舞桜を見る。


『……そこの娘か? この女が殺したいと願っていたのは、……得体の知れない気配が見えるな。……もしや神子か? ……なるほど、寝起きの稽古相手としては不足ない』


「……お、お前は、何者だ!」


 ぶつぶつと呟く甲冑の妖に向かって、舞桜は桜花刈を構え、問う。


 妖の顔には鬼の面。表情は分からず、その奥の深淵から奴は少女を見つめていた。


『我が名は『狂犬を統べる鬼面の将』。その昔、犬養と名乗る陰陽師に倒され、この笛に封じられていたが、今宵、依り代を得て、復活を果たした!』


 甲冑の妖は、銀に輝く犬笛を握り砕いて宣言する。

 静夜は、妖の語る『名前』を聞いて驚愕した。


《陰陽師協会》の資料にあった、かつて犬養家によって封印された妖。妖犬を自在に操り、〈狂犬傀儡ノ首輪〉の元となった力を持つ妖。


 それがあの犬笛に封印されていたということは、あの犬笛は、美春が首輪と一緒に犬養家の蔵から盗み出したものだったのか。それとも、……。


「もしかして、……美春さんを騙して、最初からその身体を奪い取るつもりだったのか?」


 静夜の問いに、『狂犬を統べる鬼面の将』は顔をゆっくりと動かして彼の方を向く。


『無礼な。我は女を誑かさない。これは、この女が自ら望んだのだ。我の力を借りてでも、その手で娘を殺したいと。我がいたから、女はその身一つであれだけの狂犬を縛ることが出来たのだが、しかし、最後はこの体たらく。故に、我が代わりとなって、その願いを叶えてやろうというのだ』


「……母上は、無事なのか?」


 舞桜の声が低くなる。不安を隠すような声。

 対して鬼面の将は、楽しそうに声を弾ませた。


『無事だ。しかし、この女の邪念は闇より暗く海より深い。異形の我にとっては大いなるご馳走だ。故に、気付かぬうちにしゃぶりつくしてしまうということも、あるかもしれぬな。……母が恋しければ我を倒して見せよ。母ごと斬らぬように気を付けてな』


 その面の下で、奴はおそらく、底意地悪く微笑んでいる。

 鬼面の将は腰に下げた刀を抜くと、一足飛びで舞桜を捉え、刀を大上段から振り下ろした。


 ガキーン、と重い金属音が響き、妖気と妖気が衝突する。舞桜の左右からは二匹の妖犬が走り迫る。「――吹き飛ばせ!」と舞桜が言霊を飛ばすも、妖犬はその衝撃に耐え、踏みとどまった。

 舞桜は刀を弾き返して桜花刈で妖犬に斬りかかる。二匹はこれを躱し、舞桜は再び鬼面の将の斬撃を桜花刈で受け止める。重い衝撃に苦悶の表情を浮かべた。


 舞桜の劣勢は明らかだった。数的不利はもちろんだが、実力もおそらく、今の舞桜ではあの妖に届かない。


 静夜は何とか立ち上がろうと試みるが、身体に力が入らなかった。心臓の拍動も速くなり、いよいよ限界が近いのだと悟る。これも護心剣を身体から抜いた代償だ。


 それでも、今の舞桜から護心剣を取り上げるわけにはいかない。あの桜花刈を失うと、勝機は完全に失われてしまう。


 静夜はぼやける視界の先で、舞桜を捉えた。片方の妖犬を蹴り払い、もう一匹に斬りかかるが、鬼面の将が桜花刈を止め、妖犬は舞桜の懐へ入り込む。言霊を使ってこれを抑えつけるが、蹴り払った一匹に背後を取られ、舞桜は桜花刈を大きく振り回す。


 攻防はさらに速く、激しくなっていく。

 力になれない不甲斐なさが更に静夜の胸を締め付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る