第228話 呼んだのは誰だ
ここで少し、時間を戻さなければならない。
ハサンが待ち合わせの上半球・居住区へそろそろ行こうかな、と、考えていたころ。ユウは下半球・研究区を、蹌踉とした足取りで徘徊していた。
酒を飲めば、嫌なことが忘れられるのだという。
だから飲んだ。飲んだのに、実際はそんなことはない。
むしろあれは、増強剤なのではないかとさえ思う。
嫌な気分が増す。胸の痛みが増す。吐き気が増す。イライラが増す。
あっ、と、足がもつれて床に手をついたが、ユウは起きるのが面倒になって、そのまま、ごろりと寝転がった。
冷たくて硬い、黒大理石でできているかのような大通路は、ユウがこのような体勢になってもなお、L・Jカーゴ二台が余裕を持ってすれ違えるほどの幅を残していた。
……寒い。
ユウは手足を縮めて、壁に密着するようにした。
……まぶしい。
床に点々と埋めこまれた照明を避けて、もじもじと移動した。
ああ、と、はいたため息は、喉のあたりに灼熱感を残していった。
……くそ。
これから、どうしたらいいんだろう。
どうにもできないくせに、そんなことばかり考えている。
N・Sに乗れるかどうかは重要なことじゃない。アレサンドロはそう言った。
いや、重要だろう。これから大きな戦いが待っているのだから。
また乗れるようになるって。ララはそう言った。
どうして自分の心の中には、乗りたいという気持ちが起こらないのだろうか。
「乗りたくない」
声に出してみると、しっくりきた。
これ以上に、自分の気持ちを表す言葉はないような気がした。
「……はは」
馬鹿な。なにを言っている。
乗りたいかどうかではない。乗らなければいけないのだ。そうでないと居場所がなくなる。
L・Jに乗るのはどうだ?
そんな心の駄々も聞こえたが、それこそ無理な話だ。
ユウは、ぶるっと身震いをした。熱があるのではないかと思った。
これはまずいと壁にすがりつき、無理やり身体を立ち上がらせる。
なにかの突起に指がふれ、かわいらしい合成音が、ピプ、と、鳴った。
「あ……!」
指を引いたがもう遅い。まばたきの速さで隣の扉は開かれている。
おそるおそるのぞきこんで、四肢心臓が、びりっとこわばった。
「カ……」
カラスだ。
いままさに乗りたくないと拒絶したばかりのN・Sカラスが、ごみごみした、機械だらけの大空間の中央に横たわっている。煌々と照る、鋭いライト光の下だというのに、それは不思議と静謐で神々しく、異国の神像、太古の副葬品、あるいは死者そのもの、そういったものを思わせた。
魔人界第一の機械工学専門家、トキの一号研究室。
ユウはここがそうであるとは知らなかったし、また、N・Sがこんなところにあるとも聞いていなかった。
「……う」
ユウはぞっとなった。
どこをどう歩いてきたかも覚えていないのにここへ来た。つまり、カラスが自分を引き寄せたのではないかという気がしてならなくなってしまったのだ。
背後に立つ人影。窓の隙間からのぞく誰かの目。就寝中に感じる床板のきしみ。
誰もが一度は、そういったありもしない妄想で動けなくなってしまったことがあるだろう。
いまユウは、なぜかはまったくわからないが、あのN・Sの腕の動く範囲に入ったが最後、捕らえられて、孤独な檻の中へぶちこまれてしまうのだという思いがした。
先ほどは確かに、このN・Sに神の威容を見たのだが、それは神は神でも、死神であるようだった。
……ここにいてはいけない。
ユウは逃げようと思った。
「動くなよ」
と、偶然鉢合わせてしまった肉食獣に対してそうするように、祈った。
ギブスをはめられたように固くなっていた足が、そのとき、じり、と動いてくれたので、ひとつ息をはくだけの余裕ができた。
そうだ。このまま壁のかげに隠れてしまえば、きっと逃げることができるはずだ。
そう考えた喉に、また灼熱感がわく。
下がるんだ。
このまま下がるんだ。
静かに……静かに……。
「……え?」
ふと見ると、確かに足は動いていた。しかし前へ。N・Sの方向へ。
足を引く。だが実際は前に出る。
引く。
やはり出る。
右足が一歩分すり出ると、次は左足が。
右足が。
左足が……。
歯ががちがちと鳴った。腿が震えた。
身をよじろうとしても、背筋と腹筋が雑に痙攣しただけで、上半身が制御不能にのたくっただけだった。
ああ。
それでも足の骨だけが、勇猛果敢にカラスへと向かっていく。
「あ……あ!」
声も出ない。
いっそ舌を噛み切りたくなった。
「ああ……!」
カラスがこちらを見ている。
腕が伸びてくる。
N・Sのフェイスマスクが割れて、その奥に見えたのは牙だ。
足が止まらない、足が止まらない!
『やめろ!』
次にユウが見たのは、自分の両の手のひらだった。その手は腿の上に乗り、足はきちんとそろえられて、床にひざをつけていた。
つまり、手のひらを上に向けて正座をしていたのであった。
ここはどこだっただろうか。
どうしてこんな体勢になっているのだろうか。
思い出そうとしてみても上手くいかない。
ただ、ひどく眠いような気だけがする。
そういえば酒を飲んだのだった。
自分にしてはかなり飲んで、そこから……なにをしたのだったか。
ユウは、うつむいた形で固まってしまっていた首をまわすようにして持ち上げ、両手で顔をごしごしこすった。
息をついて、重い目蓋を開けて、すぐそこにそれが横たわっていたのには驚いたが、それでも、
「あ、カラスだ」
程度にしか思わなかった。
心はすっぽり抜け落ちて、必要以上には波立たなかった。
……ここはどこだろう。
ユウはまた思った。
どこかの研究室。そのほぼ中央。N・Sカラスの頭部からは三メートルも離れていない場所。ユウにはその意味もわからない。首をひねる。
ああ……。
それよりも疲れた。
もう寝たい。
ユウはよっぽどこのまま寝てしまおうかと思ったが、いつかのとき同様怒られてしまいそうだと考えなおし、どうにか気力を振り絞って立ち上がった。
もう百年もここに座っていたかのように、全身の筋肉もこわばっていた。
と……。
カラスともう一度目が合った。なんだろう、この違和感は。
そうだ。
身体は仰向けなのに、顔だけがこちらに向けられているというのが不自然なのだ。
このN・Sをアレサンドロに返したとき、乗れなくなった原因を一応探ってみるから、と言われたが、その調査のためにこうなっているということなのだろうか。
しかし、それにしては……。
「?」
床に投げ出されているカラスの腕。
なにかを指さしているように見える。
……壁?
そして、ハサンが呼び出される騒ぎとなった。
N・Sカラスが指し示した壁に、隠し通路が見つかったのだ。
壁面風の偽装映像が投射された入り口。そこから、天井の低いトンネルを十メートルほど進む。
その工房に足を踏み入れて、ハサンは、あっと叫びそうになった。
「N・S……!」
それも一見してわかる、逸物である。
それはなにものにも頼らず、自分の足だけで立っていた。
『頭が高い』
と、その金色のたてがみを雄々しく逆立たせ、矮小な人間をねめつけていた。
厚い胸板は劣等感を覚えるほどに男性的で、装甲の隙間から生えのぞく体毛は、あたかも獣人が鎧を身につけているかのように野性的。
そしてどうだ、この、壁面全面に立てかけられた武具の数々は。
両刃剣。片刃剣。大剣。手斧。長柄斧。槍。馬上槍。槌。丸盾。大盾。……。
これらがすべて、この鎧巨人の持ち物だというのだろうか。
「N・S……『獅子王』」
先行して到着していたアレサンドロが、目の輝きを隠そうともしないで振り向いた。
「ああ、すげえよな」
ハサンはあやうくあふれかかった歓喜の叫びを押しこめて、いつもの笑みを唇に貼りつけた。
アレサンドロだけではない。ここには聡いセレンをはじめ、十人からの人がいる。腕の中にはモチもいる。
感情を見せるのはよろしくない。
ふと見ると、ララにつきそわれるようにしてユウがうずくまっている。
アレサンドロが、気をきかせて言った。
「あいつがこれを見つけてくれたんだぜ」
「あれが? あれがなぜここに。カラスに会いにきたというのか」
「つうか……酔っぱらっててな。ふらふらしてたら、ここに来ちまったらしい」
「……フゥン」
「ねぇ、アレサンドロ。ユウ、頭痛いって」
心配そうなララの呼びかけに、アレサンドロはどれどれと、ハサンのそばを離れていった。
「酒……な」
ハサンは、すんと鼻を動かして、あたりのにおいを確認した。
なるほど、確かに酒のようだが……。
「ハサン、ユウは部屋へ戻るようです。ついていっても構いませんか?」
「ああ、もちろんそうしたがいい。だが、くれぐれも慎重にな。相手はなにしろ臆病者だ。こじらせると面倒なことになる」
ここへ来るまでにハサンの仮説をあらかた聞いてきたモチは、それが深層のユウのことを指しているのだとすぐに察し、わかりました、と、神妙にうなずいた。その仮説が正しいかどうかということよりも、ハサン自身を信用すると、そう宣言したモチなのだった。
ララとモチに支えられてユウが去り、それと入れかわりに、アレサンドロが戻ってきた。
「なあ、ハサン。考えたんだけどよ」
「ン?」
「俺はこいつに乗るぜ。この、獅子王に」
「……ほぅ」
「オオカミにはもう乗りたくねえと思ってたとこだ。それに……」
「ユウの分の働きもできる」
アレサンドロは、ご名答、と言うように肩をすくめ、眉毛のあたりをぽりぽりとかいた。
「今日。N・Sに乗れなくなった、すまないって、ユウが頭を下げてきたときによ、俺は思い出したんだ。ああ、そういやこいつは、俺に巻きこまれただけだったんだよな、ってよ。いままでも何回かそんなことは思ったが、今日は、本当にそう思った。これはユウが謝ることじゃねえって……。だからよ、だからもし、ユウがこのまま乗れなくなっちまったとしても、俺はせめてあいつに、自分のせいで負けたとだけは思わせたくねえ。ユウがいままで俺のためにしてくれたことを無駄になんかしたくねえ。だから勝ちてえ。だからこれに乗る。そういうことなんだ。わかってくれるよな?」
ハサンはうなずいた。
「そりゃあ、この戦、どうすりゃ勝ちなのか、どこまで行けりゃあ勝ちなのか、まだわかってねえけどよ。とにかく俺は勝ちてえ。ユウのためにも、俺のためにも、もちろん、あんたのためにもな」
「これは動くのか」
「ああ動く」
「おまえは乗れるのか」
「きっと乗れる」
「ジャッカルにこのことは」
「まだだ。きっと反対するに違いねえが、あんたが丸めこんでくれ」
「フフン、ならばなにも言うことはない。おまえはこれのことだけを考えていろ。なに、ユウのこともまかせておけ。ちょうど、フクロウ君とそれについて話し合ってきたところだ」
アレサンドロはそれと聞き、心底ほっとしたような笑顔を見せた。
「アレサンドロ、ユウはカラスの魔人だそうだ」
もしいまそれを伝えたら、この顔はいったいどう変わるのだろう。ハサンは思った。
きっと驚くに違いない。そして冗談はやめろと笑うに違いない。それから戸惑い、悩み、因縁に心動かされ、ユウをいとおしく思いながらまた悩み、どう接するべきかの答えを見つけられないまま最後の戦いへとおもむくことになるに違いない。
ハサンはそうしたくはなかった。
結果、黙っていることにした。
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