第9話 塔主の指輪

 性的禁欲という新たな苦行のネタを見つけたアトーレは、暗黒の力を取り戻したらしい。


 見る見る間に淀んだオーラがアトーレの周囲にわだかまっていく。


 さきほどまで人間としての自然な魅力や、哺乳類としての生命力を発散していた少女は、今、どんよりとした、人として何かが間違っている雰囲気を発していた。


 しかし彼我の距離は近い。アトーレもユウキもいまだシングルベッド上に位置している。


 手を伸ばせば届く距離にアトーレの肉体がある。


(馬鹿な! 何が暗黒だ。そんなもの間違っている!)


 ユウキはもう人間の男としてのナチュラルな衝動に全てを任そうと思った。


 アトーレの暗黒が貯まらなければ彼女に助っ人を頼むことができず、結果、塔は樹木の妖魔に破壊され、世界が崩壊する……。


 だがオレは世界の運命よりも今この瞬間のベッドの上での真実を大事にしたかった。


 今ここにある真実、それはオレも、そしてアトーレも、互いの肉体を貪りあいたいと思っているということだ。


 スキル『共感』によって彼女の強い欲望が感じられているのだ。我慢しようなどと思ったところで、熱くたぎる欲望は互いの体の中でどくどくと脈を打って強まり続けているのだ。


「だから……」


 ユウキはアトーレににじり寄り、その瞳を見つめた。


 今、瞳は暗く淀んでいるが、その奥にまだ熱が消えずくすぶっているのが見えた。


「アトーレ……」


 ユウキは彼女の首筋に手を回し、その顔を引き寄せた。


「あ……ダメですよ……」


「いいから……」


 唇が近づいていく。


 唇が触れ合ってしまえばもはや禁欲がどうこう、暗黒がどうこう、世界の運命がどうこうなどという小賢しい考えは二人の間から永遠に消え去るだろうと思われた。


 そしてオレとアトーレは世界が終わるまでこのベッドの上で互いの体を求め合い続けると思われた。


 だがそのとき……。


「警告。スキル『無心』、発動限界に達しました」


 ナビ音声の警告と共に、ユウキに通常モードの自意識が戻ってきた。


(…………)


 自然に流れるようにアトーレを引き寄せていたユウキの手は今、かつて感じたことのない凄まじい緊張と葛藤によってブルブルと細かく震え始めた。


 同時に脳裏に、樹木の妖魔によって破壊される塔と、塔の下敷きになって潰れるシオンの哀れな姿がありありと想像された。


 ユウキは心の中で叫んだ。


(だがそれがなんだって言うんだ! こんな機会、もう二度と無いかもしれないんだぞ。『一目惚れ』の相手との、こんな機会……もう二度と……うわああああああああああああああ!)


 四方へと千々に引きちぎられるかのごとき葛藤がユウキを心の中で絶叫させた。


 心の中でのその叫びは、やがて物理的にユウキを嗚咽させた。

 

「うっ、うっ、ひぐっ……」


「ど、ど、どうしたのですか? ユウキ……」


「ひぐっ。うっ、ううっ……でも……しかたない。がっ、我慢する……」


「そんなに……泣くほど私としたかったんですか?」


「我慢っ……我慢するっ……」


「嬉しい……そんなに私としたいと思ってくれていたなんて……」


 アトーレのその言葉はより強力な情欲をユウキの内に吹き上がらせた。


 だが我慢する、ユウキはすでにそう決めていた。


 ナビ音声が心の中に響いた。


「度重なる我慢により、スキル『我慢』を獲得しました」


(スキル『我慢』、発動!)


「スキル『我慢』が発動されました。我慢強くなります」


 我慢強くなったユウキは、少しずつ己の内に吹き荒れる情欲を我慢していった。


 アトーレから遠ざかってベッドの端に座り、心を整える。


 スキル『深呼吸』を発動し、気持ちを落ち着けていく。


 さらにスキル『想像』を発動し、清浄なる凪いだ海のイメージを想像し、意識を完全にエッチなことから引き剥がす。


「大丈夫ですか……」アトーレが心配そうに横から覗きこんでいる。


「大丈夫じゃないけど……もう大丈夫だ」


 ユウキは最後にもう一度深呼吸するとベッドから立ち上がった。


 そして、改めてアトーレに助力を請う。


「お願いだ、暗黒戦士の力を貸してくれ。世界に破滅が迫っているんだ」


 アトーレは表情を引き締め、瞳をさらに暗く淀ませると、ユウキに説明を促した。


 *


 ユウキは早口で説明した。


 アトーレは速やかに状況を飲み込むと言った。


「暗黒戦士は暗黒評議会の命令にのみ従います」


「……つまり?」


「闇の塔の防御。それは確かに暗黒戦士に下される任務として相応しいものに思えます」


 ユウキは喜んだ。しかしアトーレがそれを押しとどめた。


「その任務に就くには、まず暗黒評議会に確認を取らねばなりません。それが暗黒戦士の掟なのです」


「評議会に確認……だと? 塔は今日の夕方にも襲われるんだぞ。間に合うのか?」


 アトーレはうつむいて頭を振った。


「ごめんなさい。急いでも三日はかかります」


「お役所仕事か! 公務員か!」


 これまでの人生で役所にも公務員にも恨みを抱いたことはなかったが、ついそんな決まり文句が口をついてでた。


 アトーレは申し訳無さそうにうつむいた。


「……そうです。私はハイドラの暗黒評議会に使える身……私のこの身ひとつであれば個人的にユウキの要請に従うはできますが……」


「だったら頼む!」


「ええ……私ひとりであればいくらでも死地に飛び込みます。ですがその場合、きっとユウキのお役には立てないでしょう」


「な、なんでだ?」


「なぜなら評議会からの命令がなければ、私は暗黒鎧を使うことができないからです。暗黒鎧に封じられている怨念は、評議会の命にのみ従うのです。彼女たちは私の身勝手な行動に、決して協力してはくれないでしょう」


「……だ、ダメなのか」ユウキは天を仰いだ。


 また脳裏にシオンの哀れな末期のイメージが浮かぶ。


(すまんシオン。役に立てないかもしれない……)そう心の中で謝って、もう全てを諦めようかという気になってくる。


 だが一応、もう少し粘ってみる。


(スキル『粘り』発動!)


「れ、例外は無いのかよ。普通、なんかあるだろ」


「暗黒戦士はハイドラの暗黒評議会の命によらず、その力を振るうことはできません。例外があるとすれば……」


「ほら、あるんだろ。言ってみろよ」ユウキはアトーレに詰め寄った。


「闇の塔のマスター、直々の命令であれば」


「ま、マジか!」


「ええ……なぜなら暗黒評議会は、闇の塔の建立者、伝説のマスター・エグゼドスの活動を支援するための組織として設立されたものだからです」


「いいぞ。そういうことなら、オレは現在の塔主の知り合いだ」


「ほ、本当ですか?」


「ちょっと待ってろ」


 ユウキは作業着のポケットから石版を取り出すと、シオンへの通話を試みた。


「ダメだっ……通じないっ……」


 シオンの魔力不足のせいか、それともこちらからは通じないのか、わからないがとにかく通じる気配がない。


「ユウキ……あなたが闇の塔の関係者だとは……驚きですが、不思議とわかる気がします。ですが……通話ではダメなんです。タワーマスターの、直々の、対面での命令でなければ、暗黒鎧は決して従わないのです」


(ダメか……やっぱり今日がシオンの命日となる運命なのか……)


 ユウキは今度こそ諦めてがっくりとうなだれた。


「……ん?」


 そのとき自分の左手の人差し指で銀色に輝いている指輪が見えた。


「そ、そうだ……この指輪は確か……」


(『塔主の指輪』……持ち主が闇の塔の全権代理人であることを示す指輪だったはずだ)


 かつてのシオンの言葉が脳裏に蘇る。


『この指輪があれば、アーケロン平原の各地に残されているマスター・エグゼドスの遺物を起動できるよ。それに、闇の塔に帰属する勢力を味方につけることもできるかもしれない』


(頼む……通じてくれ……!)


 ユウキは飾り気のないその指輪をアトーレに見せた。


「…………!」


 アトーレは息を呑んで目を丸くした。


 そして彼女は謎の呪文を唱えると、人差し指で『塔主の指輪』にそっと触れた。すると指輪の表面に燃えさかる闇のごとき禍々しい紋章が浮かび上がった。


「信じられません! でもこれは、確かに……本物の『塔主の指輪』……!」


 アトーレはベッドから跳ね降りると、床に膝をつき、こうべを垂れた。


「は?」


「タワー・マスターたるあなたに、敬意と恭順と、我が剣と命を捧げます」


「いや……オレはあくまで『全権代理人』とか言うものであって、マスター本人じゃないぞ」


「『全権代理人』は私たちにとってマスターそのものです」


「そ、そうか……まあいいけど」


「こちらへ!」


 勢い良く立ち上がったアトーレは、ユウキを引っ張って物置の中に連れていった。


「さあ、マスター・ユウキ、暗黒鎧にその指輪を見せてあげて」


「お、おう」


 ユウキは物置の奥で物言わず佇む暗黒鎧の前に、人差し指の指輪を掲げてみせた。


 すると、ぞろぞろと暗黒鎧の中から、暗く燃える影のような十二体の怨念が姿を表した。


 アトーレと同年代の少女に見える暗い影たちは、次々とその半透明の体をユウキの回りに並べ、床に跪くと頭を垂れた。


 さらにアトーレもその輪に加わり、ユウキの前に跪いた。


 そしてその暗闇の中で、アトーレは頭を垂れたままささやいた。


「遠き日の契約により、我らが闇の力、心の内にくすぶる暗黒の力はすべてあなたのものなり」


 そのアトーレの声に、ユウキを取り囲む十二体の怨念の声無き声が唱和した。


(すべてあなたのものなり……)


「ゆえにタワーマスターよ。我らに命令を」


(我らに命令を……)


「…………」


 ユウキは彼女らが発する真摯な雰囲気を感じとり、思った。


 ここはオレもまっすぐに答えるべきところらしい。


 ひとつ深呼吸してから口を開いた。


「暗黒戦士、アトーレに命ずる。闇の塔を守護せよ!」

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