第52話 帝都の影
帝都クリスベン。
その、帝城敷地内の片隅に、人目を避けるように建てられた、とある研究棟がある。
うっそうとした木々にかこまれたそこは、日中でも薄暗く、うらさびしく。巡回の騎士以外は、誰も近づこうとはしない。
いま、雑草の生えるにまかせた申し訳程度の道を、草木一本折ることなく抜けてきたその人物は、ふと足を止め、鉄仮面に隠した顔を上げた。
びっしりとツタの張りついた石積みの建物から伸びる、三本の煙突。
その一本から、桃色の煙が流れ出している。
「フン」
鉄仮面はマントを払い、建物へと向かった。
「や……」
アルカリ系の、なんともいえぬ悪臭の中、わき立つ釜の前で作業をしていたのは、老博士だ。
博士は、突然の来訪者の気配に腰を浮かせ、表の様子と同様、荒れ放題となっている白い髪の間から、血走った目で鉄仮面をねめまわすと、
「おお……あなた様でしたか」
これも長くからまり合ったひげをなでつけ、ヒヒ、と笑った。
博士の名は、スダレフ。
いわゆるマッドサイエンティストである。
先帝存命中は、五感を高めるあやしげな興奮剤や、爆発的な効果を持つ筋肉増強剤、ときには毒ガス兵器などを作っては喜ばれていたが、いまとなっては軍部の鼻つまみ者で、さげすまれながら、こうして帝城内で飼い殺されているのである。
「ラッツィンガーの息子は、いかがでしたかな」
スダレフは、薬剤で変色した指を前掛けでこすり、鉄仮面へ椅子をすすめた。
「所詮、当て馬よ」
「ほほぅ、やはり駄目でしたか」
「そうでなくては楽しめん」
「いかにも、いかにも」
「たわむれに蛇を差し向けてみたが、これも、しくじってな」
よほど気を許しているのか、今日の鉄仮面は、ジラルドの前に現れたときとは別人のようによくしゃべる。
「ヒヒ、それはますます面白い」
スダレフは手を打って喜んだ。
そこへ。
ひとりのメイドが、盆に茶を乗せ、現れた。
顔立ちは愛らしいが表情がなく、年齢を計りがたい娘だ。
「どうぞ」
ティーカップを置くその手を鉄仮面がつかみ、
「スダレフ」
「はあ」
「次は、これを使ってみようと思うが……」
「へ?」
「どういうものか知っておきたい。どうせ、壊れても構わんのだろう?」
「へへえ、まあ」
スダレフは、にたりと笑った。
「それもそうでございますな」
濃紺の、飾り気のないワンピースにエプロンを羽織った娘は、握られた手を振りほどこうともせずに、機械的な視線を鉄仮面へそそいでいる。
「名は、なんといったか」
口を開きかけたスダレフを制し、鉄仮面は、娘を見た。
「シュナイデ」
「殺しの経験は?」
「ありません」
突如、鉄仮面が腰の剣を引き抜き、シュナイデの首すじを、浅く切り裂いた。
傷口からは、血のひとしずくも流れない。
シュナイデは別段取り乱すこともなく、ただ、おかしなことをする人だ、とでも言うように首をかしげた。
「なるほど、よくできている」
「ヒヒ、おそれいります。ではさっそく、調整をば……」
「まかせる。私はこれから……少々忙しい」
「はいはい」
スダレフは、うれしげに手を揉んだ。
「終わり次第、ご連絡いたします、閣下」
そのころ。
同じ帝城内では、とある騒ぎが持ち上がっていた。
「大祭主がさらわれたぁ?」
「しっ! 声が大きい」
屋内闘技場に声が響き、ギュンターは同じ帝国七将軍のひとりである、カール・クローゼ・ハイゼンベルグに口をふさがれた。
端正なマスクと柔和な物腰。多くの女性から絶大な支持を得る、今年二十歳になる若将軍である。
つまり、ギュンターよりもひとつ年上、ということになる。
「放せ、気色悪ぃ。こっちは汗かいてんだ」
先ほどまで、サリエリ相手に剣の修練にはげんでいたギュンターは、クローゼを突き放し、タオルで口をぬぐった。
「だいたい、テメェが人払いしたんだろうが」
「それはそうだが……、用心するに越したことはない」
「あぁ? なにが用心だ」
「ギュンター様」
そこでサリエリが、口をはさんだ。
ギュンターが、もろ肌を脱いで大汗をかいているのに対して、こちらは実に平然としている。
十年ほど前にヴァイゲル家へ小姓として上がったサリエリだが、それからいままで、ギュンターは勝てたためしがないのだ。
ちなみに、サリエリはこう見えて、まだ二十六歳である。
それはさておき、
「クローゼ様のおっしゃるとおりです」
サリエリは言った。
「事は、大祭主様です。表沙汰になれば、混乱は避けられません」
「さすが、サリエリ。そうなのだ。帝都の混乱は国家を乱し、余計な争いを招くもとになる。だからこそ……」
「細心の注意を払え、かよ。チェッ! 面倒くせぇ」
「真面目に聞け、ギュンター」
ギュンターとクローゼは、わきに置かれた籐製のひじかけ椅子に、それぞれ座った。
すかさず、同じ籐製のテーブルに、クリスタルグラスに満たされたアイスティーがふたり分、供される。
クローゼは、
「ありがとう」
と、なにげなくサリエリに微笑みかけ、それを口に運んだ。
ひと息に干されたギュンターのグラスを、サリエリは再び、アイスティーで満たした。
「で? 俺になにしろってんだ」
「いや、なにをしろということはない」
「あぁ?」
「ラッツィンガー将軍が、まだウィンザーより戻られていないだろう? ご子息を亡くされ、さぞ、お心を痛めておいでだろうが、鉄機兵団を動かすのはご指示を仰いでからがよかろうと、ケンベル将軍もおっしゃっておられてな」
オットー・ケンベルは聖鉄機兵団、最年長の将軍である。
足腰も弱りきり、前線に立つことはもうないだろう、と、言われている。
「元老院と、皇帝陛下のお耳へ入れるのも、そのあとのことだ。いまはそのつもりで待機していてくれ」
「ハン、悠長なこった」
「仕方ないだろう。誰の仕業か、なにが目的か、まったくわかっていないのだから」
「へいへい」
「だから真面目に聞け」
暇つぶしぐらいにはなるか。ギュンターは思った。
ユウたちがハサン追跡に走ったおかげで、ギュンター軍諜報部隊はペルン以降のその足取りを、完全に見失ってしまっていたのだ。
こうして帝都でくすぶっているのも、ララの居場所がわかるまで、他にするべきことがなかったからなのである。
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