第217話 胸を貸す

 昼を過ぎた頃から、雨も風も目に見えて弱くなった。

 ダークグレーの絨毯じゅうたんみたいに空を埋め尽くしていた雲に、所々切れ間が見えている。

 つけっぱなしにしてるテレビの予報でも、天気予報士が台風の上陸はなくなったと言っていた。

 進路の予報円は、台風が急カーブして太平洋上へ逸れる図を描いている。

 そのカーブは、まさにヘアピンって言ってもいいくらいの見事なカーブだ。


「こんな急旋回をするとは、なにか人知の及ばない大きな存在が、我々に文化祭をやれと言っているのかもしれないな」

 テレビを見ながら花巻先輩が言った。

 先輩、感慨深げに大きく頷いている。


「は、はい、そうですね」

 俺は相槌あいづちを打った。


 声が震え声になってたと思う。


 確かに、文香の仕業なんだから、先輩が言うように人知ではないんだけど。



「文香ちゃん、良かったね」

 伊織さんが縁側に出て、文香の装甲を撫で撫でした。


「うん!」

 文香が砲身を上下させて頷く。

 文香は興奮してて、いつもより大きく上下させていた。


「きっと、文香ちゃんのお祈りを神様が聞き入れてくださったんだよ」


「うん! きっとそうだね!」

 伊織さんの言葉に平然としらばっくれるところなんて、文香も成長したものだと思う。


「くくくくく………………台風がここを避けるように急旋回したってことは、私の儀式が通じたんだわ」

 稗田さんが嫌らしく笑った。

 いや、台風の進路を変えたのは文香なんですけど。


 ってか稗田さん、まだいたんですか…………

 先輩から借りたジャージのままの稗田さんが、不敵に笑っている。


「私はついに、天気を自由に操るすべを手に入れたわ。これこそ、我が超常現象研究会の集大成。文化祭でも、必ず魔王を復活させるわ!」

 稗田さんはそう言うと、部室を出て、小雨の中校舎の方へ走っていった。


 これで味を占めた稗田さん達が、またなんかやらかさないといいけど。



「よし、これでもう、文化祭の中止や大雨対策の必要はなくなった。明後日からの文化祭は予定通り開かれる。皆、心して挑むように」

 先輩が言って、俺達が文化祭実行委員が、

「はい!」

 って声を揃えた。


「とりあえず、雨風で壊れた施設などないか分担して点検しようではないか」

「はい!」

 先輩の言葉に従って、俺達は校内に散った。


 俺は、グラウンドを中心に校内を見回る。



 まず、グラウンドの脇の校門から校舎までの通路に並んだ出店を見にいった。


 幸い、出店のテントは全部無事で、中の備品とかにもほとんど影響はなかった。

 出店をやるクラスや部活の生徒が、裸足になって地面に溜まった雨水を掻き出す作業をしている。

 これから晴れていけば、すぐに乾いて店を開くのに影響はないだろう。


 そのまま校門脇の四式中戦車を飾るステージを見に行ったけど、そこにも異常はなかった。

 四式中戦車にかけられた白い幕がちょっとめくれてたくらいで、ステージにも、見学の順路に立てた柵にも手直しの必要はない。


 美術部が作ったおどろおどろしいデザインの校門も、濡れて不気味さが増してるだけで、壊れた箇所はなかった。


 グラウンドに組んだステージも無事だった。

 元々グラウンドのステージは文香が乗れるくらい頑丈に作ってあるから、それも当たり前か。

 だけど、稗田さんがあの怪しげな儀式に使ったと思われる蝋燭ろうそくとかさかきの枝とかが散らかってたから、それは片付けておいた。


 俺の見回った範囲は、どこも異常はない。

 このまま、すんなりと文化祭当日を迎えられそうだった。




 見回りを終えて帰ると、まだみんな見回りの最中みたいで、部室には花巻先輩しかいなかった。

 先輩、部室の台所で一人、佇んでいる。

 エプロン姿の先輩が、こっちに背を向けて何もしないで立っていた。


 その時、すっ、って先輩が鼻を啜る。


「先輩?」

 俺は後ろから呼びかけた。


「おお、小仙波か、早かったな」

 先輩が言う。

 その先輩の声が、ちょっと鼻声になってるのに気付いた。


「どこも異常はありませんでした、けど…………」


「おお、そうか。それは良かった」

 先輩がそう言って振り向く。


 すると、先輩の目から涙が伝っていた。

 涙の筋が先輩の頬を伝って、ピンクのエプロンにシミを作っている。


 先輩、台所で泣いてたらしい。


「先輩、どうしたんですか?」

 俺はびっくりして、思わず先輩に駆け寄ってしまった。


「はは、恥ずかしいところを見せてしまったな」

 先輩が鼻声のまま言う。

 涙を流しながら、俺に笑顔を作って見せる先輩。


「なに、悲しくて泣いているのではない。嬉しいのだ。私は、文化祭が開けてたまらなく嬉しいのだ」

 先輩は言いながら涙をエプロンで拭った。


 中止になるかもしれないって絶望的な状況から、問題なく文化祭が開けることになって、先輩、感極まってたのかもしれない。

 文化祭のために命をかけてるような人だから当然か。

 感極まってもみんなの前で泣くわけにはいかないから、こうして一人で泣いてたんだろう。


 だけど、泣いてる先輩を見て、俺はなんて声をかけたらいいのか分からない。


 すると花巻先輩が、

「小仙波、すまないが少し胸を貸してくれるか?」

 そう言って、俺の胸に寄りかかってきた。

 俺の胸に寄りかかって、片方のほっぺたをくっつける先輩。


「少しのあいだ、こうしていてくれ」

 先輩が言った。


「……はい」

 こんな俺の貧弱な胸でいいなら、喜んで貸す。


 先輩の背中に手を回そうか止めようか迷って、結局俺はそのまま固まっていた。


 何事にも動じずに突っ込んでいく力の塊みたいな先輩にも、こうやって胸を借りる相手が必要な時があるのだ。

 目の前にいたのが俺だったから寄りかかっただけだ。


 俺はそう理解する。


「私は誰にも涙を見せないつもりで生きてきた。涙を見られたからには、責任を取ってもらわないとな」

 俺の胸に寄りかかったまま、先輩が悪戯っぽく言う。


 責任?


 責任って、どう責任を取るんでしょう?

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