黒幕

「静夜!」


 舞桜の叫び声が遠くに聞こえる。

 背中と横腹の痛みに顔を歪め、舞い上がった塵に思わずせき込んだ。呼吸が苦しく、視界も揺らぐ。それでも静夜は立ち上がった。


「……ふん、よく耐える。少し驚いたが、所詮は小細工。取るに足らんな」


「……生憎、その小細工くらいしか、僕には取り柄がありませんので………」


 そう。彼に出来るのはこの程度。


「……まだやるか?」


「……当然」


 しかし、この程度のことならできると、静夜は立ちはだかる敵を見据え、息を整えた。


 これは、大学の終わりに舞い込んだ飛び込み仕事ではない。

 これは、忘年会の帰りに受ける奇襲でもない。

 これは、静夜が己の意思で、自ら挑んだ勝負。今宵の彼には、戦う準備と心構えが出来ていた。それは彼にとって、雲泥の差。


 静夜は、劣勢の中でも平静を保つ。


「一つ、訊きたいんですけど、……あなたが操れる式神は、その六体だけで全部ですか?」


「何?」


 将暉の瞳孔が微かに開く。その動揺の反応を、静夜は見逃さなかった。


「チッ、……やれ」


 何かを察した将暉が、先手を取るべく妖犬たちを動かす。

 一つの確信を得た静夜は、右手の銃をリボルバーに持ち替え、シリンダーを振り出し、薬室に素早く弾丸を込めた。それは、一発だけで片を付けるための、必殺の弾丸。


 妖犬たちの突進が迫る。背後には蒼龍楼。逃げ場を塞ぐように囲い込む彼らに死角はない。――平面上には。


 シリンダーを戻した静夜は妖犬たちの攻撃を躱して跳躍する。さらにその足は、虚空を蹴って空中を歩いた。


「な、何!」見上げた将暉は驚嘆する。


 一歩、二歩、三歩と、それはまるで階段を駆け上がるように、静夜は天へ登り、地上を見下ろすとリボルバーを構える。


 蒼龍楼の下、夜空を見上げる式神は、妖犬が四匹と、そして、剛角、飛燕。

 リボルバーに装填できる弾は六発。式神一体につき、一発ずつ。

 相手が人間ではないのなら、骨すら消し飛ばす憂いもない。


 静夜は念を練り上げ、全力の法力をシリンダーへと流し込む。銃身は光を宿し、それは跳躍の頂点で、雷鳴と共に炸裂した。


「――〈天雷〉」


 全弾発砲。雷の名を冠したその特製弾は、本来の射程と弾速を遥かに超えた威力で降り注ぐ。大自然の猛威を思わせるその攻撃は、たった一発で妖犬の式神を焼き払った。後に残った核の呪符すら、余熱によって灰と化す。瞬く間に落された六度の雷は、その衝撃と爆風を大地に轟かせ、街すら呑み込む。


 しかし、将暉は不敵に笑って見せた。「――飛燕!」


 舞い上がった砂利と煙の中から飛燕が跳び出す。左半身が完全に消し飛んでいたが、彼は残る右半身だけで刀を構え、上空の静夜に迫る跳躍を見せている。それは最早人間業ではない。


 風が吹く。わずかに飛燕を隠していたローブが吹き飛ぶと、露わになった飛燕の正体は、額に一本の角を生やした鬼だった。肌は青く不気味な色で、眼は顔の中心に一つだけ。


 これが、犬養将暉が操る、青鬼の式神〈飛燕〉だ。


 飛燕は空中で器用にバランスを取り、残された力をすべて刀に込めて、静夜の頭を斬り裂かんとする一閃を放つ。

 それを躱すべく、静夜はその場で四歩目を蹴った。凶刃を躱し、飛燕の背後の上空へ回る。そして、最後の五歩目で勢いをつけ、飛燕の背中に回し蹴りを叩き込んだ。

 地面に突き落とされた青鬼は、その衝撃に像を歪ませ、やがて力尽きる。


 後に残されたのは、核に使われた藁人形と彼の持っていた刀だけ。


「今のは、まさか〈禹歩うほ〉?」


 驚きの声をあげたのは舞桜だった。


〈禹歩〉とは、先程の静夜が見せた、空中を歩く妖術のこと。

 華麗に着地した静夜は、謙遜と自嘲のため息をつく。


「別に、……五、六年も修行して五歩しか歩けないような〈禹歩〉は、自慢にもならない」


「ご、五、六年?」


 開いた口が塞がらなかった。


 静夜の〈禹歩〉は一度にたった五歩しか歩けない。それなのに、彼はその五歩のために、五、六年という歳月を費やしたというのだ。


 並々ならぬ執念と、往生際の悪さに、舞桜は月宮静夜の神髄を見た気がした。


「……残る式神は、そこの〈剛角〉だけです」


 静夜は、先程の雷撃を見事に防ぎ切った式神を指す。爆風でローブが消し飛んだ剛角は、赤くただれた肌と二本の角を晒していた。


 赤鬼の式神、〈剛角〉は巨大な戦斧を構えて、獣の如く低い唸り声を轟かせている。


「舞桜を追い詰めるために使った大量の式神と、鬼の式神〈剛角〉と〈飛燕〉の二体で、あなたはかなりの法力を消費したことでしょう。限界は近いはずです」


 つまり、剛角を倒せば、将暉に戦う術は残されていない。

 戦況は逆転し、静夜は王手を宣言した。


「アハ、アハ、アハハハハ! ……貴様はもう勝ったつもりなのか? 剛角と飛燕が式神だと分かって、殺さないように手加減しなくてもいいと思って安心したのか? だがそれは甘い。甘いぞ、月宮静夜。……貴様では、俺の最高傑作である〈剛角〉の本気に、手も足も出まい!」


 追い詰められた将暉は全身を震わせ、狂気に満ちた笑い声を上げる。

 将暉が剛角の背中に両手を置くと、彼に残された法力の全てが式神〈剛角〉へと注がれた。赤鬼の双角はさらに鋭く長く伸び、筋肉が隆起して体格が大きくなると、理性なき獣の双眼には、むき出しの闘争心が光を放つ。


 剛角は怒髪天を衝く鬼の形相で戦斧を高く振り上げ、雄叫びをあげた。


「押し潰せ、〈剛角〉!」


 息を切らしても将暉は笑う。赤鬼の咆哮は天地を揺らした。

 覇気を纏う赤鬼は、猛く吠えて地を蹴り走る。その動きは速く、目的を一瞬で必殺の間合いに捉えた。山河を砕く剛腕は、人間一人を羽虫の如く叩き潰す。


「静夜!」舞桜が叫んだ。直後に衝撃。彼女を守っていた結界は消え失せ、砂ぼこりが舞い上がる。師走の風はその衝撃波と轟音に一掃されて凪ぎ、それを追って、――甲高い金属音が響き渡った。


「何?」将暉の声が溢れる。おそらく、仕留め損なったことを悟ったのだろう。


 振り下ろされた重い戦斧は、静夜の握る、飛燕の刀によって止められていた。剛角はさらに力を強めるが、刀は決して折れることなく、月明かりを眩しく弾いている。


 そして、その刀身が漆黒に染まると、月の光をも呑み込んだ。


「――月宮流陰陽剣術、四の型・〈兎月うづき〉」


 刀に念じ、呪詛を討つ。それは一閃。剛角の首が飛び、戦斧は真っ二つに斬り裂かれて、大地に落ちた。残された赤い胴体は小さな人形に変わって、戦斧の残骸の隣に横たわる。


「なんだ、それは……?」


 将暉の声は、驚愕と混乱に震えている。舞桜は言葉を失い、ただ見開いた眼を静夜に向けていた。


 右手にあったはずの飛燕の刀は、刀身が砕け散り、鍔と柄だけを残している。月宮流陰陽剣術の呪いに侵食されて塵となったのだ。この程度のなまくらでは一太刀討てただけでも僥倖と言えるだろう。


 静夜は刀の残骸を投げ捨て、拳銃を抜くと、将暉の方へ歩み寄る。


「……き、貴様、月宮流陰陽剣術は、…………」狼狽えて怯える将暉。


「誰も、使えないとは言ってません」静夜は淡白にそれだけを答えた。


 ただ、これすらも、静夜が持つ、数ある小細工の一つに過ぎないが。


 それでも、月宮の威光は将暉を絶望させるのに十分過ぎた。


 将暉は悠然と歩み寄る静夜に恐れ戦き、焦ったように拳銃を抜くと舞桜の方へ走って、その銃口を彼女に突き付けた。


「と、止まれ! それ以上近付くとコイツを撃つぞ!」


 先程の剣戟で静夜の結界は消えてしまっている。無防備になった舞桜を人質にするのは簡単だと思ったのだろう。浅はかだ。


「往生際が悪いぞ! 犬養将暉!」


 人質にされた舞桜は憑霊術を再発動させ、向上させた膂力で自称婚約者を投げ飛ばす。


 無様に地を這い、仰向けに倒れた将暉に向けて、舞桜は冷たい銃口を突き付けた。


「お前は静夜に負けた。潔く立ち去れ」


 舞桜の答えはやはり変わらない。将暉を見下す朱色の瞳がまだ澄んでいるのを確かめて、静夜は安堵の息をついた。


 将暉は完全に戦意を失い、立ち上がれないまま後退る。

 無様を隠さない彼に、静夜は銃口を向けたまま問いを投げた。


「……将暉さん。あなたが大人しく帰るというなら追撃はしませんが、その前に一つ、僕の質問に答えて下さい」


「……し、質問だと?」


「はい、簡単な質問です。……あの首輪は今、誰が持っているんですか?」


「な、何?」


 予想外の質問だったのか、将暉は困惑した。静夜は構わず続ける。


「あなたは知っているはずですよね? 今、京都を騒がせている妖犬が誰によって操られているのか。一族の秘宝〈狂犬傀儡ノ首輪〉を盗んだのが誰なのか」


「……し、知らない。俺には分からない」


「とぼけても無駄です。一族の家宝が盗まれているのに犯人探しもせず、舞桜と呑気に鬼ごっこをしているだけの余裕があなたにはあった。一族の潔白を証明したいと言っておきながら、あなたは舞桜の確保を優先した。そこには何らかの理由や根拠があるはずです。一族の次期当主であるあなたが、それを知らないということはあり得ませんよね? ……そして、犯人が誰なのか分かっているからこそ、口に出せない」


「違う! 俺は本当に何も知らない!」


「……」


 次第に恐怖で顔が歪んでいく将暉。それを見下ろしながら、舞桜は無言だった。

 おそらく彼女も分かっているのだろう。この事件の裏にある悲しい真実に。


 将暉は、静夜との勝負でずっと妖犬を呪符から創り出し、式神として使役していた。将暉の操る式神からは、今まで静夜たちを襲ってきた個体のような悍ましさが感じられず、闇市で聞いた犬笛のような法具を使うこともなく、彼は妖犬たちを制御していた。さらに、二度も静夜たちを苦しめたあの強力な二匹の妖犬も、今夜はまだ姿を見せていない。


 つまり、舞桜をずっと追いかけていた妖犬の主は、将暉ではないということ。

 別の誰かが、そうであるということ。


 将暉が顔を青く染め、口を閉ざせば閉ざすほど、静夜たちの中にあった疑念は、次第に確信へと変わっていく。


「質問を変えます。……あなたは、舞桜が僕と一緒にいることを誰に聞きましたか? 誰の指示、……いや、誰の提案で、今日の昼間、闇市で僕を待ち伏せていたんですか?」



「――うふふ、……それは、私よ?」

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