(3)
気が付くと、アインは爽やかな風が吹き渡る草原に立っていた。
青い空に白い雲。どこまでも続く緑の草原。その奥に広がる深い森と、見覚えのある一軒の屋敷。
アインはそこにただ茫然と立っていた。
風がアインのフードを下ろし、若草の匂いを運んで来た。
暖かな陽光が降り注ぐ平和極まりない景色。
ここはどこだろうと思うこともなかった。
ただ、立っていた。
その足元に、二匹の兎が現れる。
日の光によっては灰色にも銀色にも見える白い毛並みの兎と、真っ黒い毛並みの兎だった。
仔ウサギと言っていい大きさだった。
どこからともなく現れた二匹は、互いの顔に鼻先を擦り合わせてじゃれ合っていた。
微笑ましい光景だったが、アインはどこか夢心地で見下ろしていた。
二匹はいつも一緒に居た。
アインはいつも、そんな二匹を近くで見ていた。
森の中を駆けていることもあった。川辺を駆けているときもあった。寒いときや雨のとき、いつも寄り添って丸まっていた。
親はどこにいるのだろうかとアインは思わなかった。
この広い世界には、この二匹しかいないのだと漠然と分かっていたからかもしれない。
季節は廻り、黒い兎は一回り白い兎より大きくなっていた。
白い兎がいつも黒い兎を追い掛けて、黒い兎は白い兎を待っていた。
まるで見守っているようだった。
まるで甘えているようだった。
一緒に居ることが当たり前の二匹。森の中で餌を分け合い、互いの毛づくろいをし、いつも楽しそうに駆けていた。
だが、黒雲が垂れ込める。
気が付くと、一緒に居る兎が増えていた。
黒い兎と同じぐらいの大きさの、薄茶色の兎だった。
初めはその兎を警戒する二匹だったが、薄茶色の兎は懲りずに接触を試みていた。
白い兎は常に黒い兎の背中に隠れて逃げた。
黒い兎は薄茶色い兎から白い兎を守っていた。
それでも薄茶色の兎は諦めると言うことを知らないようで、盛んに白い兎にちょっかいを出しては、黒い兎に威嚇され、追い返されていた。
それが、気が付くといつの間にか白い兎が一匹でいることが多くなっていた。
黒い兎がどこへ行ったのだろうかと白い兎の傍を捜すと、白い兎の視線の先に二匹はいた。
黒い兎と薄茶色の兎の二匹は、仲良くじゃれ合っていた。一見すると取っ組み合いのようにも見えたが、敵意は一切感じられなかった。
白い兎は、それを寂しげに眺めていた。
草原に草花が咲き乱れ、蝶が飛び交い、蜂が蜜を集める傍で、相も変わらず白い兎は一匹で蹲っていた。
また二匹がどこかでじゃれているのを見ているのかと思ったが、どこにも二匹の姿は見えなかった。
白い兎は小刻みに震えていた。どこかでカサリと音がするたびに、白い兎はびくりと体を震わせて、怯えたように周囲を見回し、耳を傾ける。
黒い兎はどこへ行ったのだろうかと初めてアインは疑問に思った。
アインは白い兎の傍に腰を下ろして見守った。
白い兎はアインなどいないかのように震えていた。
アインは撫でようともしなかった。
ただ寄り添って、風に吹かれ、風に揺らされて奏でられている草の音を聞いていた。
鳥の声を聴き、陽光に照らされて、気が付くとアインは眠っていた。
眼を開けたとき、アインは見覚えのある屋敷の前にいた。
霧に包まれた屋敷だった。
その屋敷の前庭のケージの中に、白い兎はたった一匹でいた。
ケージの隅で、震えていた。
捕まったのかと漠然と考える。
それでも、野生の獣に殺される心配がない分、マシなのではないかとも思うが、震えているだけで与えられた餌に口を付けていない状況を見ると、はたしてどうなのかとアインは思った。
来る日も来る日も、白い兎は怯えていた。
餌を運ぶ人間がやって来ると、狂ったようにケージを引っ掻き逃げようとしていた。
「可愛げもない」と吐き捨てる声を聴く。
人間が遠ざかり、一匹になると、白い兎はケージの隅で丸くなる。
そこへ、黒い兎がやって来た。
ケージ越しに再会を果たす二匹は、鼻を擦りつけ、安否を確かめ合うかのように匂いを嗅ぎ合っていた。
やがて黒い兎がケージを噛み切ろうと試みる。
無理だ――とアインは思う。
木製ならばともかく、ケージは木製ではない。到底噛み切ることは出来ない。
それでも黒い兎は諦めない。噛み付いては前後に揺らし、歯が欠けてもやめようとしない。
しかし、唐突に黒い兎の動きが止まる。耳を立てて音を聞く。
白い兎もケージの中で音を拾って、黒い兎と同じ方を見た。
屋敷と森を繋ぐ草原。その一際背の高い草の茂みの隙間から、薄茶色の兎が姿を現した。
だが、現しただけで近づきはしない。近づきはしないが、おそらく黒い兎を呼び寄せているのだろうと言うことは察することが出来た。
黒い兎が白い兎と薄茶色の兎を見比べる。何度も何度も見比べる。
白い兎は黒い兎にすり寄った。置いて行かないでと訴えるように、ケージの隙間に鼻先を押し込んで。決して長くない前足を突き出して。
黒い兎も前足を伸ばす。置いて行くものかと、前足を伸ばす。
そのとき、二匹同時に薄茶色の兎へと顔を向ける。
急かされているのだろう。
薄茶色の兎が警告を発するように地面を蹴る。
『いい加減、懐かない兎なんて喰ってしまえばいいだろう』
人間の声がした。
黒い兎と白い兎がびくりと体を震わせる。
そのまま二匹は薄茶色の兎を見る。
そして、二匹は互いに見る。
まるで今にも泣き出しそうな……いや、泣いているかのようだった。
行かないでと訴える白い兎と、急かされ、置いて行きたくはないと葛藤している黒い兎。
しかし、黒い兎は薄茶色の兎に急かされて背中を向けた。
次の日も。その次の日も同じ場面が繰り返された。
黒い兎は何度もケージに噛み付いて。
白い兎は来てくれたことに喜びを露わにして、やがて置いて行かれる絶望に恐怖した。
それでも、来てくれるだけで希望は持てたのだろう。
いつかケージを破ったら、一緒に逃げようと励まされたものか、白い兎は人間の与えた餌を口にするようになっていた。
だが、いつの頃からか黒い兎はやって来なくなった。
待っても待ってもやって来ることはなかった。
雨の日も風の日も暖かな日も。来る日も来る日も、白い兎は黒い兎がやって来る森の奥を見詰めていた。何も映さない目で、ずっと見ていた。そして――
白い兎は理解した。黒い兎が二度と戻っては来ないと言うことを。
きっと、人間に囚われた自分より、足かせになっていた自分より、あの薄茶色の兎を選んだのだと理解した。
いることが当たり前だった黒い兎。ずっと一緒に居るものだとばかり思っていた黒い兎。
黒い兎も同じように思ってくれているものだと思っていたものが、違った。
裏切られた――
その事実が、白い兎を打ちのめした。
ケージを中心に闇が広がる。
空も大地も屋敷も何もかも。
世界が闇に閉ざされた。
闇の世界に浮かぶケージの中で、白い兎は荒れ狂った。
自らが傷つくことも構わず、ケージに体を打ち付ける。
白い毛が抜け、赤く染まる。
力尽きて横たわる。死んだように横たわる。
荒い呼吸が吐かれるたびに、白い兎の憎悪が吐き出されているようだった。
なんとなく、アインは分かるような気がした。
傷つき叫んでも、届かない想い。
呼んでも二度と戻って来ないと言う絶望感。孤独感。
「本当に?」
問われてアインは見上げた。
息絶えた白い兎を腕に抱くシルバーラビットを。
闇に浮かぶ白銀の妖魔は、瞼を半分下ろした無表情で、抑揚のない声で、再度問い掛ける。
「本当に、解るの? 裏切られたことがない君に」
「え?」
「君は、裏切られていない。むしろ、裏切った方」
淡々としたシルバーラビットの言葉は、アインの思考回路を切断した。
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