第74話 ベンチコート
午前三時過ぎて、
「小仙波君…………小仙波君…………」
暗がりに目をこらすと月島さんがいる。
スーツ姿の月島さんが、口の前に指を一本立てて、声を出さないようにって仕草をした。
そして、そのまま俺の手を引く。
俺は、横に寝ている今日子と伊織さんを起こさないよう、静かに布団から出た。
寝相が悪い伊織さんが俺の腕を枕にしてて、今日子が俺の股を抱き枕みたいにしてたから、そんな夢のような場所から出るのは、名残惜しくはあったんだけど。
俺は月島さんの後に続いて居間から中庭に出た。
縁側のガラス戸を静かに閉める。
部室の外はしんしんと冷えていた。
高い空に雲一つなくて、無数の星が輝いている。
辺りが静まり返ってるから、星の瞬きも聞こえそうだった。
「寒いでしょ?」
月島さんがそう言って、自分が羽織ったダウンのベンチコートの中に俺を入れくれる。
俺は月島さんに後ろから抱っこされる形になった。
月島さんがつけてる香水のスパイシーな香りに包まれる。
「ふう」
俺を抱っこした状態で、月島さんが大きな溜息を吐いた。
大人の女性の深い溜息に、俺はどう対応したらいいのか分からなかった。
ただ、月島さんがもたれかかってきたから、俺は両足を踏ん張ってその体重を支える。
「文香、どうなりました?」
まず俺は訊いた。
一番知りたいことだったし、月島さんは俺にそれを伝えに来たんだと思う。
「うん、駐屯地に戻ってるけど、彼女は大丈夫だよ」
月島さんから訊いた途端、無意識に、目の端にジワッと涙が浮かんできた。
「なにがあったんですか?」
俺は、涙声になってないか心配しながら訊く。
「小仙波君、私が話すことは内緒だよ」
少し間があったあと、月島さんが言った。
「はい」
俺は頷く。
「明日のニュースで、今から私が話す内容とは全く別の報道がされても、人に言ったら駄目だよ。君は今まで私の身分を秘密にしておいてくれたから、信用して話すの。文香の理解者である君には、本当のことを話しておきたいから」
月島さんが背中から俺の顔を覗き込んだ。
「はい、約束します」
俺は振り返って月島さんの目を見て頷く。
それを確認して、月島さんが話し始める。
「昨日、グラウンドで文香がいきなり発砲したのは分かるよね」
「はい」
「あの時、コンピューター室の窓から、グラウンドの反対側の山の方に煙が立ってるのが見えてたの分かった?」
「はい」
確か、文香がいたグラウンドから遠く離れたところで、黒くて細い煙が立ち上っていた。
「実はあの時ね、文香に低空で近づくドローンがあったの。文香は、反射的にそれを打ち落としたのね。それは、文香の意思とは関係なく、別系統で危険を
「まあ、分かります」
俺だって目の前に虫が飛んできたらびっくりして手で追い払うけど、別に、虫を殺してやろうとか、虫が憎いとか、そんなこと考えて追い払うわけじゃない。
「だから、文香には
落ち込んでる文香の姿が、簡単に想像出来た。
「クラリス・ワールドオンライン」のゲームの中でも、クエストに出て、文香のちょっとしたミスでボスを倒せなかったとき、文香はこの世の終わりみたいに落ち込んでいた。
俺やギルドのメンバーが気にしてないって言っても、恐縮しきりだった。
文香は責任感が強いのだ。
「ねえ、小仙波君」
月島さんはそう言って、後ろから抱きしめている俺の肩に
月島さんの髪が俺のほっぺたをくすぐる。
「お願い。もし、文香がここに帰ってくることがあったら、優しくしてあげて。彼女のどんなわがままも聞いてあげてほしいの」
月島さんが言った。
いつも凜々しい月島さんが、いつになく弱気だ。
「それはもちろん…………」
俺は答えた。
でも、もし、文香がここに帰ってくることがあったら、って、なんだその前提。
それって、帰ってこないってパターンもあるってこと?
「それで、文香が打ち落としたドローンって、誰が、何の目的で飛ばしたんですか? 文香を狙ってたんですか?」
俺は訊いた。
「さあ。それは、その
アメリカ軍?
それって、誰かが面白半分に飛ばしたとかじゃなくて、どこかの国とか組織の仕業ってこと?
文香の機密を盗むために飛ばしたとか、そういう話?
気になって続きを訊こうとしたけど、月島さんはそれに関しては、もう何も言わないっていう雰囲気を
だからそれ以上訊けなかった。
「ふう」
月島さんがもう一回ため息を吐く。
そのため息が深くて、濃い黒色のそれが、足下にヘドロみたい溜まるのが見えるようだった。
月島さん、こうして俺にもたれかかってるけど、精神的にももたれかかる相手が必要なんだと思う。
そんなこと考えてたら、俺は、思わず振り返って月島さんの頭をいいこいいこしてしまった。
文香が反射的にドローンを打ち落としたみたいに、自然に手が出た。
月島さん、最初はびっくりして暗闇で目を丸くしてたけど、そのうち、俺のいいこいいこに身をゆだねて目を
「男子高校生にいいこいいこされたら、お姉さんもう、頑張らないといけないよね」
月島さんが言った。
「ん、んん」
後ろで誰かが咳払いする声が聞こえてびっくりして振り向くと、そこに花巻先輩が立っている。
「おお、山崎先生、戻ってこられたのですか?」
花巻先輩が訊いた。
寝てたはずなのに、先輩の声は寝起きの声じゃなくてはっきりとしている。
「ええ、さっきね」
月島さんが言って、慌てて俺から離れた。
月島さんのベンチコートから外れた俺は、寒さに震える。
「ははは、皆で鍋をつつきながら少々飲み過ぎたようで、夜中にトイレに立ちたくなりましてね。ははははは」
花巻先輩はそう言うと、縁側の廊下をトイレの方に歩いていった。
しばらくして、バタンとトイレのドアが閉まる音がする。
先輩、いつからそこにいたんだろう?
俺達の話、どっから聞いてたんだろうか?
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