第五章『人は孤独を望まない』
(1)
「――っう」
背中からどさりと落ちた場所は、積み上げられた巨大なクッション群の上だった。
どれほどの高さから落ちて来たものか、ベッドほどもあるクッションが大きく沈み、押し上げられた両脇のクッションが覆い被さって来る。
咄嗟に顔の前で腕を交差させて衝撃に耐えるも、覆い被さって来たクッションは異常に軽かった。
「……あんの、変態うさ耳黒ずくめ! 一体何をしてくれるの」
何も見えない暗闇の中を落下して、アインは墜落死を覚悟した。
途中、『何が子供には手を出さないだ!』とシュヴァルに対する不満も爆発したが、とりあえず、殺す気だったわけではないことだけは理解する。
早鐘を打つ鼓動を聞きながら、荒い呼吸を落ち着かせる。
落ち着いた後、覆い被さって来たクッションを支えながら体を起こし、全身を使って押し退ける。
しかし、足場も悪く踏ん張りも利かない状態では、なかなか押し退けることが出来なかった。
「どうしてこんなところでこんな無駄な体力を使わなくちゃならないの」
アインの頬が怒りで引き攣り、口からは悪態が吐いて出る。
何度か全身を使って押し退けようとチャレンジするも、五度目でアインは諦めて、折り重なるクッションをよじ登って頂上へ出ることにした。
とんだ障害物競走だと思いながら抜け出ると、
「まだ追って来るのか!」
苛立ちを隠せない声が飛んで来た。
色鮮やかなパステルカラーのクッションの山に立ち上がり、アインは見る。
何重もの鉄格子の奥の奥。小さく見えるハイネスの姿を。
正直、アインの位置からはハイネスの顔までは見えなかったが、飛んで来た声と漂う『におい』は間違いなくハイネスの物だった。
「いい加減諦めろ! 俺はお前さんとは帰らない!」
鉄格子を掴みながら訴えて来るハイネスに対し、アインは無言を貫いた。
何を喚こうとも連れて帰る。眠らせて黙らせるか、痺れさせて黙らせるか、仮死状態にして黙らせるか、一体どれにしたものかと考えながら、巨大なクッションの上を滑り降りる。
なかなかのスピード感に少しばかり楽しいと思いながら着地した後に見上げれば、巨大クッションの山は圧巻だった。
もしもこのクッションがなければ、自分は死んでいたのだろうかと思いながら、部屋全体を見渡して、どうしたところで違和感のある一角だと思わざるを得なかった。
部屋は広かった。もしかしたら闘技場が余裕で収まる以上に広いかもしれない。
床も壁も天井も漆黒に染まっていたが、決して見通しが利かないわけではなかった。
むしろ、ハッキリと部屋全体を見渡せた。暗いのに明るいと言うのも不思議な感じがしないでもないが、到底よじ登れそうにもない鉄格子がアインとハイネスを隔てていた。
生活道具など一つもない空間にアインの足音が響き渡る。
アインが落下した場所から一番手前の鉄格子までは距離があった。遠近感が掴み難い状況ではあったが、おそらく十二メートルほど。その半ばまで来たとき、ふと違和感を覚えて背後を振り返ってみれば、ちょうど巨大なクッションが闇へ呑まれて消えるところだった。
それこそ、アインを受け止めるためだけに存在を許されていたのだと言わんばかりの現象に、
「――やり方が紛らわしいのよ」
どこかでしてやったりの笑みを浮かべているうさ耳妖魔を想像し、止めようのない悪態が口を吐く。
シュヴァルが何を思ってこの空間へアインを飛ばしたのかは知らないが、
「とりあえず、捜す手間は省けたわ」
アインは早々に頭の中を切り替えて、鉄格子に向かって歩き出した。
「どんなに追って来たって無駄なんだ! 俺が本気で抵抗すれば、子供のお前さんにはどうすることも出来ないんだ!」
鉄格子へと辿り着く間、ハイネスが怒鳴り付けて来るも、アインはきっぱりと無視をした。
ハイネスがどんなに喚いたところで、黙らせてしまえば、身動きを取れなくしてしまえば、子供のアインでもどうとでも出来ると考えていたからだ。
問題は、どうやって鉄格子の奥へと行くか。
鉤縄でも引っ掛けて、屋敷へ入り込んだ時のようによじ登ろうかと思ったものの、傍まで来て見上げると、鉄格子の先が見えないほどに高かった。
質感は鉄そのもの。押しても引いてもビクともしない。
アインは左右へサッと視線を走らせて、とりあえず鉄格子沿いを右側へ向かって歩き始めた。
どこかに入り口らしいものはないのかと探し始めたのだ。
クッションの山の上から見たときは然程長いとは感じなかったが、実際傍に来て歩いてみると、相当な距離があることを実感した。
カツカツカツカツと言うアインの靴の音と、『無駄だ。諦めろ!』と言うハイネスの怒鳴り声が響き合う。
喚くな――と、アインは顔を顰めて口の中で吐き捨てる。
何重にも伸びる鉄格子。格子の間をすり抜けることも出来ないし、飛び越えることもよじ登ることも難しい状態で、見つからない入り口を探しているアインにしてみれば耳障りなことこの上ない。
そんな中、アインは見付けた。鉄格子に付けられた入り口を。牢屋の入り口のように、人一人がやっと入れる程度の入り口を。
アインは迷わず手を掛けた。
ガシャ――ガシャガシャガシャガシャ!
「ま、当然よね」
落胆の欠片もなく言い捨てる。
入り口には鍵が掛かっていた。
鍵穴があるのだから当然だ。問題は、鍵そのものがどこにあるのか。
この鍵がただの飾りで、実際は入り込む手段など何もない――ともなればさすがにアインも怒り狂うかもしれないが、鍵がどこかにあるかも知れない以上はとりあえず探さなければならない。
少なくとも、鍵があるとすれば格子の内側ではなく外側。つまりはアインのいる側。
しかし。
「この何もない状況でどこを探せと言うのかしら?」
収納家具など一つもないただの部屋を見渡して、少しばか途方に暮れる。
あの広い床のどこかに隠し収納スペースがあるのかと思い、現実逃避の如く、もしかしたらさっき消えたクッションの中に入っていたりして……と思ったが、すぐにありえないと頭を振る。
嫌がらせもそこまで来れば、ハイネスよりも先にシュヴァルを始末したくなる。
「それとも、名前を呼ばれて頼られたいってことなのかしら? だとしたら……絶対に呼んだりなんかしないわ」
心の決意を口にした瞬間、『え~なんでだよ~』と笑うシュヴァルの幻聴が聞こえたような気がしてうんざりすると、アインは自分の右側に何者かが現れる気配を感じた。
「あなたのことなんて呼んでないわ」
と、苛立ちも隠さずに告げて振り向いて、目に飛び込んで来た物を見た瞬間、考えるよりも何よりも、アインは後方へ飛び退いていた。
「な、何?」
さすがに気が動転した。
てっきり呼んでもいないシュヴァルがいるのかと思いきや、アインが目にしたのは人の顔程もある、大きなガラス玉を生やして立つ灰色の塊だった。
上背はアインよりもある。見た目は灰色の巨大な芋虫――と言うのが最も近いかもしれない。胴回りは少なくともアインが両手を回しても届かないほどで、質感はまるで雲のように輪郭がぼやけていた。そんな中、巨大芋虫の上部、顔の位置にはめ込まれている赤いガラス玉だけは、ハッキリとガラス特有の硬質さを持ち、戸惑うアインの顔をクッキリと映し出していた。
どこから現れたのかなどと言う愚問をする気はサラサラなかった。
この屋敷がハイネスを守っていることは先刻承知。ならば、またしてもアインを排除しようと現れた屋敷側の刺客だと考えるのが妥当だった。
灰色の巨大芋虫はフルフルと揺れながら、赤いガラス玉をアインに向けていた。
ガウ―ン
アインは、撃った。問答無用に、先手必勝で。
弾き出された散弾は、物の見事に灰色の巨大芋虫の胴体を吹き飛ばし、その正体がアインの予想通り雲や煙に近いものだと告げていた。
一度は風圧で胴体を穴だらけにされておきながら程なく元の姿を取り戻す様を見て、アインは、銃弾は無意味だと察した。
アインはさっさと猟銃を肩に掛けると、鞄から掌に収まる手榴弾を取り出した。見た目は導火線の付いた花火と大差ない。それと、導火線に火を点けるためのマッチを取り出したところで、アインはすかさず左足を下げて体を開いた。
灰色の巨大芋虫がアイン目掛けて飛んで来たからだ。
それも、突き刺さらんばかりの勢いで錐に近い姿に形を変えて突っ込んで来れば、避けるのも当然。アインは、突撃の勢いのまま、三メートルほど離れたところで着地して、躰を震わせながら元の芋虫の形を取ろうとしているところへ、マッチで火を点けた手榴弾を狙い違わずに放り込む。
灰色の巨大芋虫は気が付いていないのか、自分の内に凶器を内包したまま躰を震わせ、よくも逃げたなと獲物を睨み付けるかのように赤いガラス玉の顔を向けて来た直後――アインが床に伏せると同時に、爆発音と閃光がその躰を吹き飛ばした。
爆風がアインの赤いフードをはためかせる。
ハイネスの喚き声が聞こえなくなったのが、驚きのあまりに開いた口が塞がらなくなってしまったせいか、爆音に耳が麻痺したせいか分からないままに体を起こすと、灰色の巨大芋虫は跡形もなく消え失せていた。
「とりあえず、手持ちの物で対処出来て良かったわ」
立ち上がり、服の埃を叩き落して灰色の巨大芋虫が立っていた場所を見る。
一見すると何事もないように見えた。光さえ吸収しているように見える光沢のない黒い床。
手榴弾が爆発したと言うのに抉れてもいない床を見て、アインは眉間に皺を寄せた。
普通だったら床だって破壊されているはずだった。
「……まぁ、ここは『普通』ではないけれど」
口に出して突っ込みを入れては見るものの、納得は出来なかった。
もしかしたら、真っ黒な床故に、破壊されていても認識出来ないのではと閃いて、用心しながら近づいてみる。
相手が雲のような煙のようなもので出来上がっていた以上、爆風で散らされただけの可能性もある。再び集合して現れないとも限らない以上、用心に越したことはない。
するとアインは、何かが落ちていることに気が付いた。
眼を細めてよく見ようとするも、いまいちよく分からない。
だが、一メートルほど手前まで来たとき、正体が分かった。
「カギだわ」
シュヴァルが見ていればニンマリすること間違いなしに、ハッと嬉しそうな表情を浮かべて駆け寄る。
確かにそれは鍵だった。アインの掌よりも一回り大きな赤い石の嵌った灰色の鍵だった。
咄嗟に拾い上げようと手を伸ばし、寸前でハッと気が付いたアインが、猟銃を使って鍵を突く。更に、念には念をと爪先で軽く突き、何事もないことを確かめた上で、アインはようやく鍵を拾った――ときだった。
「――っ!」
頭の中に突如見知らぬ男女たちの姿と声が凄まじい勢いで流れて行った。
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