第8話 剣士

 

 ぼとり、真っ二つに断ち割れた虫の体が地に落ちる。

 いつの間にか、対面に男が一人、立っていた。


 野暮ったい長髪にシャツを着込んだ、所謂いわゆる書生ふうの袴姿である。

 ただひとつ異様なことに、その手には抜き身の刀が握られていた。

 月光を帯び、ぬらり妖しい光を湛えた剣先に、ねっとりと黒い雫が滴り落ちる。


 髪切り虫を仕留めたのは、この男であるらしかった。


「ご無事、ですか」


 ぼそぼそとした、ひどく陰気な声だった。


「どうにかね。それより、とっとと刀を仕舞いなさいよ。

 話がややこしくなるでしょうが」

「帯刀許可証は、……持っているんですが……」


 男が小首を傾げる。

 何にせよ、タエ子の知り合いではあるらしい。

 奈緒は尻もちをついたまま、呆然と成り行きを見守っていた。


「だから、そういう問題じゃないって毎回言ってるでしょ。

 その証明の照合だのなんだので結局ややこしくなるんだから、

 なるだけ外で見せるなって言ってんの」

「……はあ、」


 気の抜けた返事と共に、男は大人しく、言われるままに刀を仕舞った。

 ぬらぬらとした銀光が、鞘の中に吸い込まれてゆく。


「ま、何にせよ助かったわ。

 ところであんたいつ戻ってきたのよ」

「……今日の……昼すぎ、くらい……ですかね」

「ほぼ休みなしって訳ね。お疲れさま」


 げんなりしたタエ子の声に、お互いに、と男が呟いた。

 ふ、とその視線が投げかけられる。

 奈緒はびくりとした。


「……そちらは、……新顔、ですか……?」


 どう答えるべきだ。

 奈緒が戸惑っている間に、先んじてタエ子が答えた。


「いいえ。新顔ですって」

「……そう、ですか」


 砂を踏む音に、一々びくついてしまうのは何故だろう。

 男は奈緒の前まで歩み寄ると、腰を折って右手を差し出した。


「はじめまして……。

 ボクは、金烏の、……杢師もくし嘉一郎かいちろうと、……言います」

「な……奈緒、です……」


 つられて片言になった。

 握手に応じようと右手を差し出しかけたが、その手は泥にまみれている。

 奈緒は慌てて手を引っ込めた。ふ、と男が笑う。


 ぼんやりとした輪郭から、若い男であるらしいという目星はつく。

 だが薄闇と長い髪とに隠れて、顔だちはしかとは判らない。

 ただ。


 、と奈緒は思った。

 底なしの穴を覗き込んでいるような──

 それこそ笈山の試掘坑のような、光のない瞳。


 男はすっと手を戻すと、洋装の女の方に向き直った。


「それから……尾渡、さん」

「何よ。嫌な予感しかしないんだけど」


 顰めっ面で、女が唸った。


「……呼び出し、です」

「はー? あーもう判ったわよ。行けば良いんでしょ行けば。

 行くけど、呼び出しついでに後始末手伝ってくれない?」

「まあ……構いませんが……」


 ぼそぼそとした声で、男が答える。


「そういう訳だから、半端なとこで悪いけど。

 今度こそ、あんた一人で帰ってくれる?」

「あの、……はい」


 仕事の邪魔をしたくはない。

 タエ子の言葉に、奈緒は頷いた。

 頷くほか、選択肢はないように思われた。


「それと。

 手伝ってくれて助かったわ。ありがと」


 ひらひらと。

 夕闇の中、女の白い手が翻った。


 ○ ○ ○


 少女の背が見えなくなったのを確かめて、タエ子はひとつ息を吐いた。

 地面に残されたオサキたちの動きは次第に小さくなってきている。

 この様子であれば、のは時間の問題だろう。


「……良かったんですか……?」

「何が? そもそも、こんな時に呼び出しかけて来たのは本部じゃない。

 一人で帰したぐらいで文句なんか言わせるもんか。

 だいたい、蛇神もついてるんだからよっぽどの事がなきゃ問題ないでしょうよ」


 うんざりした口ぶりのタエ子に、嘉一郎は静かに首を横に振った。


「いえ、そちらではなく……。

 は……させなくて、良かったんですか」

「いいでしょ別に」


 男の問いに、タエ子はすっぱりと答えた。


「何考えてるんだか判んないあの男はともかく、

 早太郎はあの子をから遠ざけたがってるみたいだし。

 なら、コレの件はまだ知るべきじゃない。面倒になるだけよ」

「まあ……そう、仰るなら。

 それで、……もう、切っても?」


 男の右手は既に柄にかかっている。

 ぎらついたその目が捉えるのは、黒い液に塗れ地に転がるオサキたち。


 否。

 転がってオサキたち。


 一度は動きを止めた筈の小獣たちは、再び蠢き始めていた。

 例外はただひとつ、タエ子が自ら灼いた一匹のみ。

 そして復活したとおぼしき毛玉たちは、あろうことか標的をに定めている。


 タエ子の指令は既に届いていない。

 、と女は判断を下す。


「どうぞ」


 にい、と男が嗤った。


 ○ ○ ○


 とぼとぼと帰り路をゆく。

 すっかり暗くなった夜道に人影は少ない。

 泥で汚れた手足も、薄闇の中であればさほど目立ちはしない。


『……すまんな。

 やはり先に伝えておいた方が良かったやもしれん』

「急に、どうしたんですか」


 意図の汲めない蛇神の言葉に、奈緒は戸惑った。


『お前には伏せておったがな。

 今日逢う相手がオサキ憑きであることは、あの男からあらかじめ聞いておったのだ』

「……、えっと」


 そういえば、前の晩に何やら二人で話をしていたような気もする。

 だが謝罪された理由も、伏せられた理由も、奈緒にはどちらもよくわからなかった。

 それを知っていたからといって、今日の何が変わるとも思えない。


「あの、それがどうかしたんですか?」

『む……そうさな。どこから説明したものか』


 白蛇がむむと唸る。


『まあ、まずはオサキというものについて語らねばなるまい。

 あの女も自ら言うておったろう。オサキとは那須野に封じられた大妖狐のかけら。

 千々に砕けた破片ゆえ、己のみではあるべき姿を取ることが出来ず、ああして人に憑くことでようやく己を保ちうる。これに憑かれた人間をオサキ憑きという』


 奈緒はあの、狐と呼ぶにはあまりにも不格好な姿を思い浮かべた。

 例の狐らしからぬ姿は、つまりはその不完全性ゆえのことか。


『そして、オサキは宿主となった人間の望みをほとんど反射的に叶えようとする。宿主が望むと望まざるとに関わらずな』

「望むと……?」


 望んでいない望みなどあるのだろうか。

 矛盾したようにも聞こえる説明に、奈緒は首を傾げた。


『例えばだ。小腹が減った時に、偶々旨そうに飯を食う人間を見かけたとて、羨むことはあっても奪おうとはまず思うまい。

 だが、オサキどもは違う。その羨む気持ちにこそ敏感に反応する。

 時も場合も、手段すら選ぶことなく、オサキは実に短絡的に願いを叶える。

「それは……、大変なことになるんじゃ」


 うむ、と白蛇が頷く。


『無論、大変なことになる。

 未然に防ごうと思うなら、四六時中気を張りつめておかねばならぬ。

 故に、オサキ憑きはになりやすい。

 オサキ使を名乗るような、おおよそ常に制御を効かせられるのは特にな』


 なるほど、と奈緒は思った。

 仮に己がそんな状態だったとすれば、とても平静でいられる自信はない。

 困惑し、混乱し、果てにはオサキたちを暴走させているような気がする。


『それで、まあ、おれはあらかじめと事前に知っていたわけだ。

 変に身構えさせるより、何かあったときだけ間に入った方がやりとりもうまく行くだろうと思うて伏せておったのだが、うむ。結局、お前を驚かせるばかりになってしまったようだ』

「あの……わたしは、それで良かったと思います」

『そうか。それならよいのだが』

「はい」


 本心だった。知らなくて良かった。

 仮にそうと知っていたなら、奈緒はあのカップの件で萎縮しきってしまって、何かを尋ねようとはとても思えなかっただろう。髪切り退治についてゆこうなどとも思えなかったはずだ。


 そこまで考えて、奈緒はふと、不思議な気持ちなった。

 。そういうこともあるのか。


 ひょっとして、と奈緒は思う。

 関口が陰陽寮について口が重いのも、もしかしたら。


 ──わからない。


 結局のところ、今日一日でわかったことがあるとすれば、それは己があまりにもものを知らないということ、それだけだ。

 それでもきっと、前進はしている。

 していると思いたかった。


 最後の角を曲がる。

 この先を行けば、関口の家はもうすぐそこだ。

 ふと目をやれば、玄関の前に背の高い男の影があった。


 男が振り向く。

 奈緒の姿をみとめ──それから、少しばかり目をみはった。

 似ていないと思っていた千津の顔真似だが、実は結構似ていたのだな、などと、奈緒はそんなことを思った。


「その格好は」

「あ、……ええと」


 開口一番の関口の言葉に、奈緒ははっと己の状態を思い出した。

 前髪は変なところで一部切られているし、裏路地を走り回ったり転がったりで手足は泥にまみれている。少なくとも、ただ話をしてきただけの格好ではない。それが、急に恥ずかしくなった。


「そのう、帰りに髪切りに遭遇しまして」

「髪切り」


 関口の眉根が寄る。表情が険しい。

 視線は半端な前髪に注がれた。


「あ、でも、大丈夫です。

 タエ子さんと杢師さまが退治して下さいました」

「…………そうか」


 物言いたげな男の手が延びて、奈緒の前髪をすくいあげる。

 わずかに額を掠めた指先の感触に、娘はどきりとした。


「あ、いや……すまない」


 少し慌てたように、男の手が離れた。

 ぱらりと前髪が額に落ちる。

 何故だか少し勿体ないような気がした。


「いずれ、髪を整えにゆくべきだろうな。

 どこか知らないか千津に尋ねておこう。他は大事ないだろうか」

「ええと、大丈夫です。怪我もありません」

「そうか」


 言葉は途切れ、微妙な沈黙が降りた。

 辺りは夏の初めの夜、まだ少しひんやりとした空気に包まれている。

 玄関先の電灯の、黄色い光だけが二人を照らしていた。


「それから、あの……ただいま戻りました。

 遅くなってごめんなさい」

「おかえり。ともかく、無事で良かった」


 ふ、と微かに笑う男の目元は柔らかい。

 もしかして、玄関先にたっていたのは待っていてくれたのだろうか。

 それを尋ねてみたいような気もしたし、怖いような気もする。

 思えば、このところはそんなことばかりだ。


 だから結局、奈緒は別の言葉を口にした。


「あとは──名前も、正式に奈緒になりました。

 もうしばらく、お世話になります」

「ああ」


 そう答えた男の声は、柔らかく奈緒の胸に響いた。



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