第9話 春に猫人間は発情する
スラムの路地を見渡し、猫人間を探す。
いた。
噴水広場に続く路地を、目を拭いながらとぼとぼ歩く女性労働者の姿があった。
ユウキは一メートルの距離まで駆けよった。
だが……緊張が強くどうしても声をかけることができない。
ユウキはスキル『深呼吸』を使って気持ちを落ち着け、体の緊張を抜いた。
それでもまだ声をかけることにはためらいがある。
すでに何度かコミュニケーションした相手であっても、彼女とオレは、いまだにほぼほぼ百パーセント、他人のままだ。
しかも今、自分が何のために彼女に声をかけようとしているのか定かではない。
なんとなくの『流れ』で、ただ追いかけてきてしまった。
そしてなんとなく目的もわからぬまま、この行為の意味を把握できぬまま声をかけようとしている。
そんなことが許されるのだろうか。
意味もなく、目的もなく、他人に声をかけること。
そんなことが許されているのだろうか?
少なくともオレの自意識はそれを許してはいない。
声をかけることをやめるべき百の理由が脳内に渦巻く。
人格テンプレートはいまだ『愚者』のままであり、思考力は弱まっているというのに、それでも自意識の強い抵抗が生じ、どうしても声をかけることができない。
ユウキはその抵抗を振り切るために、心の中で唱えた。
(スキル、『無心』、発動)
今、いい『流れ』が来ているのを感じる。
この流れをいい感じで流し続けていきたい。
それがユウキの願いだった。
しかし無心の発動回数は限られている。
もしかしたら発動できないかもしれない。そしてオレは自意識に負けて声をかけたい相手に話しかけることができず、とぼとぼと道を引き返すことになるのかもしれない。
だが先程の星歌亭での休息と美味しいご飯によって『無心』のチャージが完了しているかもしれない。
頼む、発動されてくれ、『無心』よ!
「…………」
その願いが通じたのか、『無心』は発動された。
行動を阻害するさまざまな自意識で満たされているユウキの心が静かに、透明になっていく。
ユウキは声をかけた。
*
「あ、あの」
猫人間は振り返ると驚きの表情を見せた。
「あ、あんた……なんでここに……」
だが彼女はすぐにヘルメットを目深にかぶり直し、スカーフをずり上げた。
「お、おらという醜い獣を笑いに来たんだべ。帰ってけろ」
ユウキはスキル『否定』を使った。
「いや、醜くなんてないだろ」
「醜いべ! こんな耳と髭、しかも尻尾! おらの一族は呪われてるべ!」
「し、尻尾まであるのか?」
ユウキはスキル『質問』を使いつつ彼女の革ズボンに目をやった。見ると尾てい骨のあたりに確かに尻尾らしい盛り上がりがあった。
だが……。
「見ないでけろ……」
猫人間は両手で尻尾の盛り上がりを隠すようにした。
「ご、ごめん……」
つい女性の体をまじまじと無遠慮に見つめてしまった。ユウキは自分の顔が紅潮していくのを感じた。
だが恥ずかしくなってうつむいて顔をそらしながらも、さらにスキル『質問』を発動する。
「窮屈じゃないのか、それ?」
「窮屈だべ……耳も髭も尻尾も、全部が全部、窮屈だべ。でもこんな汚らわしいものを人目に晒すよりはよっぽどいいべ……」
なんだかよくわからないが自分の体が嫌いらしい。ユウキはスキル『褒める』を使った。
「かわいいのに。猫耳」
すると強い反応があった。
「そんなことないべ! 汚らわしいべ、こんなもの!」
ここでユウキはスキル『議論』を発動した。
「猫耳の何が汚らわしいっていうんだ? オレには何もわからないな。明らかにかわいいだろ」
「この耳も尻尾も髭も……おらの感情に合わせて勝手に動くべ。こんなもの、制御不能な動物の器官だべ!」
「へー。確かズボンの中で尻尾が動いてるな」
ユウキはスキル『スキンシップ』を発動し、猫人間のズボンの中の尻尾にそっと指を伸ばした。
「ちょっと触っていいか」
「ダメだべ! 触らないでけろ!」
「なんで? すごく動物感があってかわいいのに」
「その動物感が、人間として間違ってるんだべ!」
「そ、そうなのか?」
「そうだべ。あんたも知ってるべ……呪われし猫の一族は、春になると、春になると、おかしくなってしまうんだべ!」
「猫……春……というと、まさか猫が春に発情するような?」
「そ、その通りだべ……おら、そんな風になるの、ぜったい嫌だべ。現場の人らにも、おらがそんなふしだらな奴だと思われたくないべ。ぜったい!」
「そうか……だから隠してたのか。猫耳……」
「んだ。なのに、おらが猫人間だと皆に知られてしまったべ。もうあの現場には行けないべ」
「そんな気にしなくても」
「だめだべ。きっとみんな、おらが猫人間だと知ったら、春の発情を狙ってくるべ。そんなの怖いべ」
「そういう事例があるのか?」
「ないべ。なぜなら、街に出稼ぎに出てきた猫人間は春になる前に、余裕を持って里に帰るからだべ」
「なら安心だろ。なんの問題もない」
「あるべ。なぜなら、おらは春になっても里に帰るつもりはないからだべ」
「なんで帰んないんだ?」
「春には里でお祭りがあるべ。あの淫らな祭りでは発情した同胞らと、ゲストの人間が朝から晩まで発情した獣のごとき肉欲の宴を繰り広げるべ」
ユウキは絶句した。
「……さ、さすが異世界か。そんなエッチな漫画みたいな祭りがあるなんて」
「おら、あんな祭りにはぜったい参加しないって決めてるべ! 春になっても、この街で一人で過ごすつもりだべ!」
「大丈夫なのか? その時期、発情してるんだろ」
「ぜんぜん大丈夫じゃないべ。春になったら、おら、完全に頭がおかしくなって肉欲に支配された獣になるべ」
「…………」
「そんなおらの潜在的な獣性質を、誰にも知られたくないべ。なのに皆に知られてしまったべ、おらが獣だということを……だからもうあの職場にはいられないべ! ぜったい!」
そうは言っても、現実問題、猫人間は猫人間なんだから、それを否定して隠してもしょうがないだろうという気がした。
だが目に涙を浮かべて自らの獣性質を恥じる猫人間の娘に対して、性別も種族も違うオレが何を言えるというのだろう。
一応、社会的、常識的なことを言ってみる。
「でも……そんなことで仕事をやめたらもったいなくないか? 今、班長なんだろ?」
「んだ。おらは班長やらせてもらってるだ」猫人間はわずかに誇らしげに胸を逸らした。
「すごいな」ユウキは褒めた。素直に凄いと思えた。
「ありがと。おらだって本当は大穴での仕事、やめたくないべ。憧れの『大穴』の探索もできる上、生活費ももらえる素晴らしい仕事だべ」
「なら続けた方が……」
「だどもおらの貞操の方が大事だべ! おら、ぜったい貞操を大事にするべ! おらは本能に負ける他の猫人間とは違うべ! 心から愛し合う人以外にはぜったいに体を許さないって決めてるべ!」
「ふーん。ていうか……『大穴』の探索?」
「はっ。お、おら、そんなこと言ってないべ」
猫人間はいつの間にスカーフがずり落ちて顕になっていた口元を両手で覆った。
「いや、さっき確かに言っただろ。『大穴の探索』って、なんのことだ?」
興味を惹かれたユウキは『質問』スキルを使って質問した。
「お、おら、なんも知らねえだぞ。現場の監督にはいつも良くしてもらってるべ。監督の目を盗んで、仕事のあとに勝手に大穴探索なんて、おら、そんな悪いこと、ぜったいしねえだぞ」
猫人間はあからさまな嘘をついたが、じっと見つめてみると、顔を逸らして白状した。
「おら……見つけただ。『大穴』の深層フロアに繋がる隠し扉を」
「大穴の深層フロア……だと? そんなところに何があるんだ?」
「沢山のアーティファクトが眠っているらしいべ」
「アーティファクトというと……魔法のお宝みたいなもののことか。例えばどんな?」
「おらが欲しいのは伝説の『種族変化の秘薬』だべ。それを飲んで、おら、淫蕩な猫人間をやめるべ。お、おら……そのためにソーラルに来て、『大穴』で働きはじめたんだべ! んだども仕事の方が楽しくなってしまって……」
「ふーん」
「『大穴』の下層フロアには、『種族変化の秘薬』以外にも、『闇の塔へのポータル』や、『若返りの泉』や、『竜の巣』やら、興味深い魔法の施設がたくさん眠ってるべ」
「へー」
「おら、物資搬出の合間に見つけたんだべ。古の冒険者たちが探索し冒険した、剣と魔法がモノを言う恐るべき迷宮深層への隠し扉を」
猫人間は瞳をキラキラと輝かせた。
「へー。『大穴』での冒険ね……もしかしてそういうの、憧れてるのか?」
猫人間は恥ずかしそうに顔を手で覆った。
どうやら憧れているらしい。
「そんな憧れの職場、やめるなんてもったいないだろ」
「だって……怖いべ。男の人間が、みんなおらの発情期を狙ってると思うと、この先とっても働いてける自信がないべ。やめるしかないべ……封印されし深層フロアにひとりで潜る自信も無いべ……」
そのときユウキは素晴らしいナイスアイデアを得た。
ユウキは深く考えずそのアイデアを口頭で発した。
「わかった。明日からオレも『大穴』の現場で働いてみる。そして君を守ってやる。深層フロアとやらにも一緒に潜ってやる。それでいいだろ」
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