第37話:魔女と力無き者

「うぉっとぉ!」


 幼体の右前脚が持ち上げられる。ヒナシアを舗装路ごと粉砕する為だった。アッサリ軽やかに躱してみせるも、後方で驚嘆し続ける母親が気になって仕方が無い。いつまでも庇い続けるのは骨が折れた。


 攻守どちらが楽かと言えば、当然ながら「攻」である――ヒナシアは振り返り、母親に檄を飛ばす。


「ボサッとしていたら駄目です、逃げて下さいよ! 小さいお子さんがいるんでしょうに!」


 今度は左前脚が降って来た。躱したところに大口を開けた幼体が突っ込んだが、予測していたヒナシアは体勢を変え、後方倒立回転に似た回避を取った。


「でも……魔女様一人では危ないかと――」


「こんなの一人でも二人でも危ないんですって! 言いにくいけど、お母さんがいるとでしゃあないんです!」


 視線は酸噛竜に向けたまま、身体は母親にピッタリと寄り添うヒナシア。気丈そうな母親の身体は、しかしながら小刻みに震えていた。


 市街地で竜種に襲われる――この事実が彼女の精神を追い詰めている証拠だった。


「ど……どうせ一回は捨てた命です。せめて魔女様が戦いやすいよう、囮にでも使って――」


「黙りなさい!」


 ビクリと母親が震えた。一帯に響き渡ったヒナシアの怒鳴り声を掻き消すように、酸噛竜は首をもたげて咆哮した。


「それで私が喜ぶとでもお思いですか!? だとすれば――貴女は魔女をしている! 今ここで、貴女の魔女観を叩き直してあげます!」


 母親を抱き抱え、ヒナシアは後方に飛んだ。細い路地に入り、ヒナシアの援護があれば、充分に母親の足でも避難所まで逃げおおせるはずだった。


「魔女が最も嫌いなもの――それは! 親を亡くして喜ぶ子が何処の世界にいますか! その逆も然り! お母さん、貴女はこのヒナシアが護ります。代わりに約束しなさい!」


 瓦礫が無造作に付着した酸噛竜を睨め付け、ヒナシアは叫んだ。


「這ってでも――足が千切れても――貴女は貴女の子供達を抱き締めなくてはいけない! 今なら、このならそれが出来ます!」


 ヨロヨロと立ち上がる母親の足音を後ろに聞き……ヒナシアは微笑んだ。続いて体勢を低く取り、徒手格闘の構えへ移行する。


「それとお母さん!」


「は、はい!?」


「カイル君という素敵な少年をご存知ですか」


 えぇ、ご近所です――母親が慌てたように答えた。


「そのご家族、友人達が避難しているのを見ましたか?」


 酸噛竜が巨体を揺らして接近する。母親の足は路地の方へ向いていた。


「すいません――あの時は必死で、分かりません……」


 一瞬、ヒナシアの表情が曇る。しかしすぐに鋭さを取り戻し、「ありがとう御座います」と返す。


「彼の勇気と機転を信じましょう――さぁ、子供達が待っていますよ!」


 振り返り、ヒナシアは満面の笑みで母親の避難を促した。


「そうそう、後でお子さん――抱っこさせて下さいね!」




 同時刻。カイル少年はヒナシア達から一キロも離れていない場所にいた。服は薄汚れ、両手には木屑が刺さり出血が見られた。


「はぁっ、はぁっ……」


 時折、不気味な竜の声が聞こえる。夜中に何処かから聞こえて来る犬のそれとは比較にならなかった。しかし少年は涙も見せず、無心で、道具も使わず素手で瓦礫を撤去していた。


「おい、ロイル! 声を出してくれよぉ」


 今年で二歳になる弟の名だった。眠っていた木製のベッドの上に岩石が落下して来たのは――酸噛竜が土中から出現した為だった。屋根の脆い箇所に当たり、一人留守番をしていたカイルを青ざめさせた。


銀行員の父親は職場に、母親は市場の方へ買い物に出掛けていた。しっかり者の両親の無事は信じられたが……。


「ロイル……ロイル……!」


 泣き虫の弟が未だに声を上げないという事実に、カイルの脳内にが滲み出していた。


 再び、おどろおどろしい声が響いた。大砲のような足音も聞こえた。


 もう少しのはずだった。もう少し、残り一本、大きな木材を退かせば……憎たらしいけど、世界で一番大切な弟が見えるはずだった。


「ぐっ……ぐぅうぅ……!」


 それはとても重かった。少年の細腕では多少木材を揺らす事は出来ても、完全に撤去するのは夢物語に等しい。


 三度、忌々しい声が耳に届く。しかし、逃げ出すといった選択肢は無かった。自分は年上だし、一人で眠る事も出来る。嫌いな野菜も弟が見ていると、不思議と喉を通った。


 弟を助ける責務がある――カイルは考えていた。


 一度手を緩め、次こそはと両腕に力を込めようとした、その矢先……。


 誰かの気配を感じた。


 両親か、近所の人か、友達か、それとも――様々に予測する少年は、勢い良くその方を振り返った。


「ここに――ここに誰かいるのね!?」


 カイルより一〇歳程年上の、だった。見憶えが彼にはあった。


「…………?」


 少女は答えず、「ほら、一緒にやるよ!」と声を掛けた。カイルは頷き、突然現れた協力者と共に――。


「せーのーでっ!」


 憎々しい木材を持ち上げた。

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