第216話 死像

 N・Sマンタが、飛び立った方角をそのまま維持してくれていたおかげで、カラスは迷うことなく追いつくことができた。

 ふり返って見ると、帝都はもう地平の向こうである。

『整理はつきましたか』

『え……?』

『ラッツィンガー将軍です』

『ああ』

 ユウは曖昧に返事をしたが、特に落ちこんでいるというわけでもなかった。

 よくよく考えてみれば、この結果は、いまの自分にとって屈辱ではない。なぜそうなったかの疑問はさておき、生かされてよかったではないか。

 アレサンドロも戻ってきた。

 旅はまだ続く。

 あとは……。

『メッツァー……ランゴバルト』

 ぞぞ、と、ユウの身体に震えが走った。クローゼの口から伝えられたときは現実感がともなわず、まるで物語の中の悪役のように思えたその名が、言葉にしてはじめて、この世界に生きている、本当の人間のものだと実感されたのである。

 メッツァー・ランゴバルト……メッツァー・ランゴバルト……。

 藍色の旗。悲鳴。炎。そして、血。

 あれほど深かった憎しみが、吹き飛んでしまうほどリアルな!

『ユウ?』

 モチは、あわててマンムートから離れた。

 ユウが手足をこわばらせたまま着地の姿勢を取らないので、あやうく、ぶつけてしまうところだったのだ。

『ユウ、どうしました』

『……いや』

『この、感情は?』

『……』

『ラッツィンガー将軍になにか?』

『違う』

『では? そう、落ち着いて』

『……仇がいる』

『仇』

『見つかったんだ、それが』

 一心同体のモチの心が静かな驚きに揺れ、戸惑い、寄りそってきたのをユウは感じた。

 N・Sカラスは風に乗り、マンタの尾のつけ根まで流された。

『誰の仇ですか』

『家族だ。父と、姉と、兄』

『相手は』

『メッツァー・ランゴバルト。いまは、北部の、執政官をしてる』

『それは……』

 モチは言葉を切り、

『難しい』

 ぽつり、言った。

『できるできないではありません。我々はもう、このマンムートを離れるわけにいかないでしょう。ましてや、仇討ちとは』

『……』

『行くつもりですか?』

 しかし、ユウにはわからなかった。考えることさえできなかった。

 モチはこの状態を激昂と捉えたようだったが、ばくばくと脈打つ胸の中にはいま、身のすくむ恐怖以外なかったのである。

 たとえば、口ぎたない罵り声、断末魔の叫び。

 ひづめの下で、ぐっしょりと揉まれた神官衣。折り重なった姉兄の、あまりに白い四本の足。

 閃光のようにすり抜けていった以前とは違う。思い出された死の像は目を開けても消えず、血のぬめりはいつまでも肌に残り、ゆったりとユウにまとわりついて離れないのであった。

 もしここに鏡があったならば、きっと凍湖に落ちたような、顔面蒼白、手足をがたがたと震わせた男が映ったことだろう。

『俺は……』

 と、そのときモチが、ほっとして言った。

『ああ、ララです。とにかく一度、戻りましょう』

 ララ……。

 いま見るその姿の、なんとまぶしいことか。

 マンムートの屋上で、横なぐりの強風に耐えながら両手を振っているその笑顔。

 今日の太陽よりもさんさんと、自分を暖めてくれる笑顔。

 現実逃避でもいい。早く戻りたい。

 ユウは悪心を飲みこんだ。

 それは玉のような形で、喉の奥に残った。

『戻りましょう』

『……ああ』

 震えのおさまらない身体を、ただ運ばれていきながら、ユウは自分がうらめしくなった。

 いまこそ声を上げなければならないというのに、なんだ、このざまは。

 

「ユウ!」

 ととと、と、風圧にあと押しされてきたララを、ユウは胸で抱き止めた。

 囚人服からの着替えをすませたその身体からは、石けんの香りがする。

 ふと思ったのは、血のにおいが移るかもしれない、そのことだった。

「ユウ?」

 ぐいと押しのけられたので、ララは不思議な顔をしたが、

「ごめん」

 素直に手すりへと体重を移した。

 その姿がまたいじらしく、ユウは深くため息をもらした。

「ユウ、怪我してる。首の、うしろのとこ」

「……ああ」

「痛い?」

「別に」

「あの、ハサンがね、シャワーを浴びて、待機してろって」

「シャワー? わかった」

「……大丈夫?」

「ああ」

 ユウは、巨大な手のひらの中で風に飛ばされまいとしていたモチを胸に抱き、N・Sを指輪に収めた。

 そしてもとより機嫌が悪かったわけではない。ララの肩を抱くようにして、ハッチへと向かった。

 マンムート艦内は大騒ぎである。

 くわしい事情を知らないために、皆が皆、リーダーたちの奮闘によって脱出できたのだと思っている。ユウの姿を見ると誰もが感謝し、神に祈る仕草をした。

 神か……。

 神とは、いったいなんだろうか。

 ユウは他に利用者のいないシャワー室で、頭のてっぺんから冷水をあびながら、ふと、そんな馬鹿げたことを思った。

 神は神だ。すぐそこにおわす。

 それこそ、誰の近くにも……。

 ユウは石けんを泡立てて、目の前の白い壁にみっつ、泡の塊を盛り上げた。泡は肌から跳ねた水を受けて、するすると流れ落ちていく。

 まず右の塊が形の崩れた中央に合流し、左の泡に合わさった。

 床までもう少しというところで動きを止めてしまったが、水をひとすくいかけてやると、それらは散りながら、排水口へと落ちていった。

 ……俺は、やっぱり馬鹿だ。相談するかどうかさえ、神に決めさせようとして。

 ユウは蛇口をひねり、身体に血がついていないことを確認してブースを出た。

 そういえば、なぜ誰もシャワー室にいないのか、と、このときようやく疑問に思ったが、それもそのはず、のちに聞いたところによると、軟禁中もこの場所は自由に使うことができたのだそうだ。


 マンムート二号車、仮ブリッジにおける会議は、N・Sカラスが帰ってきたという報告が入ってきてからはじまった。

 出席者は、アレサンドロにハサン。

 クジャク、ジョーブレイカー。

 ジャッカルにヤマカガシ。

 まず話し合われたのは、もちろん、生きていたオオカミと、カラスについてであった。

「オオカミはいい」

 クジャクが吐き捨てるように言った。

「カラスが生きていたとはどういうことだ。あの男と、はじめから……?」

 しかしそれは、誰もが思った。否だと。

 オオカミは黒だが、カラスは白だ。

「……根拠はない」

「そうだな、クジャク君。これはただの心証だ。ただ……」

「希望はある。これだ」

 ハサンの言葉を引き取ったアレサンドロの指に、なにか、赤く光るものがつままれているのをクジャクは見た。

「それは?」

「さっきまで俺の首に刺さってたもんだ」

 クジャクは、はっと息を呑んだ。

 あのときの、狂人の姿を思い出したのだ。

 それが原因であったのかと問われると、アレサンドロはうなずいて、ジャッカルへと視線を送った。

「それは、人格を変える装置だ」

 ジャッカルは土色に焼けた自身の顔を、つらそうにひとなでして言った。

「いまは少し、手を加えられているようだが、間違いない」

「まさか……」

「そう、私の作だ。何百年前のことだったか、それは、忘れてしまったが……」

 この男の作り上げた装置とは、一方の端がビーズのように丸くふくらんだ紅針で、長さはおよそ三センチ。盆の窪に刺せば封入されたプログラムによって、性格・人格が変更される。

 病は気からと言うが、楽観的な人間と悲観的な人間とでは、傷病の癒える速度、予後の状態がまったく違う。では、その魂のベクトルをあやつるすべがあったとしたら、より多くの人間の命を救うことができるのではないか。

 医者としての真摯な想いから、それは生まれたのだ。

「だが私の作ったものは、書きかえると言っても、あくまで、その患者自身の精神をベースにしていた。それがこれは……」

 まるで人間の入れかえだ。

 恐ろしい、と、ジャッカルは肩をかき抱くようにして身震いした。

 あのときハサンが言い当てた、『ひき肉職人・ジーモ』。

 これは、とある中部治領都市を震撼させた実在の殺人鬼で、頭にズタ袋をかぶり、女のみを狙って解体することで知られていた。

「しかし、なぜオオカミがこれを。私はこれに関する研究を、すべて廃棄したはずだが……」

 とにかく、と、アレサンドロは、針を試験管の中へ落として栓をした。

「これで、カラスのことは説明できる。いや、カラスだけじゃねえ。人が変わったっていう皇帝のこともだ」

「そこで私は、ひとつの仮説を立てた」

「ハサン」

 皆の目が、ソファへゆったりと腰かけたままの紋章官へと向いた。

 ハサンはいま、ステッキをもてあそびながら、喉をさらして天井を見上げていた。

 仮説とはこうだ。

「今回の一件はそもそも、ジャッカルを誘い出すために仕組まれたのではないか」

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