第7話 シオンの性

 しばらくの沈黙ののち、湯気の奥から小さな声があがった。


「そっちに行っていいかい?」


「お、おお……声が届かないからな」


 シオンは湯の中に体を沈めたままこちらに近づいてきた。


 ユウキは緊張と興奮を同時に感じた。それを紛らわすために声を発する。


「お前……風呂とか食事とか、必要無いんじゃなかったか」


「うん。少し前まではね。高レベルの魔術師は人間を超えてるからね」


「今は必要があるのか?」


「少しね……ユウキ……君のせいだよ」


「は?」


「僕は闇の塔に深く心と体が繋がってる。その塔に、ユウキが繋がってきた。だから僕は塔を介してユウキの影響を受けてるんだ」


「…………」


「ふふっ、そんなに悪くないものだね。こういう低レベルな物理的活動も」


 シオンは手のひらで湯を掬うと、指の隙間から溢れるそれを興味深げに眺めた。


「魔法を使わずに薪を割って、魔法を使わず水を温めたんだ。こんなこと、何年ぶりだろう……疲れたけどなんだか気持ちがいいよ」


 シオンは両手を上げて大きく伸びをした。


 一瞬、暗闇の中に彼の上半身が浮かび上がった。


 ユウキの視線に気づいたシオンは、すぐ湯に体を沈めた。


「…………」


 首まで湯に浸かるとシオンは言った。


「ユウキ君……きっとすぐにまた新しい魔物がこの塔に攻めてくるよ」


「そうか……」


「でもね……僕は頑張っていこうと思う。いつまで持つかわからないけど、一日でも長く、ね」


「前向きだな」


「うん……ユウキ君に言われて、今の僕にできる楽しいことを探して、やってみた。それはお風呂に入ることだったんだ」


 シオンはまた湯を掬った。


「そしたらね、明日の命もわからないこんな情勢だけど……なんだか楽しくなってきたんだ……なぜだろう」


「……楽しいことをやったからじゃないか?」


「そ、そうか! 楽しいことをすれば楽しくなるんだね! 魔術以外でも!」


「…………」


 慣れない肉体労働のせいでシオンの知能指数は低下しているのだろうか。


 楽しいことをすれば楽しくなる。


 楽しくなれば生きることに前向きになれる。


 それは当然のことだ。


 何を当たり前のことを言ってるんだ、この男は。


「…………」


 だが……ユウキはふと自分の人生を振り返った。


 オレはこの人生で、どれだけ自分が楽しくなれることをしてきただろう? 


 オレの半生は楽しくも苦しくもない灰色の停滞の中に埋もれていた。


 シオンも頑張って風呂を炊いたりして気分を盛り上げてるというのに。


 何をやっているんだオレは。


 もっともっとオレもやりたいことをやっていこう。


 たとえスキルが使えなくても。


「…………」


 というわけでユウキは今この瞬間、一番やってみたいことをやる覚悟を固めた。


 ゴクリと生唾を飲み込んでから口を開く。


「なあ……話は変わるが」


「なんだい?」


「お前さ……」


「うん」


「…………」


「ど、どうしたんだい?」


 ダメだ。


 これ以上、先に進むことができない。


 明らかにオレはシオンのかわいさに惹きつけられている。


 だが、それに対して何をどうすればいいのかわからない。


「はあ……まあいいか」


 ユウキはひとつため息を着くと湯船に身を沈め、空を仰いだ。


「…………」


 夜空に満天の星が広がっていた。


 その数えきれない瞬きを浴びて、ユウキは気づいた。


 そうだ……楽しいことは一つだけではない。


 毎瞬、いたるところに、いくつもの種類の楽しいことが転がっているのだ。


 あの空の星々のように。


 強く眩しく輝いている星もあれば、よく目を凝らさなければ見つけられない仄かな輝きの星もある。


 そのどれもが、オレに見出されることを待っているのだ。


 どれかひとつの楽しさに執着することはない。どれかひとつのやりたいことにこだわることはない。


 心を広く持ち、柔軟な意識で、見つけるんだ。


 人生の中に輝いている楽しさを。


 今このとき受け取れる喜びを。


 活路はそこにあるはずだ。楽しさの中に。


「…………」


 隣のシオンも湯船の縁に頭を載せて空を仰いだ。


 二人は並んで星を見ていた。


 *


 しばらくすると湯が冷えてきた。


「お前、先に上がれよ」

 

「ううん。ユウキ君が先に出なよ」


「オレは……もっと風呂に入ってたいんだ」


「ぼ、僕もだよ」


 だがどんどん本格的に湯が冷えてきた。


 早く出なければ風邪を引いてしまう。


 しかし風呂から上がることはできない。


 なぜなら……。


「…………」


 哲学的なことを考えて高尚な気分に浸りなりながらも、ユウキの肉体の一部はシオンのかわいさに連続的に反応し続けていたからである。


 そんなものを見せるわけにはいかない。


 ユウキはスキル『深呼吸』を発動し肉体の昂ぶりを沈めようとした。


 だがスキルシステムは依然としてダウンしており、ユウキは荒い鼻息を立てることしかできなかった。


 シオンは上目遣いでこちらを見た。


「もしかして僕に体を見せるのが恥ずかしいのかい? そういうことなら、僕……目をつむってるよ」


「そ、そうか。それなら先に上がらせてもらうか」


 ユウキはシオンのかわいさに強く反応し続けている肉体を湯船から上げると、急いで作業着を着ようとした。


 だがそのときだった。


「うおっ!」


 思わず悲鳴が漏れた。


 魔物の襲来だ!


 人型の魔物が一体、雑草の藪の奥、暗闇の中から姿を表したのだ!


 魔物はユウキに向かってゆらゆらと体を揺らしながら近づいてきた。


 その人型の魔物の皮膚はところどころ破け、片目が眼下からこぼれ落ち、肋骨が露出していた。


「なんだこれ、ゾンビかよ!」


 そのゾンビ状の魔物は両手を広げるとユウキに被さるように襲いかかってきた。


「もう魔物が来たなんて! 下がって、ユウキ君!」


 シオンは湯船から飛び出るとゾンビの前に立ちはだかり、両の手の平を組みあわせて呪文を唱えた。


「炎の奔流よ、いまここに溢れ出し、あいつを燃やせっ! 」


 瞬間、シオンの手の平から扇状に炎が広がりゾンビを包んだ。


 ゾンビは松明のように燃え上がりながら、なおも数歩歩いて崩れ落ちた。


 その炎に照らされて……ユウキとシオンは全裸で向かい合った。


「えっ?」


 シオンはユウキの肉体の一部を見て驚きの声を発した。ユウキの肉体の一部は戦闘時にあっても、シオンのかわいさに強く反応し続けていた。


 一方、ユウキも声を発した。


「あっ!」


 炎に照らされたシオンのなまめかしい体、その胸の柔らかそうな膨らみを見て、ユウキは驚きの声を発した。


 *


 野天風呂から塔に戻る道すがら先に沈黙を破ったのはユウキだった。


「お前、女だったのかよ……」


「べ、別に僕は女じゃない」


「じゃあ何なんだよ。男なのか?」


「そのどちらでもないよ。ううん、正確には……そのどちらでもある、かな」


「は?」


「僕は極めて高レベルの魔術師だからね、性別を超越してるんだ」


 つまり……男でもあり、女でもある、ということか?


「でもお前……最近、あからさまにかわいくなってるだろ」


「えっ? そんなことないと思うよ……」


 シオンは顔を赤らめた。その反応がすでにかわいい。


「でも……もし本当に僕の女性性が強まってるとしたら……それはきっとユウキ君のせいだよ」


「は?」


「男性性を強く持つユウキ君が塔に繋がった。それで僕の女性性が強まったのかもしれない。塔はシステム全体のバランスを取ろうとするからね」


「別にオレ、男性性を強く持ってないぞ」


「そうかな……」


 またシオンは顔を赤らめた。


「…………」


 ユウキも自分の頬が紅潮していくのを感じた。


 *


 夜遅くにゾンゲイルとラチネッタが帰ってきた。


 ラチネッタは星歌亭でゾンゲイルのステージの手伝いをしてきたという。素晴らしいステージであったという。


 ゾンゲイルは高スピードで食堂を立ち回り夕食の準備を整えた。ラチネッタも手伝おうとすると、ゾンゲイルは自分の仕事を守るように威嚇した。


 皆で夕食を摂った。


 沢山の見事な料理の載ったテーブルでは、さきほど屋外で魔物に襲われたことなどが話題に上がった。ゾンゲイルは過剰反応したがユウキが落ち着かせた。


 今後も断続的にやってくる魔物を、どう撃退していくかについて対策が立てられた。


 今夜、さいわいなことに、ユウキの会食恐怖は出てこなかった。


 それよりもシオンの性に関することが気がかりだった。


 ドキドキする気持ちが食中、食後もずっと続いている。


 それを忘れようとして、自室に戻ったユウキはスマホをいじった。だが炎に照らされたあのなまめかしい曲線が脳裏に焼き付いて離れなかった。


「…………」


 深夜、ゲストルームに寝巻き姿のシオンがやってきた。


「ちょっといいかい?」


「あ、ああ……」


 彼はベッドの端に腰掛けると言った。


「ユウキ君……体の見た目がどうなろうと僕は僕だよ」


「……わかってるさ」


「ふふっ、これからも今まで通り頼むよ」


「も、もちろんだぜ」


「よかった。ありがとう」


 シオンはぱっと笑顔を浮かべると手を伸ばしてきた。


 ユウキはその手と握手した。


 だがシオンのその笑顔と体温に、再度ユウキの肉体は強く反応した。


「…………」


 眠れぬ夜、ユウキはスマホをいじり続けた。

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