第23話 モチの哲学
その夜もユウはひとり、ヤマカガシの穴ぐらから少し離れた川べりで、太刀を振り続けていた。
何百、何千と。全身汗みずくになって、なお。
もっと速く。
もっと強く。
刀に、振られるな。
一朝一夕で達人になれるとは、もちろん、ユウも思ってはいない。が、やはりそうした思いはつきまとう。
先の戦いも、結局は運がよかっただけなのだ。
荒い息をはきながら、ユウは渇ききった喉をごくりと鳴らし、うっとうしく張りついた前髪を指で散らした。
見上げると、満天の星空。
茂みから走り出た一匹の野ネズミが、ユウの姿に一瞬、身をすくませた。
と、そこへ。
「!」
間髪入れず灰色の塊が、まるで一条の矢のように地へ突き立った。
風が巻き、野ネズミの小さな叫び声がユウの耳に入る。
「……落ちたものです」
と、うめいたのは、モチである。
狩ろうとした野ネズミは爪から逃れ、走り去ってしまったようだ。
「フム……」
モチはゴロゴロと喉を鳴らし、倒木に乗った。
「失礼しました」
「いや、いいんだ。残念だったな」
「なに、また見つければいいだけのことです」
ユウは太刀を剣帯の鞘におさめ、ヤマカガシに借りた光石ランプの覆いを取り去った。
使われているのは、純度の低い光石である。暖色の柔らかい光が、せいぜい周囲一、二メートルを照らし出す、程度の力しかない。
しかし、そのかすかな光さえ邪魔に感じられるほど、近ごろのユウは暗闇での鍛錬を好み、また意義を感じていた。
無論、本当の意味での暗闇ではない。
目が慣れると、自分の姿や太刀の反り、周囲の木々くらいはおぼろに見える。
その中で刃を振ると、大気を裂く刃風や、鋭く走る影に意識が集中し、徐々に自分自身の気も研ぎ澄まされていくように思えるのだ。
ユウは川の水を二口飲むと、固く絞ったタオルで汗をぬぐった。
森を吹き抜けていく風が、肌に快かった。
「人間の持つ階層的な思考形態を『理性』というならば……」
「え?」
突然の声に、ユウは心臓が止まるかと思った。
「『理性』とは、『欲』です」
モチは、ただ空の一点を見つめている。
ひとりごとのような、そうでもないような。
言葉は続く。
「もっと便利に。もっと安全に。もっと早く。もっと、もっと……。無論、それが、よい方向に働く場合もあるでしょう。しかし……」
モチは静かに目をふせた。
「我々は、ねだってはならないのです」
「……そう、だろうか」
わけがわからないながらも、ユウは思わず口に出していた。
「それじゃあ、俺たちにはなんの進歩もない」
「では進歩とは?」
「発展、していくことだ。次のステップに」
「いま与えられた力だけでも、十分な結果が残せるとしたら、どうです」
「結果がどうなるかなんて、誰にもわからない。ねだることで可能性が得られるなら、それはねだるべきだ」
遠まわしに自分の鍛錬を否定されているようで、ユウの語気はついつい荒くなった。
一方、モチは、
「過ぎた欲望は、いずれ目的を離れ、独り歩きをはじめるようになります。それを講じるために、目的を探すようになるのです。それが正しいとは私には思えません。本末転倒、まさに、本末転倒」
声を抑え、噛みしめながら言葉をつむぐ。
「それだってわからない。だいたい、いまがなければ次もないんだ。未来をおそれて、できることもしないで結果を待つなんて、俺は嫌だ」
「人事をつくして天命を待つ。それは私とて賛成です。努力の上にこそ、生は成り立っている。しかし、あるものは、ただあるように生きることにこそ意義がある、と私は思うのです」
「意義?」
「人は人であり、フクロウはフクロウであり、魔人は魔人です。それぞれに与えられた生があり、性がある。我々は……」
と、ここまで言ったところで、モチははたとなにかを思いつき言葉を呑んだ。
「……我々? ……私は……」
「?」
「私は、何者なのでしょう」
丸いモチの瞳が、うつろに泳いだ。
「人? フクロウ? 魔人? ……いいえ……」
爪が、倒木の繊維を引きはがす。
「あるものは、あるように。なったものは、なったように。ないものはねだらず、有るものはうとまず。ああ、ああ、それならば……!」
モチは声を上げ、ユウを見た。
「私が、間違っていました」
「え……?」
「私はもはや、フクロウではないのです。使える頭があるのなら、もっと使うべきでした」
そう、そうでした、と、ひとり納得し、モチの身体は大きくふくらんだ。
「いま有るものを活かすことは、ないものねだりではありません。それこそ努力、生の糧。私はただ、努力をおこたっていた」
そして、最後に姿勢をあらため、
「あなたのおかげで答えが見つかりました。実に、実にいい議論でした」
深々と、頭をたれたのだった。
逆に、納得がいかないのは、ユウである。
「いや、俺は……」
自分の鍛錬とは別のところにモチの意図はあったらしく、解決もしたらしいが、どこか置いてきぼりで、すっきりとしない。
「……なにか、悩みでもあったのか?」
と、つい、聞いた。
「さ。悩みというよりこれは……固執、とでも言いましょうか」
モチは、気恥ずかしげに身をよじった。
「先ほど、野ネズミを逃がしました」
「ああ」
「そして、ふと思ったのです。『罠でも仕掛けてみようか』と。しかし本来、フクロウは、罠などというものは使いません。楽をして食事にありつこうなど、ああ、私は欲深くなったものだ、と……自分自身に、失望したのです」
「それで、ねだってはならない、か」
そういうことならば、別に反対はしなかった。
ユウは小さく笑った。
「ですが、これからはこの知恵を活かし、私なりの新しい狩りを模索しましょう」
「なったものは、なったように、か」
「いかにも」
どこかで、別のフクロウが鳴いた。
「ときに、ユウ」
「なんだ?」
「あなたがねだるものとは、いったいなんです」
ユウは、どきりとした。
「それは……」
奇妙な罪悪感が、胸にわき起こる。
「力……いや、技術、かもしれない」
「ム……」
別にうしろ暗いことではない。
しかし、沈黙したモチの、その針のような静かな眼光に、ユウはつい顔をそむけた。
「……あなたは、いい青年です」
「え……?」
「アレサンドロもそう。私は、あなたがたが好きです」
モチの声は優しい。
「いまさらですが……N・Sなど、背負って欲しくはありませんでした」
「……モチ……」
「いえ、これは、つまらないことを……」
今度はモチが、視線をはずした。
「さて。私は、剣の道についてはくわしくありません。ですが、思うに……」
と、思案顔のモチは、川の流れを目で追いながら、
「力を求めるならば、心を強くすることです。技術を求めるならば、経験を積むことです」
ユウは目を見張る思いがした。
確かにそれは的を射ている。やはり、
「俺は……どちらも足りない」
「ですが、どちらの芽も、確かに、あなたの中にある。あせらないことです。こればかりは、努力より心がけです」
それも正しいだろう。
ユウは黙って、素直にうなずいた。
「さ。もう休んだほうがいいでしょう。私はもう少し……」
「狩りか」
「はい。少し思うところもありますので。ああ、ユウ」
「なんだ?」
「私は、これからもあなたがたと行きます。もはや野生には戻れません」
「……そうか」
「魔人にも会いたいのです。同じく野生を失った彼らが、どのように生き、なにを思うか。実に興味があります」
そう仁王立ちに堂々と語るモチの言葉に迷いはない。
と、思うと、少しばかり声を落とし、
「ここだけの話、あの臆病な蛇だけでは不満です」
これには、ユウも思わず笑ってしまった。
「では、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
モチは暗闇へと飛び立ち、ユウは光石ランプを手に、ヤマカガシの穴ぐらへと歩を向けた。
思えばモチの言ったことは、取るに足りない、当たり前のことかもしれない。
しかし、やみくもに振り続けていた剣の先に、なにかが見えた。
それだけで、ユウの足取りは軽くなった。
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