第127話 伏兵

 二月十四日、バレンタインデーの朝だ。


 朝四時に起きてシャワーを浴びて、すでに髪型は完璧に整えている。

 昨日の夜アイロンをかけた制服もピシっとしていた。

 念入りに顔を洗って、眉毛もちゃんと整えた。


 最後に、六角屋から教えてもらった、女子にも受けがいい香水を、少しだけつけた。


 準備が整って、改めて鏡を見てみる。


 自分で言うのもなんだけど、自分史上、一番清潔感にあふれてると思う。

 見てるだけで、ミントの香りがするくらいの清潔感があると思う。



 朝ご飯を食べて、念入りに歯を磨いて、いよいよ出発する。


 玄関で靴を履いてると、

「はい、お兄ちゃん。これ持ってって」

 妹の百萌が、何か厚い紙を折ったような物を渡した。


「なにこれ?」

 俺は訊く。


「紙袋だよ」

「紙袋?」

「お兄ちゃんも今年はチョコレート少しは期待できるんでしょ? 持って帰るのに必要になるかもしれないから、念のため、持って行きなさい」

 百萌がそう言って微笑んだ。


 なんというプレッシャー。

 妹よ、兄にこの紙袋を一杯にしてこいって言うのか?


「安心して、もし万が一、一つももらえなくたって、百萌がちゃんとあげるからゼロってことはないよ」

 百萌が生意気を言った。


 兄想いすぎる百萌の言葉に感動したから、とりあえず抱きしめておく。

 抱きしめてほっぺたスリスリしておいた。




「おはよう」

 玄関を出ると、文香がエンジンを暖気して待っている。

「おはよう」

 俺はいつも通り文香の車長席に乗り込んだ。


「それじゃあ、出発するね」

「うん」


 なんだか、お互い意識してしまって、会話がぎこちなくなった。

 文香は文香で、(たぶん)俺にチョコレートを渡すことを考えてて、緊張してるんだと思う。

 昨日の晩は、眠れなかったんだと思う。


「いい天気だね」

 会話がないところで、文香が天気デッキで話してきた。

「そうだね」

 俺は頷く。

 確かに空は晴れていて、雲一つなかった。


「しばらくは、こんな天気が続くみたいだよ」

「へえ、そうなんだ」


 やっぱり、会話が続かない。


 文香、バレンタインデーの話題を出さずにすっとぼけてるけど、文香の車内はチョコレートの匂いが充満していた。

 きっと、この車内のどこかに、俺や六角屋に渡すためのチョコレートの包みが隠されてると思われる。


 文香がとぼけてるから、俺も気付かないふりをした。




 いつも通り、学校の少し手前で文香から降りる。

 文香が裏門に回って、俺は正門から入った。


 正門を抜けようとしたら、門のところに他校の女子がいる。

 古風な茶色のジャンパースカートの制服の三人は、雅野みやびの女子学院の生徒だ。

 この日にここに来てるってことは、我が校にも、雅野女子のお嬢様からチョコレートをもらえる幸せ者がいるらしい。


 そんなふうに考えて横を通り過ぎようとすると、

「あっ、小仙波さん!」

 その中の一人が俺に声をかけてきた。

 長い髪を三つ編みにして、絶対に委員長をしてそうな雰囲気の女子だ。


「えっと…………ああ!」


 改めて見たら、記憶が蘇ってきた。

 以前、俺達が文化祭を手伝ったときの、実行委員の代表者、橘さんだ。

 あのときは仮装のビキニアーマー姿だったから、気付かなかった。

 それに、その横にいる二人は、同校の文化祭で、俺が案内されたメイドカフェで、俺にオムライスを食べさせてくれた女子だった。


 俺は、その三人に囲まれる。


 我が校の生徒(特に男子)が、「マジか」みたいな顔で通り過ぎた。


「あの、チョコレート受け取ってください」

 橘さんが代表して言って、三人がチョコレートの入った包みを差し出す。

 ハートの模様の包装紙とか、ストライプのシンプルな包装紙とか、レースでフリフリの包みとか、三者三様だ。


「授業前にごめんなさい。でも、私達の学校は校則が厳しくて、持ち物検査されて没収ぼっしゅうされてしまうかもしれないので、こんな時間に伺いました」

 橘さんが説明した。

 持ち物検査とか、やっぱり、歴史あるバキバキの女子高である雅野女子だ。


「あ、ありがとう、ございます。でも、いいんですか?」

 文化祭実行委員として手伝いをした橘さんはともかく、他の二人は、ただ俺が模擬店のメイドカフェにお邪魔しただけだ。


「いいんです。小仙波さんが初めてのお客様で、小仙波さんにお相手をして頂いて、緊張がほどけましたから」

 二人が言ってくれる。


「手作りですので、後で感想を聞かせてください」

 橘さんが言う。


 ってことは、少なくともあと一回は、この三人に会えるのか。


「それでは、ごきげんよう」

 三人は、そう言い残して行ってしまった。


 ごきげんよう、か…………


 三人が行ったあとでもしばらく、薔薇ばらのような残り香が周囲に充満していた。


 とにかく、もらってしまった。

 俺の手の中に、チョコレートの包みが三つある。


 とうとう俺、母と妹と、今日子以外から、チョコレートをもらってしまったんだ。



「ちょっと、あんた、顔、とろけてるよ」

 校門でしばらく感動に打ち震えてたら、後ろから声をかけられた。

 我に返って振り向くと、そこに立ってるのは今日子だ。


 今日子は一部始終を見てたらしく、俺に対して眉を寄せていた。


「あんた、もうちょっとしっかりなさい。いくらお嬢様学校の生徒だからって、チョコ一つで魂抜かれたみたいになってたら、こっちが恥ずかしいじゃない」

 今日子はそんなことを言う。


「チョコもらって卑屈ひくつになってないで、気の利いた言葉の一つや二つかけて、胸を張ってなさいよ」


 いや、そんなこと言われても……


「もっと自信を持ちなさい。あんた、自分が思うより…………って、もう! 何言わせんのよ! 知らない!」

 今日子はなんか言いかけて、ぷりぷり怒りながら行ってしまった。


 まったく、なんなんだ。



 とにかく俺は、もらったチョコレートの包みを、紙袋に入れた。

 なんか、遠くから俺を見てる刺すような視線を感じたし。

 雲一つない空で、頭上から、偵察衛星のカメラで覗かれてるような、ゾクッとする視線が俺に向けられていた。



 それにしても、朝、百萌に持たされた紙袋が、さっそく役立つとは思わなかった。

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