六.
これは、また……。
すみません。
最近いろんな方がいらっしゃるのは知っていましたが、憲兵さんも兵隊さんも僕のところにまではいらっしゃいませんでしたから。
遠くの方どころか村のひとも誰も来ません。だから驚いてしまって。
よくここがお分かりでしたね。
どうぞお入りください。お召し物が汚れないよう。
狭いでしょう。すみません。
ああ、奥には行かれないよう。妹が寝ているんです。申し訳ありませんが。
双子なんですよ。
似ているかはわかりません。
僕は水に映るときしか自分の顔を見たことがありませんから。
これ、ですか? これはお渦様ではありません。
聖母まりやの像ですよ。
お渦様は聖書のらざろに似ているかもしれませんね。主によって死から蘇った方ですから。
はい、僕は切支丹です。代々そうなんですよ。ですから、
こんな崖の淵まで追いやられてしまいました。不自由がないわけではありませんが、妹と平穏に暮らせていて、今は満足ですよ。
……そうですか、本当にお渦様のことを知りたいなら僕にと。
後悔なさいませんか。
わかりました。でしたら、僕でよければお話いたしましょう。
お渦様の話で不思議に思ったことはありませんか。
あの崖の高さと海の深さ、そして激しい流れです。
落とされた者がそれほどよく村に戻ってくることがあるでしょうか。
この村のひとたちは、お渦様を作っていたんですよ。
海の向こうの軍が生き死人を作ったように。
鋸の歯のような崖の側面には、波が削って自然にできた足場があります。
そこから降りるていくと、砕ける飛沫がかかるほど渦の間近に行けるんです。
祠に太い注連縄があったでしょう。
あんな風に太い縄で、罪人を繋いで海に落とすんです。
溺れることも浮き上がることもできない、冷たい煉獄のような具合の場所に。
息もろくにできず事切れる者もあれば、気が触れる者もあります。
死んだ者はそのまま海に捨てて、気が触れた者はお渦様として村に帰す。
お渦様が彷徨い続けるのを、見せしめとするんですよ。
彷徨い果てて倒れると神主が供養する。そういうものなんです。
僕のような切支丹は昔、何人も何人も、縄飾りのように連なって、海に繋がれていたそうです。
音ですか?
お気になさらず。妹が寝返りを打っただけです。お客様が来たのがわかるのかもしれませんね。
僕の家は上手く隠れ続けていましたが、祖父母の代で見つかりました。
祖父母は海に落とされて戻らず、年端もいかなかった母は見逃されたそうです。
母の代でこの血筋も途絶えるはずが、僕と妹が生まれた。
父親は?
そうですね、村八分の人間は他の者と話すことすら地主様が見張っていますから。
でも、見張り本人ならどうでしょうか。
そんな顔をなさらないでください。優しいんですね。
兄も優しいひとなんです。最近は床に臥せっていることが多いらしくて、心配ですが、見に行くこともできません。
まだ幼い頃兄は、口さがない大人から漏れ聞いたんでしょうか、病床を抜け出して僕たち一家を探し出しました。
地主である己の家しか知らなかった兄にとって、僕たちの暮らしはひどく悍ましく見えたでしょうね。
それでも、僕たちが屑拾いや物乞いをするときは、ごみを投げつける風を装って米の粉や豆を包んでくれましたし、ひと目を忍んで会いに来てくださるようにもなったのです。
母も妹も僕と喜びました。
ある年の夏、兄はぱたっと来なくなりました。
大方、夏風邪でも患ったのでしょう。
妹は会いに行きたいとせがみましたが、私と母は強く止めました。
しかし、ある日の夜中、僕と母が寝ている間に妹はそっと抜け出して、ひとりで地主の家まで辿り着いたのです。
星もなく、夜空と黒い海と境もない暗い夜だったと思います。
勝手口から忍び込んで、兄の様子をひと目見ようとしました。廊下の軋む音に、兄は夜盗だと思い、使用人を呼んだそうです。
兄は見たでしょうか。
襖が開け放たれて、足音の主が捕らえられる様を。
腹違いの妹の蒼白な泣き顔を。
母の差し金だと思ったのでしょう。先代の地主はすぐに遣いを送って僕たちの家に乗り込み、夜明け前に母も捕らえました。
僕はそのとき、水汲みに出ていて難を逃れました。
地主は我が子が双子だということすら知らなかったのでしょうね。
僕に追っ手はついぞ来ませんでした。
母と妹は海に繋がれました。
ふたりがぱらいそを信じて祈ったか、いんへるを思って呪ったかわかりません。
地主を、この村を、僕を呪ったかもしれません。
いえ、僕よりずっと清いふたりですから、やはり祈ったのでしょう。
母は途中で縄が千切れて流されました。
自分の腕より太い縄で繋がれた妹は、お渦様になりました。
ふたりがどうかはわかりませんが、初めて藻屑拾いをした頃のたどたどしさで、海辺を彷徨う妹を見て、僕は確かに呪ったのです。
僕は倒れて祠に収められた妹を、家に連れ帰りました。
兄はその後更に酷い熱を出したそうです。
もうここに来ることはありませんでした。合わす顔がないと思ったのでしょう。
それから、身体は弱いままだが気性だけは荒くなったとか、病み上がりで海に出て死のうとしただとか兄の悪評が届くようになりました。
僕は、毎朝崖に降りて、渦を見に行くのが日課になりました。
母が流れ着いていないかと思ったのです。
何年も何年も、獣の耳朶のように巻いた渦を見ました。
ある日、岩礁に貼りつくように倒れたひとの影がありました。
波に揉まれて眉も髪も抜け落ちていましたが、母だと思うはずがありません。
身体の大きく、半分開いた目の青い異人でした。
引き揚げようとすると、後ろから触っちゃいかんと声がしました。
戦争から足を撃たれて帰った男でした。
漁に出られなくなってから、手持ち無沙汰か、岩場の近くを歩いているのをよく見ました。岩場には、拠り所のないものが、渦に引き寄せられるように集まるのです。
彼は噛まれたらお前もこうなるぞと言いました。
異国の作った武器のぞんびだと、教えてくれたのです。
お渦様が何たるかを嫌というほど知っている僕たちですが、このぞんびは神様からの遣いに思えました。
岩場に集まった者たちはこれをどう使うか、他の村人たちに隠れて話し合いました。
日に日にひとが増え、誰か地主に告げる者が出るかと思いましたが、誰もおりませんでした。
その中でひとり、老いて漁に出られなくなった老人が俺を使えと言ったのです。
どうせ役立たん命なら、最後に使ってやろうと。
老人は地主様のところから米を一升盗みました。
たったそれだけで地主様は彼をお渦様にするひとだと皆わかっておりました。
老人は己を繋ぐ縄を、懐に呑んだ匕首で切り落とし、匕首ごと海に消えました。
海に刃物を落とすのは、神様が嫌うと言ってよくないそうですね。
僕たちの信ずる神ではありませんが。
僕たちはその縄に、噛まれないよう気をつけながら、ぞんびを繋ぎました。
村八分の娘が、あの細腕のどこにそんな力があったのかと思うほど、罪人の首でも引き縛るように縄を締めめました。
海水でふやけた肌も、禿げた頭も、色の薄い目も、恰幅の良さも、傍目からしたらぞんびは漁で鍛えた老人の死骸に見えました。
夜が明けて、地主が現れました。
使用人を引き連れて。
その中には兄もおりました。
地主は使用人に地引き網のように縄を引かせ、お渦様を引き揚げました。
兄は離れたところで、暗い眼をしてそれを見ていました。
地主は蔑んだように笑って、お渦様の縛を解きました。
太い縄が事切れた蛇のように落ちるのと、ぞんびが地主の首に噛みつくのはほぼ同時でした。
使用人たちは一斉に悲鳴を上げて逃げ惑いました。
誰も地主を助けようとする者はおりませんでした。高く低く響く悲鳴は海鳴りのようでした。
兄は目を見開いて、ひとが次々動く屍になっていくのを呆然と眺めておりました。
目から光の消えた地主が兄に噛みつこうというとき、僕は兄の手を引いて、波の腕が迫る岩場を逃げました。
溢れた死人たちは、大名行列のように連なって村へ行きました。
僕たちの話を聞いていたものは、朝から固く扉を閉じて家に篭っておりました。
他の村人たちは悲鳴を海鳴りと聞き違えて、気づかなかったのでしょう。
何も知らず漁に出ようと海辺へ向かうものは皆ぞんびに襲われました。
妻を殴る夫も、怪我をして戦地から戻った者を詰る漁師も、村八分の家に石を投げた女も、皆噛まれて生き死人になったのです。
火葬場の灰を巻いたような暗い砂浜に虚ろに蠢くぞんびの群れは、いつかの地主が我が身可愛さに作り上げた伝説のお渦様が、村に恵みをもたらすためにこぞって現れたようでした。
村中の道についた血の跡が、さっと紅を引いたようでした。
やがて嵐が来ました。
僕や兄や難を逃れた村人は、高い崖の方へ逃げました。
歩き回るだけの死人たちは、大時化で荒れ狂う海が伸ばした白波の手に捕まり、みな押し流されました。
僕たちは、死人が生まれた渦の中に戻るように呑まれていく光景を、大雨が作る御簾ごしに眺めておりました。兄はついぞひと言も言いませんでした。
これで、おわかりになったでしょう。
お渦様のことも、ぞんびのことも、強い者だけ連れ去った奇妙な時化のことも。
あ、妹が起きたようですね。
ああ、また隠れてしまった。
娘でございますから、珍しくいらしたお客様に、髪もまばらで擦り切れた肌を見せるのはお恥ずかしいのでしょう。
それでも僕には可愛い妹です。
なぜこんな話を聞かせた、と?
なぜでしょうね。
あなたがお優しい方に見えましたから、きっと最後まで聞いてくださると思ったのです。
都会に帰ってこんな話をしても誰も信じないでしょう。
ましてや村八分にされた、切支丹の子の話です。譫言としか思われますまい。
でも、学者様のお話なら耳を傾ける方もいらっしゃるかもしれませんね。
いや、あなたは優しい方ですから、わざわざこの村の平穏を壊すようなことは吹聴なさらないでしょう。
身体は弱いが優しい地主様に変わって、神社も今一度栄え、村八分にされていた者も口をきいてもらえるようになり、細々とですが仲睦まじく暮らしている村です。
それでいいではありませんか。
もし、他言なさると仰るならこの村から出られませんよ。
うん、どうしたんだい?
いえ、あなたではなく妹です。
やはり気になるようですね。
妹は優しい方が好きですから。
さぁ、漁も終わる頃です。
今、浜辺に行けば仕事を終えた漁師たちが船を出してくださるでしょう。
道中お気をつけなさいませ。
崖は崩れやすいし、船も激しい潮の流れに揉まれないとは限りません。
潮だけではございません。
いろんなものが渦巻いているのが普通なこの村ですから。
本当にここは冥府と同じ。
入るのは容易く、出るのは難しい。
渦の村でございます。
渦と屍 木古おうみ @kipplemaker
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