第8話 徒桜は何時散るとも知れず
失態
『……それで、その〈厄除けの鈴〉とはいったい何なんですか?』
電話口で、妖花が訝しげに声を上げる。静夜はゆっくりと首を横に振った。
「分からない。僕もまさかあの鈴に、外傷を治癒する効果があるなんて知らなかったんだ。複雑な呪詛だったから、まだ見落としてる効果がいくつかあるのかもしれない。でも僕の知識量だけだと限界があるし、本気で正体を知りたかったら、それこそ専門の鑑定士かどこかの研究室に見てもらうしか……」
昨夜の結末を端的に語ると、栞は一命を取り留めた。
妖犬は、静夜と舞桜が栞に気を取られている隙に、静夜が手放してしまった首輪型の法具、正式名〈狂犬傀儡ノ首輪〉を持ち去り、撤退。理由は分からないが、それどころではない静夜は傷口の止血を急ごうとした。
しかし、静夜が処置を施すよりも速く、栞の傷は独りでに自然と塞がれていったのだ。妖犬の噛み跡が一切肌に残らない完璧な治癒が終わると、徐々に顔の血色も元に戻り、栞は一時間もしないうちに意識を取り戻してしまった。普通なら死んでもおかしくないほどの深手を負ったにもかかわらず、後遺症すら残らなかったのは、まさに奇跡と言えるだろう。
そして、栞の簪に付いたあの〈厄除けの鈴〉は、彼女が気を失っている間、その音を絶やすことなく、鳴り続けていた。
怪我を治したのが〈厄除けの鈴〉だというのは、静夜と舞桜の共通の見解だ。
『その栞さんという方は、今はどうしていらっしゃいますか?』
「あの後、友達の家でシャワーと着替えを借りて、そのまま家に送り届けたよ。命に別状はないけど、血を流し過ぎて体調を崩したみたいだから、今日は実家で大人しく寝てるって」
シャワーを貸してくれた友人というのは康介の事だ。栞が意識を取り戻した後、静夜が電話を掛けるとすぐに忘年会の二次会から抜け出して来て、血まみれの栞を見ても何も訊かず、黙って協力してくれた。
持つべきものはよき友だと改めて感じた静夜だったが、彼には返しきれない恩が出来てしまった。正直、未だに感謝の言葉が見つからない。
『それで、兄さんは、今日はどうするんですか?』
「どうって、……今日は栞さんのお見舞いだよ。今、闇市でいい薬を探してるところ」
静夜は闇市のお店とお店の間の影に隠れるようにして電話を掛けている。
昼間の闇市は、土曜日ということもあって多くの人が行き交っていた。先週の妖犬の襲撃などはとうに忘れ去られているかのような賑わいぶりを見せている。
『竜道院舞桜とは、一緒なんですか?』
「いや、あの子は僕の部屋で謹慎してる。結界はいつも以上に頑丈にして、絶対に抜け出せないように閉じ込めておいたよ」
もちろん、昨夜のように結界を張る前に脱出していないか、今回はちゃんと確認もした。
「でもやっぱり、さすがのあの子も今回のことにはショックを受けているというか、ちゃんと反省しているみたいで、当分は無茶なことはしないと思う」
『分かりました。彼女の扱いについては兄さんに一任しているので、私から言う事はありません。ですが、』
「分かってるよ。今回の事で一番悪いのは僕だ。僕があの時、もっとちゃんと栞さんを突き離していればこんなことにはならなかった。もしくは、もっと僕が強かったら、ちゃんと栞さんを守ってあげられた」
結局、あの場で最も責任を負うべき者が、あの場で最も弱かった。それが、今回のような結果を招いた。
『……はい、その通りです』
上司も、その事実を否定しない。
『民間人を巻き込んでしまったというのは、兄さんの、いえ、特別派遣作戦室に所属する月宮静夜の大きな失態です。まずは始末書を提出して頂いて、詳しい処分は後日検討の上で、お伝えすることになると思います』
「詳しい処分、か……。もしかして、クビ?」
『……深刻な被害ではないので、厳重注意か、重くて減給程度かと……。ですが、私としては、これを機に、兄さんにはこの仕事から足を洗ってほしい、……と思います』
妹の声が震えだす。悲しみか、それとも怒りによるものか、電話越しでは分からない。
『兄さんにはやっぱり向いてないんです、この仕事は。……兄さんには、もっと兄さんに相応しい、兄さんに合った世界が他にあるはずです。ですからもう、終わりにしてください』
「……無理だよ、僕の方から辞めるなんて。協会の方が僕を用済みだと判断しない限り、京都にある使い勝手のいい手駒を簡単に手放すわけがない」
それは、絶対的な権力が決めること。決定権は、静夜にも妖花にもない。
これが世界の理。どれだけ足掻いても、どれだけ訴えても、変えることの出来ない社会の理不尽。
その事実は、静夜に小さな優越感を抱かせる。
『やっぱり兄さんは、三年前の決闘で私に負けたことを、今も根に持っているんですか?』
しかし、妹が放ったその一言は、兄のちっぽけな優越感を、重くて苦い劣等感へと変貌させた。まるで心を読まれたかのようなタイミング。
否、それはずっと静夜の言葉の端々から滲み出ていた。兄の本心に妹は気付いていた。
『ずっと思っていました。……やっぱり、京都の大学に進学したのは、私への当てつけなんですよね? 京都で独り暮らしを始めれば、《陰陽師協会》が仕事を押し付けて来ると見越して。……京都で仕事をすれば、Sランク陰陽師の妹に負けないだけの活躍が出来ますから』
兄は、妹が怒り、涙を堪えている顔を、無意識のうちに想像してしまう。それがさらに静夜の心を抉った。
『もし兄さんが、三年前の仕返しのために陰陽師を続けているなら、そんなのはもうやめて下さい。……そんな兄さん、私は嫌いです』
「……………………」
返す言葉が、静夜にはなかった。
「…………じゃあ、始末書は、妖花がでっち上げればいいよ」
『え?』
代わりに出て来た言葉は、醜く、愚かで、自暴自棄な提案だった。
「僕が原因で民間人が大怪我をしたって上に報告すればいい。加えて、僕の態度が普段から不真面目で、京都の情勢についても報告に嘘が含まれている、とか、そんなことを言って、僕に仕事を振らないように、理事会に強く進言すればいい。そうしたら、もしかすると、僕をクビに出来るかもしれない」
口ではそんなことをいいながら、静夜は内心で、そこまでやっても長期の停職処分にしかならないだろうと、そう思った。
『……分かりました。そうします』
妖花も返事をしながら、きっとそれを予感しているはずだ。
大学生と高校生の兄妹が、《陰陽師協会》を支配する理事会に、何を訴えたところで、優先されるのは大人の事情。世の中の理不尽を覆すことは出来ない。
それでも妹は、兄に対して訴える。
『……約三年、この世界で生きて来て、私は思います。やっぱりここは、兄さんがいるべき世界じゃありません』
それは皮肉にも、昨晩静夜が栞に対して言った言葉と、全く同じものだった。
キャリアが二年も違う上司の言葉は、青年の胸の中で重く、重く、響き渡る。
一つだけ、上司の言葉に異を唱えるなら、静夜は別に三年前のことを根に持っているわけではない。
ただあの日の事を、未だに惨めに、引き摺っているだけなのだ。
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