第209話 ふたりの秘密

 アレサンドロに後悔はなかった。

 いまならもっと上手くやれたという小さな心残りはいくつもあったが、すべての結果には満足をしていた。

 ハサンのおかげだ。

 ユウや、他の皆のおかげだ。

 いくら感謝してもしきれない。ひとりでは歩き出すことさえできなかった。

 そこで、ふと思った。

 ではどうだ、ここで死んでも構わないか、と。

 ……冗談じゃねえ。

 であった。

 まだそのときではない。全員をジーナスへ連れていくまでは死ねない。

 アレサンドロは、同じ檻に入ったハサンにも、ジョーブレイカーにもそれは伝えた。

 逃げるための策を考えようと、ハサンは言ってくれた。

 ただひとり、裁きの場へ向かういまこのときにもアレサンドロが心おだやかでいられたのは、ひとえにこの言葉があったからであった。

 ……着いたか。

 前後左右を固められ、随分と長い間、暖かい廊下を歩かされたが、ようやく、うしろを来る騎士から静止を命じられた。目隠しの向こうで重々しく、片開きの扉が開いていく。

「進め」

 十数歩行って、その場にひざまずけということになった。

 そのとおりにすると、目隠しがはずされた。

 ここは……?

 アレサンドロの目には、ひかえの間のように映った。

 正面には、王笏と宝珠を手にこちらを見くだす、先帝の全身肖像画。

 壁を見れば獅子狩りのタペストリー。

 天使舞う天井画。大きく太陽の描かれた、モザイク床。

 とても罪人を呼ぶのにふさわしい場所とは思えない。懐柔するつもりだろうか。

 ……ぞくり、と。

 そのとき、アレサンドロの背に悪寒が走った。

 会いたくないもの、会ってはならないものに会ってしまうような気がした、とでも言おうか。胃が縮こまり、吐き気がした。

 この部屋のせいだ。アレサンドロは思おうとした。

 この手の部屋は、自分の生まれた、あの家を思い起こさせる。

 あのころは、家そのものが恐かった。いつも誰かの視線を感じ、かといって振り向いても誰も見ていない。人は多くいるのに孤独な家。

 それを埋める母は亡く、『あの人』は包み、癒してくれるどころか、負の感情を深める存在でしかなかった。

 アレサンドロは目をふせて、ああ、と、くやんだ。目を開けていれば現実だけを見ていられたのに、ふさいでしまったがために、かえって過去のほうが鮮明になってしまった。

 この靴音は現実か? 幻か?

 背後の扉が開いた。

 アレサンドロの全身から、汗がどっとふき出した。

 騎士たちが出て行く。

 アレサンドロは振り向くことができない。

 扉が閉まり、靴音の人物とふたりきりになった。

 にらまれている……。

「……父……さ……」

「アレサンドロ……バッジョ君」

「!」

 違った。

 それはおそれていた相手の声ではなかった。

 だがある意味、最も聞いてはならない声だった。

 振り返り見て、息が止まる。

 相手はゆっくりと、十二分に間を空けて、アレサンドロの正面へとまわってきた。

「なん、で……」

「私が、セロ・クラウディウスだからだとも」

「オオ、カミ……セロ、クラウディウス」

 奇妙な気持ちだった。死んだはずの男が目の前にいる。それなのにつかみかかって、なぜ生きている、なぜここにいると詰め寄る気さえ起きない。

 長いまつ毛に飾られた青灰色の目が、あまりに優しく、あまりに真摯であるせいだ。

 他者の心をとろけさせる魅力がある。それとわかっていてもあらがえない、麻薬のような魅力が。

 清廉を絵に描いたようなラベンダー色の貴族服が揺れ、そのスカーフよりもなお白い顔肌が目線まで下がってきた。あのころと変わらぬ知性的な美貌が、鼻先十センチの距離だ。

 それを朦朧と見つめているうちに、アレサンドロの耳の奥で、自分でもよくわからないなにかが、パチッと弾けた。

 いや、弾けたと言うよりも、つながった。

「……オオカミ」

 魔人オオカミは微笑した。

 と……。

「失礼いたします」

 部屋に押し入ってきた者がいる。

 アレサンドロも知っている男だ。ギュンターの紋章官、銀縁眼鏡のヴィットリオ・サリエリである。

 それに続いて現れたのは、鉄仮面、クラウディウスの紋章官、ハインツ・シックザール。

 オオカミ、セロ・クラウディウスは片ひざついたままふたりを見やったが、なぜここへ来たとも、なぜこの闖入を許したかとも問わなかった。変化と言えば、その笑みをさらに深めたくらいであった。

「クラウディウス閣下」

 落ち着いた風のサリエリは進み出て、赤蝋によって封のほどこされた巻き紙を差し出した。

 クラウディウスはここでようやく立ち上がり、それを受け取った。

「減刑の嘆願書か、来ると思っていた。フーン神殿を抱きこむことはできたかね」

 処罰を受ける側であるアレサンドロを前にして、このような会話を隠そうともしない。クラウディウスは相手を選ばず絶対的有利を確信している。

 しかし、なぜだ……。

 ……なぜ?

 アレサンドロははたと、神に与えられたこの猶予を一秒たりとも無駄にしてはならないのだということに気がついた。

 そうだ、いまのうちに整理しておかなければならない。

 いままでの、すべての情報を。

 クラウディウスという将軍。

 対立する他の将軍連中。

 エディンという狂信者。

 蛇。

 クジャクのトラマル砦。

 オオカミの砦。

 殺し合った二体のN・S。

 オオカミという男。

 カラスという女。

 ……誰も信用するな。

 いざとなれば、自分の魂でさえ平気で嘘をつく……。

「助けたいのは妹」

 ふと、そんな言葉が耳に入った。クラウディウスの声だ。

 サリエリが驚愕に目を見張っていた。

「なぜそれを、という顔だな、サリエリ。いや……ロバート・アービング」

「……なんのことだか」

「フフ」

「とにかく、お渡しいたしました」

「待ちたまえ。君こそよく考えることだ。命を救うためには、命が必要だ」

「死ねと」

「地位的にな」

「私が退いて、なにがどう変わるとおっしゃるのです」

「ここに名を連ねているだろう、ふたりの大祭主ならば話は別だ」

「それがどなたのことを指しておられるのか存じませんが……」

 サリエリは会話を打ち切るように一歩後退し、

「まずは陛下へ、それをお取り次ぎください」

「……なるほど」

 クラウディウスにも理解できたようだ。おそらく嘆願書に大祭主の名はない。

 たとえあったにしても大祭主遷座の指示を皇帝が出せるわけではないのだが、つまらない弱味は握らせないということだろう。

「行きたまえ。確かに受け取った」

「……は」

 と、ついに最後まで、サリエリはアレサンドロの顔を見ることなく、行ってしまったのだった。


「ギュンター様……!」

 はっと。

 そのサリエリの足が止まった。

 廊下には柔らかな光が落ちている。それを足もとにながめつつ、壁に背を預けて待ち構えていたのは、その人。

「……お聞きに?」

「おう」

 壁にポンと尻を当てて、その場を離れたギュンターは、サリエリの動揺を知ってか知らずか、実に悠々と歩きはじめた。

 お待ちくださいとサリエリは追った。

「執務室でお待ちくださると……」

「『妹』ってな、なんだ」

 サリエリは息を呑んだ。

「ロバート・アービング? テメェはサリエリじゃねぇのか」

「サリエリに違いありません」

「じゃあ、あいつの勘違いか」

 いまギュンターの声に表れているのは、おまえを信じるという温かみではない。嘘をつくなという冷酷な断定だ。言い逃れの不可能を悟るには十分な声音である。

「私は……」

「アービング」

「……おっしゃるとおりです」

「親父が変えさせたか」

「いえ、ポリドーロ卿が、つけてくださいました。西部の名は聞こえが悪いと」

「うちに来る前、いたところだな」

「は……」

「つけてくださいました、か」

 そこからの沈黙は、互いに口を開きかねるという形で続いた。

 ギュンターからすると、先ほどと同じ問いをくり返せばいい。サリエリは先に言ってしまえばいい。

 だが沈黙は続いた。

 目的地の執務室が近づいていた。

「ララ・シュトラウスです。ギュンター様」

 主人の口からあふれたため息は、安堵か、落胆か。

 少なくともサリエリには前者のように聞こえた。

 ここまで来てもなお、話をはぐらかされてしまうのではないか。それを、ギュンターはおそれていたに違いない。

「んなこた……けぶりも見せなかったな。どういうこった」

「あの子は知らぬことです。私の顔などはじめて見るも同然だったでしょう」

「ああ?」

「私はあの子を、捨てたのです。先の、戦のあと」

 ふたりは執務室前を通りすぎた。

 閉めきった室内での密談はかえって危険。ひらけた場所ならば、たとえ盗み聞きしようという者がいたとしてもすぐに発見できる。

「もっとも……あの当時、戦が終わったなどと浮かれ騒いでいたのは、裕福な方々のみでございましたが」

 サリエリの告白は、そのような皮肉からはじまった。

「あのころ、私は十かそこら、あの子はまだ、立つこともできない赤ん坊でした。奴隷の襲撃によって町を焼け出された私たちのそばには、親も、知り合いもおらず、やむなく私は、あの子だけを太陽神殿に預けたのです」

 神殿が孤児院の役割もになっているということは、もちろんギュンターも承知している。

「おまえもやっかいにならなかったのか、と、お考えでしょうが、空きがなかったのです。同じような境遇の子は掃いて捨てるほどおりました。私はせめて、あの子が肩身のせまい思いをすることのないようにと、日銭を稼いで職を転々としております間も、ポリドーロ卿のお目にとまり、お屋敷でご奉公させていただくようになりましてからも、金を送り続けました」

「そこまですりゃ十分じゃねェか」

「しかし私はそれをいいことに、一度もあの子に会いに行かなかったのです。それがすべての間違いでした」

 ぐ、と眉を寄せたサリエリは押しこむように眼鏡の鼻当てを上げ、しばらくその体勢のまま動かなかった。

「……結局、会いに行きましたのは、ヴァイゲルのお屋敷へ引き抜かれますことが決まってからでした」

 別れてから、およそ五年の年月がたっていた。

「で……?」

「……」

「チェッ」

「いなかったのです」

「あ?」

「売られておりました」

「……あ」

 ギュンターの心当たり。それは神殿による、戦災孤児の売買である。

 売られる先は様々で、ただひとつ共通点があるとすれば、それは二度ともとの場所へは戻ってこられないということだったが、ララの場合、買い手は南部の、とある人買いだということがわかった。

 しかし、わかっただけで、兄サリエリにはどうすることもできなかった。

「なにしろその時点で、すでに時がたちすぎておりました。もはや転売されてしまっただろう娘の行方など、つかめるはずもなく」

「それで……」

「捨てたと……そういうことです」

「ふゥん」

 そう言うわりに、紋章官となって以降のサリエリがもっとも熱心に取り組んで来たのが、その『人身売買問題』であったことをギュンターは知っている。

 数十人もの人買いに鞭を当て、釘を打ち、ときに問題になるほどの残酷さで情報を集めていたのは、なるほどこういうことだったのか。

「それがまさか、シュトラウスと名を変えて戻ってくるとは」

「証拠は」

「もとの姓がアービングであることはすぐにわかりました。そしてあの赤毛。飴を好んでいることはご存じでしょうが、私は金にそえて必ず送ってやりました。あの人形も……」

「人形?」

「このくらいの大きさをした、女の子の人形です。昔の持ち物はすべて、引き取り親のシュトラウス卿が取り上げたというので見てまいりましたが、それも私が買い与えたものに違いありませんでした」

「なるほどな……」

 面倒くせェことになったもんだ。ギュンターは思った。

 なんとはなしに、うれしさのようなものを感じながら。

「で、どうすんだ?」 

「……さあ」

「さあじゃねぇだろ」

「では、どうせよとおっしゃるのです」

「やつ当たりしてんじゃねぇよ。それを考えんのがテメェの仕事だろうが」

 言われてサリエリは、む、と、口をつぐんだ。

「へっ」

 なんて顔をしやがる。らしくもねぇ。

「まぁ、好きにやれよ」

「好きに?」

「おう。どうせ他の連中もそうしてんだろ。俺の頭じゃあ、なぁんにも思いつかねぇしな」

 ギュンターは胸を張って笑い飛ばした。

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