四
「はい。継臣だめー」
「ていうか、タバコ? 断るトコそこ?」
メグミさんも笑っている。
「ほんと、翼ちゃんてサイコー」
室内は爆笑の渦で、その目の僕でさえ釣られ笑いをしていたのに、逢坂先生はにこりともしなかった。テーブルの灰皿に煙草をもみ消している。
みんなの笑いも落ち着いてきたころ、メグミさんがおもむろに立ち上がった。逢坂先生の背後へ回り、ソファーの背もたれへ胸を押しつけるようにして、野太い首に腕を絡めた。まるで見せつけんばかりの密着度だ。僕の眉までもがぴくりと動く。
「ねえ、逢坂さんもあっちゃんもあしたで終わりじゃん。三日なんて言わないで、一週間でも一ヶ月でもいてほしいよ。なんなら学校の先生なんて辞めて、こっち来てよぉ」
僕はぎくりとした。人目をはばからず、甘えた声でべったりくっつく姿にも。
逢坂先生も満更ではないという顔でいる。
その目と目が合い、僕は慌ててそらした。
「まあ、学校がクビんなったら、そのときはよろしく頼むわ」
「えー。いますぐクビになろうよ」
「なりませんっ!」
僕はすかさず言葉を挟めた。
明らかに場の空気が変わる。逢坂先生も、お前になんの権限があるんだと言わんばかりの目つきをしている。
たしかに僕は職場の後輩にすぎず、逢坂先生の行動を制限できる立場にない。
このボランティアの一件もそうだ。
自治体から営業許可の出ているお店。職務に差し支えのない休暇中。無償のお手伝い。ならば、それほど問題にはならないのかもしれない。……いやいや。やっぱりキャバクラはだめだろう。法律的に問題はなくても倫理的にアレだと思う。
「ねえ、翼ちゃんて、逢坂さんとあっちゃんと同じ学校の先生なんだよね」
メグミさんはようやく体を起こすと、小首を傾げながら僕を見下ろした。
「男子校だったよね、あそこ」
「はあ、まあ……」
「だとさあ、翼ちゃんみたいな小柄なヒト、生徒に負けちゃったりしちゃうんじゃない? 翼ちゃん、女の子に見間違うってほどじゃないけど、二重でジャニ顔だから、なめられたりしてるでしょ。迫力に欠けてるっぽいし」
ジャニ顔って部分はよくわからないけど、なめられてる感は残念ながら否めない。ケンカを止めに入っても簡単に弾かれるし。
だがしかし、僕は断じて小柄ではないと思う。逢坂先生や根津先生に比べればであって、メグミさんとはどっこいどっこいなはず。
僕はソファーの背もたれ越しに下を覗く。
あのヒールの高さぶんはこっちの勝ちだ。
「メグミ、教師ってもんはな、腕っぷしだけ強くてもだめなんだよ。ガッツもなきゃな。その辺り、渡辺はよくついてってる。体格の面で敵わないところは気持ちでカバーしてる。全然ひけをとらない」
睨むようにヒールへ注いでいた視線を僕はぱっと上げた。
逢坂先生にそんなふうに言ってもらえるとは思ってもなくて、嬉しさを通り越して照れまくってしまった。にやにやが止まらない。
やばい、やばいと、顔を扇いだ手を額にやったところで、逢坂先生が立ち上がった。
「渡辺、そろそろ帰ったほうがいい」
「……え? あ、いま何時ですか」
「二十四時半」
テーブルにあった携帯を取って逢坂先生は見せてくれる。
「に……?」
いわゆる、てっぺん越えたってやつですか。
周りにいた人たちも、「さて。そろそろ」と、各々動き始めている。
僕は、ななめがけのままであったカバンを確認して、ソファーを立ち上がった。
「それではみなさん。お邪魔しました」
と頭を下げ、逢坂先生と根津先生にも声をかけてから帰ろうと思ったら、二人はもう事務室を出ていた。
急いで、後ろのほうにいた巨体を捕まえる。
「逢坂先生」
「なんだ。あ、俺送るからさ、ちょっと待ってて」
「いえ、ウチ近いから大丈夫です。きょうはいろいろとすみませんでした。それと……」
「ん?」
僕はカバンのフタを開け、携帯を出した。
「写メ……いいですか? 根津先生も」
カメラモードにして構えると、顔をしかめていた逢坂先生が振り返って、「アツシ」と声を飛ばした。
鬼の形相で断られると思ったけど、お許しは出たみたいだ。
なんにせよ、あんなギャルソンコス風な二人は、二度とお目にかかれないかもしれない。キャバクラは考えものだけれども、あれは是非ともカメラに収めておきたい。
狭い通路でイケメンツーショットを撮る。我ながらきれいに写せて、携帯の画面をしばし眺めていたら、ため息混じりの声が降ってきた。
「いくら格好よく撮れたからって待受にはするなよ」
「しませんよっ」
むきになって返せば、逢坂先生が喉の奥で笑う。
「それにしても変なやつだな」
「……変って、僕がですか?」
「お前以外にだれがいるかよ」
逢坂先生は目を伏せるや、せっかくのしっとりキャラメルをがしがしと掻き乱した。
「俺を不愉快に感じてるのかと思ったら、そうやって写真は撮る。とっくに帰ったと思っていたら、あんなところで寝てた」
髪から離れた指が、まず僕の携帯をさし、すぐそこのロッカールームへと向く。その動きを目で追うだけで、僕はなにも言い返せなかった。
「まあ、いいや。ところで腹空かねえ? 夕飯食ってないだろ」
「あっ」
そういえばと気づいて、僕はお腹を撫でた。その途端、ぐうと鳴る。
「またすっげえ音させるわ」
「違います。させたんではありません。鳴ったんです」
「はいはい。つうか、うまいラーメン屋知ってるからこれから行かねえか? 奢るし」
「奢る」と聞いて、おおっと喜びかけたけど、ちょっと引っかかりも覚えた。
「それって……口止め料ってやつですか」
「……あ?」
逢坂先生の顔色がみるみるうちに変わっていく。
「そ、そんなことされなくても僕の口は固いほうですので安心してください」
「……」
「おやすみなさいっ」
僕は後ずさりながら頭を下げる。そのまま背を向け、きょろきょろと出口を探したけど、それらしいドアはこっちにはなかった。
逢坂先生はまだ通路に立ちはだかっている。なにか言いたげなようで、逆に、もうどうだっていいと諦めたようなまなざしを突き刺してくる。
僕はそれも避けるように壁伝いで通路を抜けた。外へ出て、二度とここからは入らないだろう黒い建物を仰ぎ見た。
それにしたって、ずいぶん長い寄り道だった。
逢坂先生を見つけたのは夕方なはずなのに、数日前の出来事みたいに感じる。
大通りに差しかかったところで、足が止まった。
そうだ。なんで気づかなかったんだろう。
めっきり人通りの少ない道を僕は振り返った。
あのキャバクラの裏口へは僕から入ったんじゃない。逢坂先生が連れ込んだんだ。
あのまま放っとけばやり過ごすこともできたかもしれないのに……。
「ラーメン……」
とくに食べたかったわけじゃない。けれど、あの逢坂先生が、ラーメンというフランクな食事の場へこの僕を誘ってくれた。それもたぶん、本心から。
だから、ものすごいチャンスを逃したんじゃないかと思う。
はたして、休み明けの逢坂先生はどう接してくれるだろう。
いつも通りが安心できるような。しかし、それはそれでなにか腑に落ちないような。
命の洗濯どころか、肝を冷しまくりな夜の道を、僕はとぼとぼ歩いた。
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