第224話 罪人

 ……まるで自分の屋敷のようだ。

 そう言ったのはバーナーの手下だったが、ユウの感覚もいま、まさにそのとおりだった。

 全身の神経を研ぎ澄ませ、一歩一歩のぼってきた螺旋の階段。だが、なにも聞こえない。なんの気配もない。

 そうだ……。

 昔、北部の大豪邸を、ハサンがたわむれに買ったことがある。

 ここは、ふたりで住むには広すぎて、夏でも寒かったあの屋敷に似ていると、ユウは思った。

 大きな温室のある屋敷だった。

 このとき、ささやかれるように耳によみがえったのが、

『そうか、おまえが約束の子か』

 この言葉である。

 思えば、ハサンのこのひとことから、第二の人生ははじまった。

 それから、十五年、十六年。

 いま、その人生第二期も、終わろうとしている。

 メッツァー・ランゴバルト。その首は、もう目の前にある。

「……ふう」

 なかなか頭はからっぽにならないものだ。ユウは立ち止まって、大きく、意識的に深呼吸をした。

 頭痛はない。

 恐怖もない。

 緊張だけが少しある。相手の顔を見れば、ここまで封じ続けた、なんらかの感情が動き出すに違いなかった。

 十五年という時間の中でため続けた憎しみか、それとも、一瞬の閃光が焼きつけていったトラウマか。


 ユウはその部屋にたどり着いてなお、十分という時間を、ドアの前で費やした。

 この場所を探し当てたとき、報告のためにやってきたらしい騎士が、失礼いたしましたと去っていくのが見えたので、中の主が再び寝つくまで待っていたのである。

 待つことは苦にならなかった。

 騎士たちに見つかることも、たぶんないだろうと思えた。

 もういいだろうという直感を信じて金のノブに手をかけると、次の瞬間にはもう、身体は薄明るい部屋の中にあった。そのなめらかな侵入は、自分でも驚くほどであった。

 ……におうな。

 どうやら風邪というのは本当らしい。この香りは薬用酒だ。

 酒を飲んでいるならなおさら好都合、と、太刀の柄をつかみ、すらり、抜き放つ。

 天蓋付きのベッドは五メートル先で、布団をかぶった使用者はこちらに背を向けていると見た。

 ユウは絨毯を踏みしめて、ひと足ひと足、ベッドの向こう側へとまわりこんでいった。

 そして……。

「メッツァー……ランゴバルト」

 あの日見た、あの顔が、そこにあった。

「……」

「……」

 どれほどの時間、それをながめていただろう。

 つ、と、涙がこぼれ出た。

 おそらくこの気持ちは、誰にもわからないだろうとユウは思った。

「おい」

「む、むうう……?」

「起きろ」

 ぐいぐい無造作に揺さぶると、しめった縮れ髪の下で、薄い眉がわずらわしげに動いた。

 うっすらと開かれたのは右目のみ。

 左目はつぶれている。

「……なんだ貴様は」

「……」

「もう報告はいらんと言った。出て行け!」

 ランゴバルトはそのまま、ああ、頭が痛い、と、布団をひっかぶろうとしたが、ユウはそれを許さなかった。

「なんだ貴様は。さっさと去れ、出て行け!」

 ユウは刃を見せつけて、ランゴバルトを黙らせた。

 ひぃい。

 なさけない声が、四十歳になったという男の喉から、もれ聞こえた。

「俺を覚えているか?」

「ひ……ひ?」

「俺だ」

「あ、や、やめろ……!」

「魔人との戦が、昔、あった」

「あ、あ、あ、ああ。あった、あったな」

「おまえはその戦で、ひとつの村を焼いた。まず最初に神官を殺し、その家族を斬った」

「あ……」

「思い出したか?」

「い、いや、知らん、知らん。あ、き、斬るな、頼む」

「おまえのその目を奪ったのは俺だ」

 するとメッツァー・ランゴバルトの面から、血の色も、恐怖も、さっと、すべてがそげ落ちた。

 驚いたまま死ねばこんな顔になるに違いない。それは、そんな顔だった。

「俺を覚えているか?」

 ユウはまたくり返した。

 そしてそれをきっかけにして、また、涙があふれ出た。

「俺は覚えている」

 むしろそれが悲しくて、仕方がなかった。

「覚えているのに……なにもない」

 ユウの悲しみの原因は、これだった。

 なにもない。

 そう、なにもなかったのである。

 メッツァー・ランゴバルトの顔をながめてみても、さらにあの日を思い返してみても、自分の心に、なにも起こらなかったのである。

 怒りも、憎しみも、不思議とあの恐怖さえもない。もちろん殺意もわかないのだから、心に受ける印象は顔見知りというのに近い。目蓋に焼きついたあの日の惨状も、どこか別の場所で見た一場面であったかのようだ。

 なぜ、と、考えて、簡単に答えが出るなら苦労はない。

 だがもしもこれが、思い出さないようにして、目をそらして、ハサンという大樹に寄りかかってやってきた、その代償なのだとしたら。

 テニッセンの言うとおり、先の自分を考えた、その結果なのだとしたら……。

 俺は最低だ。

 ユウは最後のよすがとしてランゴバルトの胸ぐらをつかみ上げ、

「なにか言え……!」

 と、自分の感情をよみがえらせるひとことを期待してみたが、無駄だった。ランゴバルトは、ほとんど喪神していた。

 ……終わった。

 ユウはそう感じた。

 罪を犯したのは誰なのか。

 もはや、わからなかった。

「おまえのことは、もう追わない。もう終わった。全部、終わった」

 ユウはかろうじてそれだけ言って、ランゴバルトを突き放し、抜き身をぶらさげたまま部屋を出た。

 清浄な冷気にさらされて、目蓋は熱く、頬は冷たかった。

 もういい……と、聞き覚えのある声が耳の中で響く。

 もう帰ろう。これで十分だ。

 これが最善の結果だったのだ、ユウ。

 これが正解だ……。

 ユウは特に意識したわけでもないのに、城を出るまで誰にも出くわさなかった。

 もし出会っていたとしたら、素直に斬られていたかもしれなかった。

 ああ……。

 空が真っ暗だ。怖いくらいに真っ暗だ。

 確かこの城へ来るときは、星が出ていたはずなのに……。

 不意にぞっとしたのは、不安を覚えたのだ。

 ララへの気持ちは消えていないか?

 このことである。

 うらみが消えて、これまでが消えてしまったら、自分にはもうなにも残らない。

「ララ……!」

 ユウは駆け出していた。街道を南に取り、迷子が母親を求めるように駆けていた。

「ララ、ララ……!」

 いとしいはずの少女への想いを、何度も何度もくり返す。

「ララ!」

 早く会わなければ、会わなければ、会わなければ……!


「あ、ユウ!」

 ララと再会したのは、ウスコの十五キロ南、ラホツの村のはずれであった。

 色ガラスを透かしたような、日の出前の、薄紫色に染まった街道である。

 右手には畑地。左手には裸の果樹と、いくつかの家。早立ちをした旅人の影が、遠くにひとつふたつある。そんなさびしい景色の真ん中で、ララは、ぽつんと待っていた。

「……ララ」

「うん、うん!」

 ララは別れたときのままのワンピースとおさげ髪で、それが走るのに合わせて軽やかに踊った。その泣きそうな笑顔はユウの胸を熱くした。

 よかった。消えてない。

 抱き合って、その髪に顔をうずめて、ユウは、ようやく現実に戻ったような安心感を得た。

 そして、思った。

 村の人々は、こんな自分をきっと呪うだろう。うらむだろう。

 それは当然のことだ。そして悲しいことだ。

 だが……と、天を振り仰ぐ。

 朱色の雲が美しかった。

「ララ」

「ん?」

「駄目だった……殺せなかった」

「え?」

 身体を離したララの、ぱちぱちと音がしそうなほどの大きなまばたきが、信じられないというその胸の内をよく表していた。

「どうしたの? ……手伝おうか?」

 真剣に言うララへ、ユウは首を振って見せた。

 もう行けない。行っても結果は変わらない。

「でも……!」

「いいんだ」

「……」

「いい」

「……そっか、わかった」

 そのときララが見せた顔の、なんと優しかったことか。

 ララは、身をすくめてしまったユウの胸に額をこすりつけ、

「お疲れ様」

 と、言った。

 ユウは、ここでも泣いてしまった。


 さて。

 それを、少し離れた木の上からながめていた者がいる。

 白いフクロウ、モチである。

 モチは、ムウ、と、ひとうなりして、いかにもフクロウらしく首をまわすと、街道の向こうをながめやった。それはここからは見えないが、北の白鳥城の方角であった。

 モチの目はそれから二度三度、城とユウとを行ったり来たりした。

「ムウ……」

 実はモチは、いまユウが言ったこと、すべてを知っていた。見ていたのである。

 予定ではテニッセンとともに宿まで行き、ララを引き渡し……ということだったが、ひとりで待っていられなくなったララと、ばったり鉢合わせしたのが城のすぐ外であった。

 そこでその場で事情を話し、私は戻ります、と、ひとりユウのもとへと取って返したのである。

 だがモチは、そのためにいま悩んでいた。

 ユウが部屋を出た直後の、『メッツァー・ランゴバルトの死』までもを、小さな鎧窓越しに目撃してしまったからであった。

 あの男にとっての不幸、それは今日、病んでいたということだろう。

 風邪のために水分を失い、ストレスを受け、そして、驚愕というダメージを負った。それがおそらく、心臓にきた。

 だらり横たわった男が突如、血走らせた隻眼をかっと見開き、短く、狂的な悲鳴を上げるや否や、胸をかきむしり、髪をかきむしり、がばと、うつぶせになって激しくあえぎはじめたその姿は、モチをして戦慄させた。

 震える指が呼び鈴を求めて宙をかき、結局届かずに落ちたとき、

「じっとしていなさい」

 そうモチが声をかけてしまったのも、ランゴバルトを生かそうと思ったのではなく、ただそうしなければ、自分の身を落ち着かせることができなくなってしまったからだった。

「い、医者を……!」

 ランゴバルトは絞り出すように言った。

 こちらを味方だと勘違いしたのは明らかであった。

「医者、医者、医者だ、早く……あ、ちくしょう、あの野郎のせいだ。あいつさえ、あいつさえ……げえ!」

 そのとき、身をよじり、ぱっと跳ね起きたランゴバルトが発した苦悶の断末魔。これがいまも、モチの耳に染みついて離れない。

 ランゴバルトは泡を飛ばして叫んだ。

「あの魔人野郎!」

 と。

「あの、魔人野郎を殺せ! あれは、俺の目を食った、カラスだ!」

 と。

 あれはいったい、どういう意味だったのか……。

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