命題16.新たな治癒術師 4
焼きたての良い香りがするパンと、よく火を通して食べやすく切ったステーキ。新鮮なサラダと温かくさっぱりとした卵のスープ。
昼食にしては豪華な品々を盆に乗せ、アダムスとステラは、テオ達が休む遮光部屋のドアをノックした。
「はい」と控えめな青年の声が聞こえたのを確認し、二人はいざ、ドアを開けた。
光を遮る漆黒のカーテンをそっとめくり、中を確認する。窓や診察室へ繋がるドアにも、陽光が入らないように分厚く黒い布で覆われた室内は、ランタンの穏やかな灯だけが光源だ。
不思議と、外からの音も遠く感じる。
昼間である事を忘れてしまいそうな、耳にも目にも静かな空間だった。
「やぁ、二人とも! 調子はどうだい?」
アダムスの明るい声が、室内に響いた。
しかし、帰ってきたのは友好的な挨拶ではなく、
「ごめんなさい、その匂い、無理……」
口を押さえて
「アダムス先生。マルテがずっとこんな調子なんだ。ここ数日は俺にも無理して隠してたみたいなんだけど、もう限界だって――」
「えっ!? そういう事は隠さないでよ!」
慌てたアダムスがお盆をステラに渡して、マルテに駆け寄った。
二つのお盆を持った
そろりとカーテンを
「匂いが……前は平気だったのに、今はすごく気持ち悪くて……」
「つわりだね。なんで言ってくれなかったの? 我慢したら身体にもお腹の赤ちゃんにも良くないよ!」
「だって……」
「その、アダムス先生の
「患者は医者に遠慮なんてしなくていいの!」
控え目に怒鳴りながら、アダムスは眉間に皺を寄せた。
顔色の悪いマルテが碧色の目を細め、テオがベッドから身を乗り出して、彼女の様子を伺う。乱れた栗色の髪から覗く紫眼は相変わらず印象的だったが、こちらも頬が少しこけて疲労が垣間見える。
どうも、怪我だけが原因ではない気がした。
「はぁ……僕も気が付かなくて悪かったよ。でも本当に、これから先は気を遣わないで」
呆れた溜息をこぼすアダムスの背中に、テオが問いかける。
「なぁアダムス先生。マルテ、最近変なんだよ。妊娠なんておめでたい事なのに全然元気がない」
「つわりは大抵の妊婦に出るものだから、体調が悪くなるのは仕方ない事だよ」
「そうじゃなくて……身体じゃなくてさ……」
視線を逸らし、歯切れ悪く訴えるテオ。その様子を見たアダムスは少し首を傾げた後、あっと納得がいった様子で頷いた。
「妊娠中は精神的にも起伏が激しくなる人もいるんだ。なんせ、お腹に一つの命が宿ってるんだからね。特にマルテは五カ月目だから、そういった傾向が顕著かも。気分も落ち込みやすくなるけど、一時的なものだから――」
「ねぇ、アダムス先生。今なら、赤ちゃん堕ろせる?」
「えっ?」と三人の声が重る。
そして一拍置いた後、それぞれがマルテに詰め寄った。
「いきなりどうしたの!? 赤ちゃん堕ろすなんて……い、今ならまだできなくはない、けど」
「何言ってるんだマルテ! 何十年も一緒に過ごしてきて、やっと授かった命じゃないか!」
「そうですよ! マルテさんがそんな事言うなんて、らしくないです!」
口々にマルテに疑問をぶつける三人を前にして、マルテはベッドに力なく横になったまま、静かに片腕で目を覆った。
その無気力と
その代わり、マルテの切ないすすり泣きが室内に充満した。
「だって……アダムス先生やステラちゃんも知ってるでしょ? 私たちの生活。
悲痛な叫びに、誰も何も言えなかった。
吸血鬼が外の世界でどんな扱いをされているのか、ここにいる全員がよく知っている。定住だって難しい。そんな環境下で、目も離せない、ただでさえ手のかかる赤ん坊を育てていくことがどれだけ難しいか、幼い弟の面倒を見ていたステラにすら容易に想像できた。
マルテの
「私だって、赤ちゃん産みたいわ。大好きなテオの子だもの……でも、無理よ。だって私、初めて赤ちゃん育てるのよ? 旅しながら、逃げ続けながら育てきる自信がない。きっといつか捕まって殺されちゃうわ……テオも、赤ちゃんもどんな事されるか……。だったら。そうなるくらいだったら、私――!」
「あ、あの!」
つい、声が出てしまった。
皆の視線が、ステラに集まる。それに一瞬驚きつつも、少女は言葉を続けた。
「あの……もしよかったら、
「「「えっ?」」」
突然何を、と言われた気がした。が、マルテの涙に濡れた瞳に少し光が戻ったのを確かに見た。
だから、ステラは構わず続けた。
「だって、ここなら
恐る恐るアダムスの顔色を伺う。
白銀の瞳を真ん丸にしていたアダムスは、少女の視線に気が付くと大きく頷いた。
「そう、そうだね! そうしようよ! ここなら安全に出産できるし、なんなら大きくなるまでいてもいい。いや、君たちなら気が住むまでここにいたって大丈夫だよ! 精霊たちもきっと許してくれる。その代わり、ちょっとだけ治療院の仕事の手伝いをしてくれたら嬉しいな」
「あ、あぁ……そうだな! そうだよマルテ、思い切り頼らせてもらおう。俺も怪我が治れば先生たちの仕事を手伝えるだろうし、夜だけだけど……」
「ね! テオだって家事とかできるでしょ?」
「あ、あぁもちろん! 夜だけだけど……なんなら夜の店番もできるさ。俺は人間ほど睡眠を多く必要としないしな」
男性陣がうんうんと頷き合う中、ステラはマルテのベッドに腰掛け、赤毛の髪を優しく撫でた。
「……もう少し、考え直してみてくださいね……」
「…………うん」
マルテの目に被せた腕のすき間から一筋の涙が零れるのを見て、ステラは小さく胸を撫でおろした。
その後は、テオの湿布の匂いも辛い、でも離れたくないと主張するマルテの意思を尊重して、テオの湿布薬を効果は低いが匂いが少ないものに変えたり、匂いがキツイ――とマルテが感じる――ものを避けて、薄めのスープや果実のジュースを作って飲ませたりと、ささやかながらに奔走した。
そんな事をしていると、いつの間にか午後のお茶の時間すら過ぎていた。
リビングテーブルの席について、アダムスとステラは大きく深いため息を吐いた。
「はぁ……暫くはマルテから目が離せないね。今日の話からすると一応大丈夫だとは思うけど、日中に外出でもされたら、コウモリになっちゃうテオじゃ止められないし」
机に突っ伏した少年治癒術師が、誰に向かってでもなくぼやいた。
そんな彼に、ステラは背中を丸めながら声をかける。
「あの、アダムス」
「ん?」
「すみません……居候の身なのに、勝手な提案をしてしまって」
「あぁ。いいよいいよ。実際にあれが最善策だし、二人や三人増えたって問題ないくらいの甲斐性はあるつもりだよ。あぁでも、テオは吸血鬼だし一家族増えるわけだから、専用の家を作ってもらうのも有りかなぁ……」
ちょっと楽しそうに語るアダムスの様子に、ステラは肩の力を抜いた。
「でも」
一転して、アダムスが真剣な口調で言う。
「今、不老不死がどうとかって話は……とても聞ける事じゃないね」
「あ……そう、ですね」
当初の目的を思い出したステラは、力なく項垂れた。
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