第43話 再生される世界

 長い夢を見ていた気がする。

 夢というよりは記憶だろうか。振り返ってみれば色々なことがあったが、まだ短い人生の中でも高校生になった年が濃密な一年だったと思えた。

 私の記憶にある限り最後に見た光景は自分に向かって、車が猛スピードで近づいてくる様だった。ける間もなくねられたにも関わらず、私は恐怖より先に安堵に心が支配された。

 もちろん私は自分が死にたかったわけではない。その理由は私には明白だった。


 だって、私は“岩月いわつき篤志あつし”という最愛の恋人を救えたのだから――。



 自分が何のために生まれてきたのかという哲学的な問いに答えを見いだせることのできる人間はそうはいないだろう。そんなことを考えなくても生きていけるし、ただ漫然と理由がなくても生きていける。

 だけれど、私は自分だけが事故に遭った瞬間に、きっとこの瞬間のために生きてきたのだと心の底から思えた。


 細く長い息が肺から押し出されるように吐き出され、ゆっくりと私の意識は覚醒していく。

 体が全く動かせないうえに全身が痛んだ。

 その痛みこそが自分が生きている証なのだと実感できて、そのことにホッとするよりまず驚いた。

 私は彼の代わりに死ぬとばかり思っていたからだ。

 そんなとき、ふわりと嗅ぎなれたアロマの香りがした。ゆっくりと目を開け、アロマの香りがした方に目だけをゆっくりと動かす。

 そこには、私の大好きな彼が小さな寝息を立てていた。その姿が今はとても愛おしくて、ずっと見ていたくなる。できることなら写真に撮りたいが、それができないのがなんとももどかしくもあった。

 仕方ないので、椅子に座って寝息を立てている姿をじっくりと目に焼き付けるように眺めていると、ふと目に入った膝に掛けているマフラーからアロマの香りがするのだと気付いた。


「やっぱりアロマグッズ買えばよかったかな」


 心の中でそう呟いた。私は事故さえなければ、あっくんのためにこっそりクリスマスプレゼントでアロマ関連のグッズを買おうと思っていたが、それどころじゃなくなってしまった。

 クリスマスの約束もペアリングを買いに行く計画も全部流れてしまったことが惜しまれたが、それは目の前のあっくんの存在に比べたら些細なことだ。

 生きている限り、いつでもまた約束や計画を果たす機会はあるのだ。

 しばらくすると、あっくんは静かに目を開け、読みかけの本をそっと閉じる。それからゆっくりと顔を上げた。


「おはよう。あっくん。よく寝てたね」


 声はかすれていたがちゃんと言葉になって届いた。私の言葉にあっくんの目は、みるみる見開いていき、驚きと安堵が混じった表情に変わる。そして最後には今にも泣き出しそうな顔になった。


「……おはよう、りこ」


 その声は私よりも弱々しいものだった。そのことでどれだけ心配をかけたのか察するには十分で、しおらしく「うん」と頷くことしかできなかった。


「寝すぎなのはりこの方だよ。だけど、目が覚めてよかった。もう目が覚めないのかと不安だったんだ」


 いつものように軽口を叩くのに、すぐに辛い本音がこぼれてきた。とっさに私は相槌を打ちながら謝った。


「謝るのは僕の方だ。僕のせいでりこは事故に遭って、こんなことに……僕が全部悪いんだ……」


 あっくんはそう言いながら、深く責任を感じているようだった。

 普通に考えれば、事故に関係のないあっくんが責任を感じることは何もないと感じるだろう。その言葉の真に意味するところは私と彼にしか分からない。

 そして、本当のところ私とあっくんのどちらがより責められるべきなのか、その答えを私は知っている。


 それは私の方だ――。


 もしかしたらあっくんはそのことを知らないのかもしれない。だとすれば、私があっくんに今伝えるべきことは一つだけだった。


「ねえ、あっくん。私はキミが生きてくれてることが嬉しいよ」


 案の定、私の言葉に彼はきょとんとした表情を浮かべ、「……どういうこと?」と、聞き返してくる。


「また最初から、ここから二人で幸せな未来を探そう?」


 これが私とあっくんの今までとこれからに、最も適切な言葉に思えた。

 きっとあっくんは私の言葉の意味を半分くらいしか理解できていないだろう。だけれども、あっくんは何度も何度も頷きいていて、いつの間にか涙を流していた。泣けるくらいには張りつめていたものがほどけていったのだろう。


「ありがとう、りこ。僕はキミを好きになって本当によかった……」


 その言葉に小さく頷いて見せる。

 そして、私はゆっくりと目を閉じ、体が求めるままに眠りのふちへと再度落ちていく――。



 私とあっくんがたどり着いた今は一つの成功の未来なのだろう。

 だけれども、今回のことを含めて、次の別の私たちはもっと最善の未来を選び取ってくれるのだろうと信じている。

 その先で別の困難が待っているかもしれない。だけれども、本質的に未来を選ぶということは出来ないのが普通なのだ。未来は分からないもので、一秒先に起こることですら分からないのが当然で。

 だからこそ、幸せな未来がこの先にあるのだと信じることくらいしかできなくて――。


 何度繰り返しても、どんな未来に行きつこうとも、そのたびにキミに何度でも恋をするだろう。


 そして、今だから分かるが最善の未来に辿り着くための鍵はきっと私が隠し持っていた。

 それは私に見えていたもう一つの世界の形を伝えることができればいいのだろうが、ただ私にとっては、恥ずかしさや照れ、その他もろもろ話せない理由が多すぎる。

 特にあっくんにだけは話すことなんてできないようなもので。



 そんな一人の恋する女の子の物語が、さっき目を覚ますまでの夢の中で上映会のように再生されていた――。

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