ドアの枠に僕は掴まって、放り出されないように踏ん張る。


「なんなんだ、お前。気づいてないなら用はねえから早く帰れ」

「き、気づいてないって。な、なにがっ」


 僕の太ももの裏に膝が入る。頭上のドア枠をがしっと掴み、暑苦しいやつがぐいぐい押してくる。

 ま、負けてたまるかっ。

 もはやなんの争いだったかもわからなくなってきたとき、今度は女の人の声がした。


「なにやってるの。もうお店開けるわよ」


 ちょっと顔をやって、その女の人を確認していると、一気に攻めこまれた。弓なりに反っていた僕はとうとう弾き出される。

 目の前で勢いよくドアが閉まった。

 なんなんだよ、もう。人を連れ込んでおきながら簡単にポイと捨てる。

 ちょっと引っかかることもあって、僕はもう一度ドアを開けようとした。すると、向こう側からゆっくりと開いた。

 さっきの女の人が、にっこりと笑って手招きしている。四十代くらいの和装の人だ。

 その奥に、暑苦しい男と蝶ネクタイが立っていた。



 神さま仏さま。どうかこの二人を許してやってください。

 たぶん悪気はないと思うんです。……たぶん。


「翼ちゃんがまた悟りを開いてる」


 目をつむって天を仰いでると、笑いを含ませた声がした。

 未だに信じられない。信じられないけど、事実なんだから信じるほかない。

 蝶ネクタイの人は、ただいま夏期休暇中で、お家でのんびりしているはずの根津先生で、暑苦しい男のほうは、現在進行形で僕とデスクを並べている逢坂先生だった。

 会ったことがあるはずだ。おとといまで、毎日顔を合わせていた人たちなんだから。

 ……ああ、さようなら。僕の日常。こんにちは。もう引き返すことのできない棘の道。


「事情がわかったなら、さっさと帰れって」


 逢坂先生は吐き捨てるように言い放つと、根津先生が着ているものと同じワイシャツに着替え始めた。蝶ネクタイもつける。

 定番の鉄のロッカーがずらりと並ぶ狭い部屋。すっかり別人と化した二人を僕はぽかんと見上げた。

 逢坂先生のボサボサ頭はしっとりキャラメル色で、きちんとセットされている。眼鏡もない。根津先生も眼鏡を外していて、ちょっと長めな髪を後ろに流している。

 眼鏡を取って髪をきれいにしただけで、二人とも、こんなにイケてるメンズになるのか。ほほう。

 ……なんて、感心してる場合じゃない!


「ていうか、ていうか。教師が休暇中にいかがわしいお店でバイトなんて前代未聞もいいとこですよ」


 我に返ってすぐ、僕は言葉を飛ばした。それなのに逢坂先生は頭を抱え、人さし指で根津先生になにかを示した。


「なに一つとして理解してねえ。アツシ、お前なんとかしろ」

「連れてきたのは継臣じゃんか」

「……」


 逢坂先生が大きく息を吐く。それから、いきなり僕の二の腕を掴んできた。

 不意打ちを食らった僕はロッカーへ後ずさる。その頬を掠めるようにして左手をつき、逢坂先生はぐんと距離を縮めてきた。


「あの、近すぎなんですけど」

「いいか、渡辺」

「はい?」

「まず、ここはいかがわしい店じゃない。自治体から営業許可の下りてるれっきとした飲食店だ」

「はい」

「で、俺たちはバイトじゃなくあくまでボランティア。ホールスタッフが立て続けにダウンしたから、ママの頼みでこうなってる」


 なんとしてでも納得させたいのか、逢坂先生はいままでで一番の眼力をさしてくる。

 僕は負けじと口を真一文字に結んだ。


「……でも、キャバクラなんですよね。ここ。女の人が客とって、あれやこれやするんですよね。まあ、いいじゃないか、いいじゃないか。いや、だめですお客さま。それ以上のことは。って」

「はっ? なんだ、お前ドーテーか。その妄想の逞しさはよ」

「ど? どどど……どー」


 僕は力の限りを尽くして目の前の巨体を押し退けた。


「と、に、か、く。ボランティアだろうがなんだろうが、だめなものはだめです。だって、校長先生の許可は取ってないんですよね。休みだからってなにしても許されるわけはありません」

「お前にだめなんて言われても痛くも痒くもねえよ」

「いいんですか。僕、チクりますよ。すっごく口軽いんで、チクっちゃいますよ」


 ずいと前に出て言ってみたけど、案の定、返り討ちにあってしまった。かっと目を見開いた逢坂先生が僕のあごを掴み、この口をすぼめるように指先に力を入れた。


「おーはかへんへぇ」

「世話んなった人が心底困ってて頭下げてんだから、協力できるんなら助けるのが人道ってもんだろうが」

「わお。冷静なあの逢坂さんが逆上してる。珍しー」


 そんな間延びした声が聞こえ、僕と逢坂先生は同時に振り向いた。

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