第5話 パニック猫人間
ユウキは思った。
(たかが指輪ごときで自分の姿が他人から見えなくなるわけないだろう)
また、こちらの世界の常識に照らしても、『不可視の指輪』などというかなり貴重そうなアイテムを、一介の労働者が持っているのは不自然である。
となれば答えはひとつだ。
ユウキは猫人間を哀れんだ。
噴水広場のストリート・チルドレンは、『自分は巨万の富と知恵の持ち主である』という妄想に飲まれて現実を見失っている。
またこの猫人間は、ただの指輪を『不可視の指輪』だと思い込んでいる。
ストレスのせいだろうか。
あるいは……。
猫人間は春になると発情し頭がおかしくなるらしいが、すでにその影響が出始めているのか?
なんにせよかわいそうなことである。
だが人を哀れんでいる場合ではないのだった。
そう……一刻も早く闇の塔へのポータルを見つけなければならない。
もう正午を過ぎた。
今日の夕方、あと数時間後には、樹木の妖魔が闇の塔へと辿り着く。
そうなればシオンはおしまいだ。
この世界もおしまいだ。
その前になんとかして大穴の迷宮、第二フロアへと潜り、座標5・7の隠し部屋とやらにあるらしいポータルにたどり着かなければならない。
そんなこと可能なのか?
わからない。
だがとにかく移動しなくては。
まもなく全労働者は大穴から閉めだされるわけだが、内部に何とかして留まらなければ。
「そ、そうだ、小部屋のどこかに隠れよう」
大穴出口の壁際でしゃがんでいたユウキは立ち上がりかけた。
ラチネッタはユウキの服の裾を握り直すと鋭く言った。
「ダメだべっ! ただ隠れても見つかってしまうべっ」
「な、なんでだよ」
「安全のため監督たちが光の魔法で、大穴に人が残っていないか確認するんだべ。その魔法からは何人たりとも隠れられないべ」
「万事休すか……」
「んだどもおらに触れられてる限り、大丈夫だべ! おらたちは今、この指輪によって魔法からも完全不可視化されてるべ!」
「ほ、ほんとなのかよ、それ」
「この指輪の力、ユウキさんに見せてやるべ」
ラチネッタはユウキの裾をひっぱりながら、かかとを浮かせ、しなやかに移動を始めた。
「どこに行くんだ?」
「もっと小声で話してけろ。姿は見えなくなっても、声は周囲に丸聞こえだべ」
「……わかった」
ラチネッタはユウキの裾をひいて、現場監督とそのチームが終業の始末をしている入り口広場を横切ろうとしていた。
その際、監督のすぐ脇をすれ違った。
だが監督は床に敷かれたゴザを丸める作業を続けるだけで、ラチネッタとユウキには目もくれない。
いや……監督は丸めたゴザの端を持つと、いきなり顔を上げて言った。
「そっちの端、持ってちょうだいねー」
ユウキは思わずはいと返事をしてゴザを持ちそうになったが、猫人間に口を塞がれた。
(うっ……)
その二人の斜め後ろからいかつい大男が近づいてきた。
彼は丸められたゴザの端を抱えた。
「ありがと、バックス」
「うっす。ユズティさん。今日もおつかれさまっす」
市政府の制服を着た大男と監督は、ゴザを広場の隅にしまった。
「まだですよー。最後に、迷宮に誰も残っていないか確認しないといけませんからねー」
監督は手を広げて瞑ると呟いた。
「真実を明かす光よ。このフロアを走査せよ」
瞬間、迷宮の天井を貫いて上の方から透明な光が降り注いだ。
かと思うと、監督を中心にしてレーザーのような光線が全方位に広がっていった。
「どうすっか、ユズティさん」バックスなる大男が聞いた。
目を開けると監督は言った。
「ええとー……はい、人間は残っていません」
「じゃあこれで今日は終わりっすね」
「うーん。なんだか、もやもやしたものがこのフロアにいるみたいだけど、不可視でよく見えないんですよねー……」
「湧き途中の不定形なモンスターじゃないっすか?」
「きっとそんなところですねー。この光の魔法から隠れるには、『大盗賊ミカリオンの指輪』でも無い限り無理でしょうからねー」
「ははは、違いないっすね。じゃあ……ユズティさん、昼飯どうします? 近くに定食の店ができたらしいっすよ。量が多くてうまいらしいっす」
「いいかもしれませんねー。行ってみましょうか、バックス。今日は休みかもしれないけど……」
監督とバックスはその後も細々とした後始末をすると、監督チームの他のメンバーたちと共に、迷宮出口から外に出ていった。
「…………」
ガランとした無人の広間に、今、猫人間とユウキだけが取り残されている。
「もう声を出してもいいだぞ」
「う、疑ってすまなかった。その指輪の力……本当だったんだな」
「いいべ。んだどもこれでユウキさんには知られてしまったべ。おらの素性」
「素性? ……春に発情するんだろ、猫人間として」
「その話じゃないべ! そのことは今は忘れてけろ!」
猫人間は顔を赤くし手と尻尾を振ってわめいた。
「わかったわかった、忘れるよ。いちいち意識してたら変な気分になるからな」
「……それでいいべ。それで……さっき監督が言ってたべ。この指輪のこと」
「ああ、『大盗賊ミカリオンの指輪』がどうのこうのって。それが、その指輪なのか?」
「んだ。そしてこの指輪を持つおらは……」
「その大盗賊の関係者、ということか?」
「まあそういうことになるべ。んだども怖がらねえでほしいべ」
「怖がるもなにもよくわからないな。『大盗賊ミカリオン』って有名なのか?」
「七英雄のひとりだべ」
「七英雄ってたまに聞くけど、何した人たちなんだ?」
「邪神を封印した英雄たちのことだべ! どこの街でも村でも学校で習うだぞ」
呆れ顔で猫人間がユウキを見る。
「も、もちろん、知ってるよ」
「ほんとだべか……」
猫人間はいぶかしげな目でユウキを見ながらも、さきほどまで仕事で往復していた長い通路へと彼を導いていった。
「こっちだべ。小部屋に湧いたモンスターが、たまに廊下に出てくるから気をつけるだぞ」
「まじかよ。大丈夫なのかよ」
「はっきりいって危険だべ。監督たちが午後に『大穴』を完全封鎖するのは、おらたち作業員の安全のためだべ」
「言っとくけどオレ、戦えないからな。昨日、『オレが守ってやる』って言ったのは、あくまで精神的な意味であって……」
「わかってるだ。冒険者でもねえあんたに戦闘力は期待してねえだ」
「ということは……もしかしてラチネッタ、実は強いとか?」
「おら、素早さと器用さと動物的直感には自信があるべ。んだども戦士みてえに戦うことはできねえだぞ」
「ど、どうするんだ? ヤバくないか?」
質問するまでもなくヤバい状況だ。
さきほどの労働時間では班に一人、武装した冒険者がいた。
冒険者は小部屋内に湧くモンスターを、事も無げに処理していた。
しかし今、この通路を歩いているのは、高い敏捷性を感じさせるがあくまで丸腰の猫人間と、基本、体育が苦手だったユウキのふたりだけである。
もしあのドロドロした不定形のモンスター一匹にでも襲われたら、いきなり命の危険がありそうだ。
「実際ヤバいべ。この指輪が無ければ命がいくつあっても足りねえところだべ」
「そうか、なるほど……まだオレたちは指輪の効果で不可視化されてるんだな。モンスターからも」
「んだ。だからオラから絶対に離れるんでねえど」
猫人間はユウキの裾を掴む力を強めた。ユウキは体温を感じられる距離まで猫人間に近づいた。
その状態で長い廊下を歩きはじめる。
「…………」
通路の壁では魔法の松明が燃えているが、大勢の作業員と冒険者で賑わっていた仕事時間よりも、今はずっと暗く感じられる。
そして迷宮の廊下は果てしなく長い。
コツコツという自分たちの足音が、廊下の石畳にやけに大きく響く。
「…………」
閉所恐怖症のたぐいは持っていないはずだったが、ユウキはだんだん左右の壁から圧迫感を覚えはじめた。
「おい。なんだか怖くなってきたぞ」
「『大穴』は闇の迷宮。第一層であっても恐怖を煽る魔法が効いてるべ。お、思ったより効果が強いべ」
「恐怖を煽る魔法……だと? ヤバくないのか?」
「ヤバいべ。長時間、その効果範囲内にいると正気を失って恐慌状態に陥るべ」
(なるほど。迷いの森みたいに、このフィールド全体にマイナス効果のある魔法がかかっているんだな)
そう理解したものの、それで恐怖が薄れることはなかった。
一歩、足を進めるごとに、わけもなく回れ右して、走って逃げ出したい気持ちが高まっていく。
「し、仕事中はぜんぜん平気だったぞ」
「そ、そりゃそうだべ。ユズティさん……現場監督がどえらい高位の光の魔法で、おらたち全員を加護してくださってたおかげだべ」
その加護が無いと、迷宮はこんなにも恐ろしいものなのか。
「や、やっぱり帰るべ! オラたちには無理だべ」
いきなり恐慌状態に陥ったのか猫人間が足を止めた。
目に涙を溜め、尻尾の毛を逆立てている。
パニックを起こしたのか。
「まあ落ち着けよ……」
そう言いつつもユウキにも恐慌が伝染してくる。
廊下の前方や小部屋の扉から、何かとんでもなく恐ろしいものが現れる気がする。
ホラー映画の登場人物になった気分だ。
今すぐ逃げなければ……。
だがユウキは歯をぐっと食いしばりその場に踏みとどまった。
そう……オレはこれより遥かに恐ろしい状況をこの身でリアルに体験したことがある。
状態異常『恐慌』によって朦朧としながらもユウキは考えた。
そうだ……スグクル配送センター。
あの恐るべきフィールドに、オレは三時間も耐えたのだ。
勇気を出せ。
真のリアルモンスターが跋扈していたスグクルに比べれば、こんなまやかしの恐怖など、どうということはない!
だが……。
「もうダメだべ! 逃げるべ! 早く逃げるべっ!」
猫人間が完全にパニックに飲まれた。
彼女はユウキの手を引っ張って獣のごとく駆け出そうとしていた。
触れた肌から強い恐怖が伝染してきてユウキまで逃げ出したくなる。
その恐慌の中、ユウキは辛うじて理解した。
そうか……恐怖の中を前進するには、オレひとりだけが落ち着いていてもダメなんだ。
一緒に進む者の気持ちを安定させてあげなければいけない。
このオレが。
だがどうやって?
猫人間からは強い動物的恐怖が伝わってくる。
気を抜けばすぐにオレまで恐怖に飲まれ脱兎のごとく廊下を逆方向に駆け出しそうである。
そんな状況で、どうすれば猫人間を落ち着かせることができるんだ?
わからん。
だがまずはとにかくオレ自身をひたすら落ち着かせることだ。
話はそれからだ!
ユウキはスキル『深呼吸』を発動した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます