第10話:魔女と配達
かくして、ヒナシア・オーレンタリスは魔女らしく、バクティーヌ特別区で賭博に興じずに数日間、平和に過ごしていたが……。
「……」
規律と結婚するらしい小さな警備隊長、シーミィ・ロンドリオンの事を考えるだけで、ヒナシアのこめかみに青筋が立った。
「…………あのチビ……」
「ひ、ヒナシアちゃん……! ほら、お客さんだよ……」
「…………しゃいあせー」
元気しか取り柄の無い彼女にとって、これは実に致命的な問題だ。ムルダンをはじめ、常連客は彼女の異変にいち早く気付いたし(当然だ。今にも誰かを殺めそうな目付きをしているからだ)、いつもなら無駄話の一つでもする彼女が、今日は一言も喋らない。
「店長、彼女……どうしたの?」
青果店を営むジャンドルは、自分の手でコップの水を満たした。
「いやぁ、分からねぇんだ……今日からあの調子で……二日間の内に何があったのか……」
「……男か?」
「それも考えたんだが……男関係なら、こう、もっとションボリするような……」
恐る恐るヒナシアを見やる二人。明らかに彼女は怒っていた。しかしながら、不甲斐無い男に怒っている可能性も捨て切れず、結局ジャンドルは酒一杯と引き換えに、ヒナシアに質問する羽目となった。
「お、おーい姉ちゃん」
声が裏返るジャンドル。ヒナシアは窓の外を眺めたまま、微動だにしない。
「いやぁ、今日も綺麗だなぁ姉ちゃんは! なぁ、店長、な!」
「ええぇっ!? あ、あぁいや、本当になぁ! こんな美人は見た事無いなぁ!」
「…………」
「ちょっと顔が赤いぞ……! ジャンドル、もう一押しだ!」
ジャンドルは「しかし、しかしだなぁ」と冷や汗を垂らしながら続けた。
「どんな美人でも、その、えーと、あれだ、辛そうな顔を見せるのは……男として、放って置けないなぁ! なぁ店長!」
「えっ!? あ、アハハ、いや本当に全く! えーっとね、ヒナシアちゃん! ほら、店内は今、俺達しかいないし! その、すこーし訳を話してくれても……」
「店長」
「は、はいっ!」
ヒナシアの発する、実にドスの利いた声はムルダンとジャンドルを大いに震え上がらせた。
「申し訳ありませんが……幾ら美人で宝玉のような肢体を持つ魔女と言えども……隠しておきたい秘密があるというもの」
「そこまで褒めていないけど……そ、そうか。無理に訊ねて悪かったよ……ハハ」
「ところで」
ヒナシアは問うた。
「この国では、例えば、例えばですよ、誰かを半殺しにしても……逮捕はされませんか」
「逆に逮捕されない国を教えてよヒナシアちゃん……! 何だい、そんな血生臭い事かい!?」
かぶりを振ったヒナシア。揺れる薄黄色の髪が、窓から差し込む陽光に輝いた。
「違います。ただ、習得した格闘技術を人に試したく……」
「そういうのを血生臭いって言うんだよ……。とにかくさ、元気出しなよ。ヒナシアちゃんが笑顔じゃないと、こっちまで暗くなっちゃうからさ」
口を尖らせたヒナシアは、しばらく押し黙り……二人の方へ振り返ると、「ごめんなさい」と頭を垂れた。
「つい私情を持ち込んでしまって……許して下さい」
ムルダンとジャンドルは互いに目を合わせ、「ヒナシアが謝罪した」という恐ろしい事実に驚愕した。直ちにジャンドルは妻に連絡を取りたくなったが(天気が大荒れになるかもしれない、という警告の為)、しかし状況が状況である。店外へ出る事が憚られた。
「……まぁまぁ。そういう時もあるよ、ヒナシアちゃん。そうだ、今日は気分転換にさ、配達に行って貰おうかな!」
「配達、ですか?」
「そう、配達。そろそろヒナシアちゃんもこの街に馴れてきただろう? 大通り以外に、裏道とかを憶えがてらさ、頼むよ」
ヒナシアは入口付近に駐めてある、リヤカー付きの自転車を見やった。
ムルダン食堂では店内飲食の他に、得意先へケータリングサービスを行ってもいた。しかしながら、料理や弁当よりかは専ら「酒類」の配達が多かった。これはムルダン自身が「酒類業者」の資格を持っており、国内外から様々な酒を入荷している為だ。
「重要な得意先の《ラーニャの酒場》なんだ、ヒナシアちゃんならきっと良い関係を築けるよ。何たって、そこの店長さんは魔女なんだからね」
「魔女……? 珍しいですね、飲食店を営む魔女だなんて。就職先が無かったのでしょうかねぇ」
お前に言われたくないだろう、とは言わない紳士達。
あぁ、あそこかぁ――ジャンドルは明るい声で言った。
「あそこの店長、魅力的だよなぁ。料理も得意だし、何より可愛くって可愛くって。俺も結婚していなければ、あの人と――」
果たして、ヒナシアは気分転換も兼ねて酒瓶を籠に詰め、自転車を走らせた。後方からは偶然「浮気話」を聞いていた妻に殴られる、ジャンドルの悲鳴が幾度も聞こえたが、しかし彼女にとってはどうでもよい。
今はただ、シーミィに対しての逆恨みを忘れられる仕事に有り付けた事に感謝していた。
「……このまま、ノンビリ働いて、ノンビリお金返して……なのかなぁ」
キコキコとペダルを回すヒナシア。時折常連客が手を振ってくる為、彼女も「こんちはー」と振り返した。
目的地、《ラーニャの酒場》はもう少し先であった。
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