第162話 時すでに遅し

「……やったか」

「わかりません。反応だけは、かすかに」

「それを生きとると言わんでなんだ」

「いえ、光炉が生きていれば、手足を失っても反応は出ます」

「……チッ」

 こうしたとき、必要ないとわかっていながらも声をひそめてしまうのは、いったいどういうわけだろう。

 二機の沈んだ平らかな川面を、固唾を呑んで見守るオルカーン・ブリッジ。

 鼻をこすったグレゴリオは、乾いた口もとにドリンクボトルを運び、

「アンカー、引け」

 と、わずかにむせた。

『気張ったな、とっつぁん』

 メインモニターに飛びこんできた画像は、スピードスター・ホークの通信であった。

「大将」

『おっと、説教なら勘弁してくれ。手を出せなかったわけでも、出したくなかったわけでもないんだ』

「なら、いままでなにを」

『俺がどこにいるかわかるか?』

「はあ?」

「紋章官殿、甲板です」

 神速のベネトナシュは、ユウと対決をした甲板上に立っている。

『追いこまれたララ坊たちが、ブリッジを狙うこともあるかと思ってな』

「それで待機を?」

『そう待ちぶせだ。しかし、こうも見事に当てがはずれちゃあかなわんな』

「なにを白々しい」

『ハ、ハ』

 ホークはいかにも将軍らしい大様さで笑い、凝り固まった場の空気をなごませた。

 と……。

『おっと』

 アンカーを巻き取る、カン、カン、という単調なリズムが、このとき止まった。

 どうやらアンカーが、根がかりを起こしたらしい。

 ぐらりと揺れた甲板からは、グローリエ左舷前部のそれもまた同じような状況で足踏みしていることが望まれる。

『とっつぁん、駄目なようなら切り離せ』

「いや、しかし……!」

 このアンカーの先には、いずれかの敵機がかかっているかもしれない。

『おいおい、おまえさんたちふたりとも、我慢比べなんて歳でもないだろう?』

「う、む……」

『ボンメル。聞こえてるなら、おまえさんも頑固は捨てることだ。引き分け、それでいいときもあるさ』

 だがボンメルは応えず、グローリエのキャプスタン(アンカーを巻き上げる装置)に、白い摩擦煙を立ちのぼらせた。

 するとまたグレゴリオも意固地になり、ホークを苦笑させた。

『とっつぁん、ボンメル……』

 命令だ。

 言いかけたホークの声をさえぎったのは、オルカーンの青年クルーの声だった。

『アンカー、動き出しました!』

 しかしホークがよく見ると、どちらのそれものろのろとした、まるで牛の歩みのようなもので、川底のヘドロをすべてその身に背負ったかのような動きである。

 こいつはいったいどう差配したものかとホークがひとまず口を閉ざすと、その沈黙が戦闘開始の合図だとでも思ったか、オルカーンとグローリエの早引き競争がはじまった。

『L・Jも引け!』

『先を越されるな!』

 ……やれやれ。

 スピードスター・ホークという男は、たとえ部下が一級軍議級の罪を犯そうと、笑って肩を叩いてやる度量を持っている。

 無論それは甘やかしや媚びではなく、責めたところで仕方がない、自分の精一杯やった結果がそれならいいじゃないかという、ある種の独立主義によるものだ。それによって、自分自身に火の粉が降りかかることになろうとも、それはそれでまた仕方がない。

 そのホークが、いまこのときばかりは盛大にため息をはいた。

 頭の中は、

「ラッツィンガー将軍ならどうするだろうな」

 と、そんなことでいっぱいであった。

『……うん?』

 そのときホークは、奇妙な音を耳にした。

 革のたゆんだ戦太鼓を叩いた音、とでも言おうか。

 昔、内陸の温泉郷で聞いた、粘質の灰色がかった泥がガスでふくらみ、弾ける音にも似ている。

 オルカーンの船べりから音のした下方をのぞきこみ、

『なんだ?』

 ホークはやはり奇妙で、不気味な想いにとらわれた。

 川面が……冬という季節をそのまま溶けこませたかのような聖ドルフの緑青の川面が、沸騰したかのごとく泡立っていたのである。

『おいおい……まずいぞ、とっつぁん』

『うるさい、ここまで来たからには勝たずにおけるか!』

『そうじゃない。こいつぁ……まずい!』

 もしもここで、グレゴリオが冷静さを取り戻し、ホークの言葉に危機感を感じ取っていたならば、事の成り行きはもう少し違っていたかもしれない。

 しかし、もうそれは遅かった。

 聖ドルフの川面は、一際大きな泡をボコリと立てたかと思うと、鏡のように凪いだ。

 そして、次の瞬間。

『とっつぁん、退け!』

『な、な、な! なんじゃあ?』

 グレゴリオが見たのは、大きくかしいだオルカーンのへさきを、猛然かすめるように噴き上がった、スクリーンのごとき水の壁だった。

 いや違う。

 壁のように思われたのは水ではなく、巨大な、魚のようなものの腹だった。

『がはははは!』

 と、天を走った楽しげな笑い声が太陽を覆い隠し、大粒の水滴を振り落とす。

 それは、N・Sマンタ。

 ヒレ先からヒレ先までが四、五百メートルはあろうかという、海にいるエイそのものの姿をした、マンタのN・Sであった。


 ここで少々話は変わるが……。

 のちに、なぜマンタのN・Sが人型ではなく、転生以前の姿をとどめているのか。この点が話題にのぼったことがある。

 マンタは、

「がははは、便利だからだ!」

 と、またしてものんきな答えでクジャクをいらだたせたが、それはこうした理由からだ。

 つまり、魚であれ貝であれ、水棲生物の能力というものは人型では満足な性能を得られない。魚類はすべてのヒレがそろってこそあの泳ぎができるのであり、軟体類や甲殻類は、すべての足や吸盤があってこそあの動きができる。少なくとも水棲の魔人たちの中には、そう考える者が多かったのだ。

 そこでそうした魔人たちは、自身のN・Sを、かつて水中で生活していたころの姿で作成した。

 そして、これは陸棲生物たちに対する見得のようなものだったのか、N・Sのサイズを、規格外に大きくした。

 それは以前ユウたちが遭遇した、あの試作一三〇〇式L・Jを思い返してみてもわかることだろう。

 もしかすると、こうした水棲魔人たちの指向のかげには、海から陸という、ある意味人間のたどってきた進化の過程を一瞬で経験してしまったことによる、強い戸惑いのようなものがあったのかもしれない。

 もちろんマンタもそうであるかは、難しいところだが……。

『わ、見て見て、みんな逃げてく!』

『そりゃそうだ。こんなのが出てくりゃあ、俺だってな!』

『がははは、ようし、もう一度行くぞ!』

 N・Sマンタは雄々しくヒレを上下させ、オオカミとコウモリ、カラス、サンセットⅡを背に乗せたまま、優雅に天空の海をターンした。

 そして身体を垂直に立て、いまだ仲よく並んでいるオルカーンとグローリエの間にくさびを打つがごとく、その巨体を突入させた。


 これに驚いたのは、言うまでもなく二隻の飛行戦艦である。

 というよりも、すでに混乱の極みにあったものが、ここにきてどうにもならないほどになってしまったと言ったほうが正しい。

 ただまだ救いようがあったのは、その混乱が軍全体を覆うものではなく、あくまで個人の脳を錯乱させる程度のものであったことだ。

 騎士たちは思い思いの方向へ走りまわり、艦内いたるところで転倒事故が起こったが、その根底にあるのは皆等しく、この艦のために自分のできることをしようという想いだった。

『回避!』

『全員シートにつけ!』

『来ます!』

『わ、わぁぁ!』

 オルカーンは左へ、グローリエは右へ。どちらの艦もマンタとの衝突だけは避けることができたが、いかんせん、それぞれの翼が、それぞれ対岸の山へ打ち当たった。

 直後の衝撃はすさまじく、立ち働いていた両艦の騎士たちはことごとくその場に転げ、中にはこのために、両腕の骨を折った者までいたほどだ。

 オルカーンの左翼からは黒煙が立ちのぼり、グローリエにいたっては、内部からも、わずかながら出火した。

 しかしこれは、大事に至るほどの被害はもたらさなかった。

『とっつぁん、下だ。オルカーンを着水させろ!』

『は……!』

『グローリエと距離をおく。やっこさんとの接触にだけ注意しろ』

『り、了解!』

『なあに、この程度で落ちるほど戦艦はヤワじゃない。訓練じゃあ、もっとひどいパターンだってあった。そうだろう?』

 戦艦であろうと安全ではないのだという、全身の毛がざわめき立つほどの恐怖心に打ちのめされかけていた騎士たちは、この巌のごとき頼もしい将軍の声を聞き、いっせいに奮い立った。

 体勢を立てなおしたオルカーンは、それから数分とかからずに聖ドルフへ着水し、グローリエはわずかに後進の形を見せた。

 言ってみれば二隻は、階段の上段と下段に置かれているような格好となったわけであった。

 ただ……。

 実のところホークにしても、それほど冷静であるわけではなかった。

 オルカーン甲板にいたベネトナシュは、一度こそマンタの鼻先に立ちふさがったものの部下によって引き戻され、なすすべもなくその通過を見送るという苦汁を味わっていたのである。

 とはいえ、それはそうだろう。

 ホークとて無論、部下たちを責めるつもりはない。

 たとえ音速を超える飛行形態で突貫を試みようと、戦艦並みに巨大なエイ相手では、その厚い肉壁にはばまれ失敗するのが落ちだ。相手が悪すぎる。

 だが、ホークはそれを理解していながらも、なお、おのれの無力をうらまずにはおれなかった。

 グレゴリオとボンメルの確執を知らぬでもなし、こうなる前になにか手を打てたのではないか。それを思うと、まず指揮官として失格だったと、ほぞを噛む思いだった。

『ボンメル。おまえさん、最後まで俺たちに付き合うか』

『……は』

『だったら、これからはそのように動いてくれ』

『了解いたしました』

『大将! 敵艦転回。やつら、撤退するぞ!』

『なに?』

『速度、五十五ノットで東進中! ……やられた!」

 このときホークの頭によぎったのは、たったひとこと。

 ……なんてこった。

 それ以外にない。

 ここでの戦法を考えるに、先ほどおこなわれた敵艦、つまりマンタの突進は、こちらの混乱を招き、指揮系統を狂わせることを目的としたものであるはずであった。

 だからこそ、こちらも次に訪れるだろう本命の攻撃にそなえ、このような布陣を敷いたのだ。

 それが、逃げた。

 しかもオルカーンは、水に腰を下ろしてしまった。

 ここから水面を脱し、高度を上げ、進路を北へ向けるだけでも、まったくどれほど時間のかかる作業か。それこそ戦艦は、自由自在のN・Sではないのである。

 こちらが一歩も二歩も出遅れたのは、明らかだった。

『閣下。我々が』

『……いや』

 ホークはこみ上げてくる苦笑いも隠さず、ボンメルに対し、首を横に振って見せた。

 そしてこのとき、腹の底に、しんしんと冷たい予感が積もりはじめたのを感じていた。

『ハ、ハ』

『閣下?』

『いや、ボンメル。おまえさんがたがどうにかできる相手じゃあない。とりあえずL・Jを回収してくれ』

『は……了解いたしました』

『とっつぁん、とにかく追う格好だけでも見せなきゃならんだろう。悪いがまた、オルカーンを空へ上げてくれ。俺もそっちへ戻る』

『はあ、追う……格好?』

『ああ。準備ができ次第、戦闘巡航で当初の目的地へ向かう』

『……ははあ。なるほど』

『どうせ、行き先はわかってる。頭じゃあ負けたが、今度はどっちの足が速いか勝負といこうじゃないか。なあ?』

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