第70話 インボケーション

 闇の女神が地表にその姿を現したのは、千年ぶりのことであった。


 神話の時代にエグゼドスたち七英雄によって封印されて以来、彼女は地の底で闇の信徒の血肉に塗れ深い眠りについていたのである。


 だが今、祭壇のユウキを依代として、彼女のエネルギーが地表に顕現されつつあった。


 それは人間に例えれば小指の先程度のわずかな一部分が現れたに過ぎなかった。


 だというのに観客と視聴者の目から速やかに正気の光が失われていった。


「ん……いけない!」


 VIP席の姫騎士ココネルが立ち上がった。いつも無表情なその顔に初めて焦りを浮かべている。


「あの闇の波動、浴びると頭がおかしくなって殺し合いが始まってしまう。ゴゾムズ……守って!」


 ココネルが神に祈りを捧げると、祭壇が光のフィルターによって覆われた。神々しい輝きを発するそのフィルターによって闇の波動が弱まり、観客の目に正気の光が戻った。


 しかし刻一刻とユウキは闇の女神に侵食されていく。


 オークの体液に塗れたユウキの全身が、地獄から立ち登る禍々しいエネルギーに覆われていく。


 シオンが叫んだ。


「ユウキ君! 気をしっかり持って闇の女神に抵抗するんだ! 君が飲み込まれたら世界は終わるよ!」


 しかしユウキの正気は急速に闇の女神に侵食されていった。


 闇の女神に吸収されながらユウキの脳裏に浮かんでいたのは、小学生のころの思い出だった。


「どうしてこんなことになったんだろう……なぜオレはここに来て、自分をこの祭壇に捧げたんだろう……」


 その疑問への答えが、懐かしい思い出の中に隠されている気がした。


 *


 のぞみの転校後、ユウキは放課後は誰とも遊ばずに下校するようになった。


 重いランドセルを自室に投げ込むと、すぐに近所の寂れた公園に向かった。


 そしてひとり公園のベンチに座り、自分自身に憎しみを向けた。


「…………」


 自分を罰したかった。


 誰かに傷つけてほしかった。


 だがこの寂れた公園にひとけは少なかった。


 そこでユウキは放課後の夕焼けの中、自分に苦痛を与えてくれる他者を想像した。


 他者……それはベンチの周りに立つ薄らぼんやりした影として想像することができた。


 ユウキは自らが想像した影に取り囲まれ、影から苦痛を吸収した。


 影は黒い蛇のようなものをユウキに伸ばし、それを通して苦痛を送り込んでくれた。


 影は大量の苦痛のストックをその内に抱えており、ユウキは放課後に何時間もベンチに座ってそれを吸収した。


 何ヶ月も公園に通い続け、十体の黒い影から苦痛を流し込まれるという想像を続けた。


 影たちから苦痛を受け取るごとにユウキのオーラは濁り、発する雰囲気は暗く重くなっていった。


 暗雲のようなそのオーラにより、同級生との間に分厚い壁が生じ始めた。


 やがて同級生とも、教師とも、家族とも、コミュニケーションが成立しなくなった。


 それにつれてユウキのコミュニケーションスキルは日ごとに低下し、最終的には誰とも会話を成立させることができなくなった。


 それはユウキにとって望むところだった。


 もっと孤独になりたかった。自分を罰するために。


 そのために暗い影からもっと沢山の苦痛を吸収するつもりだった。


 それが自分に好意を向けてくれたのぞみを傷つけたことの罰だ。


 しかし……。


 十体の影から苦痛を吸収し続けること数ヶ月……影たちが持っている苦痛のストックが切れた。


 影が抱えていた闇をすべてユウキが吸収してしまったのだ。


 影はもはや蛇のような管を通して苦痛を送り込んでくれず、ただ妙にスッキリした雰囲気で自分の周りに漂っているだけになった。


 ユウキは自分を苦しめる方法を見失い、途方に暮れた。


 しかし幼い想像力の限界により、新たな苦痛のソースとなるイメージを公園に呼び出すことはできなかった。


 仕方なくユウキは影たちと別れ、ブラックホールのような高圧の闇を心に抱え、公園のベンチに座っていた。


 そんなある日のことだった。


 もうすぐ世界が破滅するという噂が教室を駆け巡った。


 近い未来、『恐怖の大王』なる存在がやってきて、人類は絶滅するとのことだ。


 教室に飛び交うそんな噂を、ユウキは机に突っ伏して寝たふりしながら小耳に挟んだ。


『恐怖の大王』なる単語はユウキの想像を大いに掻き立てた。


「…………」


 その日の放課後、ユウキは走って下校しいつもの公園のベンチに座ると、目を閉じて祈った。


 恐怖の大王よ……今ここに現れて、この僕を苦しめてください。

 

 そう願いながら、ユウキは使い古された十体の影のイメージの代わりに、『恐怖の大王』をベンチに腰掛けてひたすら想像し、心のスクリーンに呼び起こそうとした。


 その日はまるでイメージが結ばず、ユウキは諦めて帰宅した。


 翌日には多少、恐怖の大王らしきおどろおどろしいイメージを想像することができた。


 さらに翌日には、心の中でその存在と会話できるほどにイメージが鮮やかになってきた。


「こんにちは」


 放課後、ユウキはいつもの公園のベンチで夕日に照らされて目を瞑りながら、恐るべきイマジナリー殺戮拷問者に向かって挨拶した。


 すると、思いもよらぬ言葉が返ってきた。


「こんにちは。異世界の少年よ」


「異世界?」


「私が眠る場所から見て、少年は上方の異世界にいる」


「なるほど。つまりあなたは……恐怖の大王は……僕の世界から見て下……言ってみれば地獄みたいなところにいるってことだね」


 現実生活の中ではすでに発声器官が退化したと思えるほど誰とも会話できないユウキだったが、想像の中ではすらすらと、恐怖の大王と対話できた。


 大王はうなずいた。


「その通りだ。下方の世界のさらに地の底……真の地獄に私は封印されている。だが私は大王ではない。女神だ。確かに『恐怖』を司ってはいるが」


「変だな。僕が今想像してるのは、もうすぐ世界を破滅させるという恐怖の大王のはずだけど」


 しかしユウキの想像上の会話相手はかたくなだった。


「私は大王ではない。闇の女神だ。あまたの邪神たちの母であるが故に。より詳しく説明するなら、私は闇の女神の本体ではなく、あくまで諸三千世界の闇の徒と交流するための対人インターフェイスに過ぎないのだが、便宜上、私を闇の女神と呼んでもかまわない」


「よくわからないけど……まあそれでいいよ……闇の女神……あなたにお願いがあるんだ」


「私は人間のいうことなど聞かぬ」


「まあそう言わず……お願いです、僕を苦しめてください」


「話を聞いているのか? 私は人間の願いなど……いや、少年よ、今なんと言った?」


「僕を苦しめてください。僕は罪深い人間なんだ」


「笑わせるな。人間の罪深さなどたかが知れている」


「いや、僕は相当に罪深いよ」


「話してみろ」


 ユウキは想像上の恐怖の大王……いや、自身を『闇の女神』と主張するその存在に、自分が犯した罪を語った。


 自分に好意を寄せてくれた少女を傷つけてしまった……それがユウキの罪だった。


「でも僕自身では僕の罪を裁くことができない。だからあなたに僕を罰してほしいんだ」


「ふむ……」


「ダメかな?」


「さきほども説明した通り、闇の女神の対人インターフェイスたる私は、諸世界に住まう闇に惹かれる闇の徒と交流を持っている。黒魔術の儀式の中で、夢の中で、或いはこのように白昼夢の中に意思によって呼び起こされて……私はあまたの闇の徒と話をする」


「それで?」


「私が交流する者の多くは自らの魂を捧げる代わりに、闇の力を得ようとする。だが少年のように、ただ純粋に自らを苦しめようとする者は珍しい。驚いたぞ」


「それで、どうなの? 僕の言う事、聞いてくれるの?」


「ふむ……いいだろう。だが……ただで願いを叶えるわけにはいかない。交換条件がある」


「条件? 言ってみてよ」


「それは少年の人生を丸ごと私に捧げることだ」


「捧げるとどうなるの?」


「少年はやがて私の元に導かれる。そして私の復活のための生贄となる」


「それによって僕は何を得られるの?」


「少年が求めている苦痛を今、与えよう。この取引を望むのであれば」


「ははは。どうせこんなものはただの空想だからな。望みます」


「忠告しておくがこれは空想ではない。この対人インターフェイスを通して、少年は地獄の中で夢見る女神と接しているのだ。恐るべきすべての邪神の母なる女神と」


「だとしたらなおさら僕は取引を望みます。僕は自分を思いっきり傷つけて罰することを望んでいるんだから」


「では……今……呪いを与えよう。この呪いにより、少年はより一層他者と隔絶され、夢を叶えることが不可能となる。そして満たすことのできない欠乏感に苛まされて生きることになる。だが……本当にいいのか? 少年に不利しかないこんな取引……」


「いいよ。僕は罪を償わなければいけない」


「では……」


 夕日の中、対人インターフェイスはユウキに近づいてくると、そのねじくれた鉤爪でユウキの心に傷をつけた。


「うっ……」


「痛いだろう。これが闇の女神との契約の証だ。この傷は少年が自らを女神に捧げ尽くすそのときまで熱と痛みを持って心の底で疼き続ける。この呪いにより少年は心から欲しいものを決して手に入れることができず、何をしても癒やされぬ虚しさと欠乏を抱き続ける」


「い、いいよ。望むところだ」


「ならば見よ。今……少年の心に焼き付けられたこの呪いの紋章を」


 ユウキが自らの心を覗き込むとそこには禍々しい紋章が刻み込まれていた。


 その紋章は赤い血を流しており、ユウキが見ている前で形を変えていった。


「この呪いは地獄に同調しており、そこでの演算によってリアルタイムに進化していく。それゆえに、解除はできない。少なくとも、地獄が浄化されるその日まで」


「はいはい」


「解除できぬこの呪いが、少年を地獄へと引き寄せる。その途上で少年は多くの力を得るかもしれない。もしかしたら地獄を溶かす光の力をも」


「ははは。光なんて。そんなもの僕は欲しくないよ」


「いいのだ。見返りを求めずただ自らを地獄に捧げようとする真の闇の徒よ。ときに光と戯れるがいい。そしてその無限の力をも利用して、闇の女神の元ににじり寄るがいい」


「わかったよ……」


「そして……いつの日か私の元にたどり着いたなら、闇の女神の名を呼ぶがいい。それを持って少年が自らを私に捧げる最終契約としよう」


「名前? なんていうの?」


「私の本体はあまたの世界で無数の名前で呼ばれている。少年も好きな名前を私につけるがいい」


 小学生のユウキは考えた。


 自分の想像の中に生まれた、この存在の名前を。


 やがて閃いたこの存在にふさわしい名前を、ユウキは口にした。


 この記憶はこれまで封印されていた。


 だが今、この記憶は解凍されて、ユウキを戦慄させていた。


 ここは異世界のソーラルの中央広場の祭壇だ。


 夜空は魔法の光に輝き、祭壇は魔法陣に照らされている。


 そこは虚脱した百人のオークと、恐怖に震える半裸の双子と、恐るべき悪魔と邪神の影によって満たされている。


 その真ん中でユウキは今、かつて自分が名付けた存在と対面していた。


 対面、いいや……自分の中に流れ込んでくる。禍々しい闇のエネルギーが地の底から湧き上がり、それがユウキの体内にどくどくと音を立てて流し込まれてくる。


 その粘度の高い闇がユウキの脳に達した。


 そのときユウキは懐かしい声を聞いた。


「久しぶりだな、少年」


「あ、あんたは……」


「闇の女神の対人インターフェイスだ」


「バカな……あれは夢……ただの想像だろ? 小学生のオレが異世界からあんたを呼び出しあんたと契約したなんて……」


「夢というなら夢だろう。あまたの世界も夢なら、そこで生きる少年自身が夢だ。その夢を支配するのがこの私だ」


「支配……だと?」


「ああ。少年よ……お前は良い操り人形だった。お前はここまで私によって操られていたのだ。人生すべてを」


「ば、バカな……今までの冒険全て……ナンパしようと思ったことも……すべて操られてのことだというのか?」


「かつて私が少年に与えた呪い……それが少年を約束通りここまで導いたまでのこと」


「まさか……そんな……」


「痛み、欠乏、それを埋めようともがく虚しい努力……それが闇の徒の原動力だ。欲しいけれど手に入らない。手に入らないから努力する。そのすべてのサイクルが少年をここに導いたのだ」


「…………」


「恥じることはない。真正なる闇の徒として少年はよき働きをしている」


「嘘だ……オレは……オレは……魂の衝動に従ってここまで歩いてきたはず。自分の意思によって」


「そうだろうか? 魂を知り、その導きに従って生きる者は宇宙と繋がり、他者と繋がる。そのような者がなぜ、他者からの優しさを拒絶し、その者を傷つけるだろうか?」


「…………」


 ユウキは小学校で美しい少女にもらった筆箱を廊下に叩きつけたことを思い出した。走り去るのぞみの目に浮かぶ涙の輝きと自らの救われぬ暗さを思い出した。


 どくどくと心臓が波打ち、呼吸が浅く、早くなる。


「こっ、こんなときはスキルだ。スキル『深呼吸』発動……」


 だがまったく効果が見えない。


 鼓動は狂ったように高鳴っていく。


 心拍数を確認しようとApple Watchを見るが、そのディスプレイはあまりに小さく、そこに表示されているのは訳のわからない見たことのない言語と記号で意味が掴めない。


「さあ……魂と切り離されし少年よ。今、かつての約束に従い、私が恐怖によって少年を罰そう。永遠のその罰を願うなら、今こそ私の名を呼ぶがいい」


 夢の中でこの通路の先に恐るべき恐怖が待っていると知っていても、そこに向かって歩くことから逃れられない。そんな悪夢に閉じ込められた者のように、ユウキは闇の女神の名を口に出しかけた。


「…………」


 だが全力で口を閉じる。


 この名を口に出してはいけない。


 だがその口に、胸に、肺に、全身の筋肉を制御する神経に、脳に、闇が染み込んでいく。


 ユウキの口が小さく開き、ついにそこから声が漏れた。


「アンゴルモア……」


「契約はここに成就された」


 瞬間、かつてユウキの胸の奥に刻み込まれた女神の紋章、呪いの傷跡が音を立てて破けた。


 そしてそこから熱い鮮血が勢いよく吹き出し始めた。


 鮮血はユウキの胸から全身へと溢れて広がった。


 その血が女神を受肉させていく。


 それに伴って祭壇上にうごめく悪魔、邪神の影が実体化を始めた。


 VIP席のシオンは脱力してうめいた。


「終わった……僕たち……何もかも……」


 誰の返事もない。


 客席の皆は魅入られたように息を呑んで祭壇に顕現する女神の受肉を眺めていた。

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