第289話 予感

「ねえお兄ちゃん、文香ちゃんは?」

 妹の百萌ももえが言った。


 目を開けると百萌はいつのまにか俺の部屋にいて、ベッドの上の俺を揺すっている。

 俺は、昨日、っていうか、今日の朝までゲームをしていて、いい加減疲れて横になったまま眠っていたのだ。


 枕元の目覚まし時計を見ると、もう、昼の二時を過ぎている。

 いくら夏休みとはいえ、生活がだらだらしすぎだって反省した。


「ねえ、文香ちゃんどこいったの?」

 百萌が重ねて訊く。


 デニムのショートパンツにボーダーのタンクトップの百萌。

 百萌からはパイン飴みたいな匂いがした。


「……文香なら、駐車場にいない?」


「いないからお兄ちゃんに聞いてるんでしょうが」


 確かに。


 俺は渋々起き上がってカーテンを開けた。

 真夏の日差しに目を焼かれる。

 晴れた空には夏らしい入道雲がもこもこと湧き上がっていた。


 窓からいつも文香がいる隣の家の駐車スペースに目をやると、そこに文香の姿はない。

 文香がいないから駐車スペースのコンクリートが温まって、陽炎が立ち上っていた。


「あれ? おかしいな」

 文香はどこかに出掛けるとか言ってなかった。

 昨日から今朝方まで一緒に「クラリス・ワールドオンライン」にログインしてて、ずっとゲームをしていた。

 文化祭期間中、入れなくて消化してなかったイベントを、二人で頑張ってたのだ。

 まだ全部のイベントを消化しきれてなかったから、起きたら続きをやろうって約束してた。

 それが、なにも言わずにどこかにいってしまった。


 だけど、こういうことはよくあった。


 文香が何も言わずにふらっといなくなって、しばらくしたら何事もなかったように帰って来ることはよくある。

 帰って来た文香は、装甲のどこかに傷が付いてたり、弾痕が残ってたりした。

 どこに行ったのか、文香も月島さんもそれについては口をにごした。

 だからこっちも、深くは追求しなかった。

 文香からも、月島さんからも、追求するなっていうオーラが出ていた。

 鈍感な俺にも感じ取れるくらいのオーラだった。


 それは本当に触れたらいけない部分だって解った。


「お兄ちゃん、聞いてないの?」


「うん、聞いてない」


「なんだ、宿題と受験勉強手伝ってもらおうと思ったのに」

 百萌が口を尖らせる。


 もう百萌にとっては文香が実の姉のような存在になっていた。

 勉強を教えてもらうといいながら、百萌は文香になんでも相談して、女子トークで盛り上がってるのを知っている。


「宿題、お兄ちゃんが見てやろうか?」

 俺は言った。


「お兄ちゃんなら結構です」

 百萌がそう言って舌を出す。

 その出した舌の先まで可愛い百萌。


 百萌よ、いよいよお兄ちゃんに対してそんな口をきくようになったのか…………


 娘に一緒にお風呂に入ってもらえなくなった父親の気分を味わったような気がした。


 このままだと兄の威厳が保てないから(はたして今までそんなモノがあったかかどうかは疑問だけれど)、文香にLINEやメールで連絡を取ろうとしたけど、向こうから返事はなかった。

 地球上どこにいても繋がる文香の衛星電話に掛けても繋がらない。


 今度は月島さんの方にも掛けてみた。

 だけど、月島さんのスマホは電源が切ってあるみたいだ。



 ちょっとだけ、嫌な予感がした。

 今までもこういうことはあったけど、なにか胸騒ぎがする。


 俺は、下に降りて隣の家を覗いてみた。


 レースのカーテンが閉まったリビングの窓から覗くと、家の中はさっぱりと片付いている。

 リビングのテーブルの上にビールの空き缶が転がってることはないし、つまみのカルパスの包み紙が散乱してることもなかった。

 ソファーの上にデパートの紙袋が積み上がってることもない。


 普段、散らかし放題の月島さんがこんなふうに部屋を綺麗にしてることに、ただならぬ違和感を持った。


 俺の予感が当たろうとしている。


 俺は一旦自分の家に戻った。


 自分の家のテラスから隣の家のテラスに渡って、二階の窓に手を掛ける。

 隣の家の二階の窓は、さんが少しガタついていて、上下に動かすと簡単に外れる。

 それは、ここに今日子が住んでいた時からそうだった。

 鍵を忘れたとき、今日子はこれを利用してうちから自分の部屋に入ったりしてた。


 俺は桟を上下にガタガタと動かす。


 果たして桟が外れた。


 窓に掛かったカーテンを手繰って部屋の中を見ると、月島さんの部屋は空っぽになっている。

 何もない部屋の床はピカピカで、ヘアピン一つ落ちてなかった。

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